乃木希典像 平成16年10月1日

乃木希典 のぎ・まれすけ

嘉永2年11月11日(1849年12月25日)〜大正元年(1912年)9月13日

京都市伏見区桃山町にある乃木神社でお会いしました。


乃木希典

御先祖は、宇多天皇第八皇子敦賀親王の後裔佐々木四郎高綱公です。
高綱公は1284年宇治川の合戦で義経の軍を勝利に導き功名手柄をたてた方です。
乃木希典は吉田松陰を追慕し、16才のとき玉木文之進の門に入り学問を進め文学、哲学を志しましたが、父希次の家庭教育により武官の道を歩むことになりました。
文学者としてその詩風は大陸的、叙情的であり、今日もってその評価は世人の追随を許すものではありません。

武人としての評価は分かれるところであり、西南戦争のとき軍旗を失い自決しようとしたが、諫められ、日露戦争では、明治天皇に復命の際、「旅順の攻撃には半年の長日月を要し多大の犠牲を供し・・・・・」と述べて、自分の作戦の失敗から多くの国民の命を落としたことの責任を痛感され、死をもって国民の前に謝罪したいといわれた。
「愧ず我れ何の顔あってか父老に看ん」という詩も、乃木希典の人間性を素直に現わしています。
しかし、明治天皇は「今は死すべきときでない」と慰撫し、悲痛の乃木希典に、その心で昭和天皇の教育を頼むということで、学習院院長にと発議し任命されました。
学習院院長在任中の明治45年(1912年)夏のこと、生徒を引率して鎌倉に水泳訓練に行っているとき、天皇の容態の急変を知らされ、急いで東京へ帰り病床を見舞ったが7月30日、天皇は崩御になった。
乃木希典の死の許されるときがきたと思われたことでしょう。
9月13日静子夫人を伴って葬儀に参列し、天皇に最後のお別れをした後、赤坂の自宅にもどり、二階八帖の間に於いて自決されました。
武官としての作戦の責任と、多くの犠牲を深く恥じた乃木希典のこの自刃は文人としての心情に裏打ちされた武士道・明治の終焉でありました。

(『京都 乃木神社要記』より)

学習院長時代の乃木将軍像



『学習院長時代の乃木将軍』像

小倉右一郎 作




(平成16年10月1日)
長府乃木旧邸




『長府乃木旧邸』





(平成16年10月1日)

【長府乃木旧邸】

〜(前略)〜
乃木大将の父十郎希次は江戸麻布毛利邸で槍術及礼法小笠原流の指南番をする禄高150石の武士でした。
しかし安政の大獄(1858)の際幕府の忌諱に触れ江戸払い減禄二分の一となりました。
その後長府(山口県)に帰り閉門蟄居の身で住家なく足軽の家を借りてそこに住われたのです。
その家がこれに見る旧邸です。
ここに家族7人が住われ右側の米搗場では乃木少年が米を搗きながら本を読んだところです。
この等身大の塑像は大将の父希次と母寿子と少年時代の大将の姿で大将の甥長谷川栄作氏の作によるものです。
大将は幼名を無人と云い、幼時には3歳下の妹にさえ度々泣かされたというほど気弱温順な性格であり、一方では兄弟思いで妹達のお守りをしたりその髪を結ってやったり、又器用に針を使って縫物をするという男らしさよりも女らしさを多分に持った少年でした。
両親はこのような乃木少年を腑甲斐なく思いその家庭教育の方法を考え毎朝出仕前に必ず一条の教訓を与えて出かけるようにしました。
その場面がここに現わされています。
このような中で成人され戊辰戦争に従軍し萩の乱や西南の役の鎮定に活躍され日清戦争で旅団長となり戦後台湾総督を経て日露戦争が始まると第3軍司令官として旅順攻略をなし後軍事参議官、宮内省御用掛学習院長などを歴任されました。

(説明板より)

米搗きをする乃木少年像


米搗こめつき場で読書をしながら米を搗きをする乃木少年


確か萩の松下村塾にも同じ話があったような気がします。
吉田松蔭も読書をしながら米搗きをしたとか・・・
よく「不真面目だ!」と怒られなかったもんだ。


(平成16年10月1日)
教訓を受けている情景



父親から教訓(説教?)を受けている情景

向こうにいるのが父親・希次
手前の背中を向けて座っているのが希典。



(平成16年10月1日)
記念館・第3軍司令部




記念館・第3軍司令部
(見学自由・無料)




(平成16年10月1日)

【記念館】

この記念館はもと中国東北区柳樹房にあった周玉徳・周金御夫妻の住宅で日露戦争の際、第3軍司令部として使用されていたものである。
明治天皇の御大葬は明治45年9月13日であった。
この時京阪電車の代表として御大葬に参列を許された村野山人取締役は、この朝乃木大将の自殺を知り深い感銘と衝撃を受け、明治の終焉を痛感された。
氏は乃木大将の一周忌を期して京阪電車を退職し、乃木神社の建立に残りの生涯と私財を奉じられた。
その際村野氏が現地に赴き、周氏にこの家屋の買付け交渉を行い、譲渡許可を得て解体し、資材一切をここに運び移築して記念館としたものである。
なお、外部様式と左手奥の間(乃木大将寝室)は当時のまま今に伝え、他は改装し展示館としたものである。

(説明板より)

乃木大将寝室



記念館内部
(乃木大将寝室)

左のダルマさんが置いてあるところがベットかな?



(平成16年10月1日)
展示室



記念館内部
(展示室)





(平成16年10月1日)
宝物館



宝物館
(見学自由・無料)





(平成16年10月1日)

【宝物館】

創建と同時に建てられた館内には乃木大将直筆の書を初め、大将や静子夫人が日常御使用になった品々や、同時代の雑誌、写真など数百点が展示されています。

(『京都 乃木神社要記』より)

宝物館内部



宝物館内部
(2階)





(平成16年10月1日)
乃木神社


京都・乃木神社
(京都市伏見区桃山町板倉周防32)

乃木希典大将を祭神とする全国乃木神社の中で最初に建てられた神社です。



(平成16年10月1日)

【神門】

神門は四脚入母屋造りの木造銅板葺きの大門です。
木材は、乃木大将が台湾総督をしておられたことから、ゆかりの深い台湾阿里山の樹齢3000年を経た大檜一幹をもって造られており、殊に扉は幅6尺3寸(180cm)の一枚板という実にめずらしいものであり、神門としての大きさでも日本屈指のものとされています。

神殿



神殿

桃山御陵(明治天皇の墓)が北側にあるので、北面して鎮座しています。



(平成16年10月1日)

【乃木希典】

嘉永2年(1849年)11月11日、江戸麻布の長州支藩「長府毛利家」上屋敷の長屋で生まれた。
父・希次まれつぐは150石の馬廻うままわり役であったが、剛直なために、やがて重役たちに嫌われ、藩主に讒言ざんげんされ、50石に落とされた。
希典は三男であったが、長男、次男が早死にし、事実上の長男となった。
幼名は無人なきとである。
父希次、母寿子は、無人を厳格に育てた。
吉田松陰の実父・杉百合之助の末弟・文之進は、玉木家に養子に行った。
玉木の教育は、私情私欲を去れということに徹底していて、愛の鞭むちなどといういうものではなく、惨憺さんたんと言えるほど峻厳しゅんげんであった。
萩の玉木家と、下関の東方にある長府の乃木家は、遠い親戚であった。
元治元年(1864年)、希典は15歳のとき家出して萩の玉木家に行き、内弟子にしてもらった。
玉木は、かつての門弟、松陰の「士規七則」の原稿(松陰の直筆)を希典に渡し、「この心得をもって生きよ」と言った。
「忠孝を本とせよ」ということである。

翌慶応元年(1865年)、希典は玉木の斡旋で、長州藩校・明倫館に入学した。
翌慶応2年の夏、幕府と長州の戦争が起こった。
希典は、総指揮官・高杉晋作、部隊長・山県有朋の奇兵隊に入り、小倉攻撃に参加して奮戦し、左脚に貫通銃創を負った。
17歳だった。

高杉晋作、山県有朋、伊藤博文井上馨らとのクーデター戦から、維新前後にかけての戦いで目覚ましい活躍をした長州藩報国(御楯みたて)隊総督の御掘耕助は、希典の従兄で、希典の面倒をよくみた。
明治政府が出来た時、報国隊の漢学助教をしていた希典は、御堀から新政府の軍人になるよう勧められ、その気になった。
長州藩令により、希典は、京都、大阪でフランス式教練を受ける。
その後、藩の事情で再び長州に戻り、豊浦(山口県西岸)藩の陸軍練兵教官となった。

御堀は肺結核となり、明治4年(1871年)5月13日に亡くなるが、その少し前に、薩摩藩出身の陸軍中将・黒田清隆に22歳の希典を紹介し、「陸軍に入れてやってくれ」と頼んだ。
希典は、11月22日、東京の黒田邸で、黒田から「おはんは明日から陸軍少佐だ」と言われ、翌日、辞令が出た。
「わしの生涯で、この日ほど嬉しかったことはない。明治4年11月23日という日は、いつまでも暗記している」と希典は晩年も、よくこう言った。
ゼロから一気に少佐という例は、滅多にない。

明治7年9月、乃木少佐は、山県有朋陸軍卿(のちの陸軍大臣)の伝令使(副官)となり、翌明治8年、熊本鎮台歩兵第14連隊(駐屯地:小倉)の連隊長心得に任命された。

(参考:生出寿 著 『謀将 児玉源太郎』 徳間文庫 1992年12月 初版)

(令和元年7月23日 追記)


西南戦争・軍旗を奪われる 

明治10年(1877年)2月22日未明、西郷隆盛を頭首とする薩摩軍約1万3千人が熊本城に対する攻撃を開始した。
籠城する鎮台部隊約3千300人は、一歩も退かずに抗戦した。
この夜、熊本北方の植木付近で、連隊長心得・乃木希典少佐が率いる歩兵第14連隊主力が薩摩軍と交戦した。
谷干城司令長官の命を受け、乃木軍は熊本城に入城しようとして南下している途中、薩摩軍に遭遇したのである。
乃木軍は押され、後退した。
そのとき戦死した旗手・河原林雄太少尉が背負っていた連隊旗が薩摩軍に奪われた。
連隊旗喪失に愕然とした乃木は、捜しに引き返そうとしたが、誰も乃木について行こうとしない。
乃木は諦め、さらに後方へ部隊を引き下げた。

植木付近の夜戦で連隊旗を奪われた乃木希典は、その後、死に物狂いで奮戦した。
2月27日には、薩摩軍最強の桐野利秋隊と高瀬付近で戦い、右足を敵弾に貫通された。
野戦病院に収容されたとき、乃木の軍服、剣鞘けんしょうに、弾痕だんこんが11もついていた。
乃木は、連隊旗と戦場の部下たちを思い、病院から脱走して戦線に戻り、モッコに乗って指揮を続けた。
乃木軍は4月1日から、植木西方の木留攻撃を開始した。
4月9日、乃木は左腕を敵弾に貫通され、高瀬の野戦病院に送られた。

熊本の戦いは4月15日に終わり、乃木は4月18日に熊本城に入った。
連隊旗を奪われたことにひどく責任を感じて、重度のノイローゼに落ち込んでいた。
乃木は、谷鎮台司令長官を通じて、征討総督本営の参軍・山県有朋へ、4月17日付の「待罪書」を提出した。
「進退伺い」である。
5月9日、征討本営は「喪失」として処置を決定し、乃木は無罪放免になった。

軍旗喪失の真相は、薩摩軍の兵士が、旗手・河原林少尉を斬殺して、体に巻いていた連隊旗を奪ったのである。
薩摩軍はそれを、熊本城の籠城部隊の目先で振り回しからかった。

連隊旗はその後、つぎのようになった。
田原坂が突破された直後、薩摩軍の別府晋介、辺見十郎太、桂久武らは、弾薬と兵士を集めに鹿児島に帰った。
この時、桂は、5番大隊小隊長・村田三介が持っていた歩兵第14連隊旗を預かり、鹿児島で、村田の妻・佐和子に渡した。
翌明治11年の春、佐和子は警察の取り調べを受けた。
初めは「焼いた」と言い張った。
村田は戦死していたし、何にも代えがたい遺品と思っていたのである。
しかし、拘留すると言われ、生れたばかりの次男を育てることができなくなるので、ついに隠していた連隊旗を提出した。
前夜、彼女は亡き夫に詫びながら泣き明かした。

政府軍は、連隊旗を奪われたという噂を消すために、「奪い返した」と、デマ宣伝をしていた。
しかし、連隊旗は戻った。
ところが歩兵第14連隊には既に、明治11年1月に新連隊旗が下賜されていた。
旧連隊旗は外聞を憚り、密かに武庫に納められた。

無罪放免にはなったが、連隊旗が熊本城の目先で振られていたという噂を耳にしていた乃木は、自責の念に堪えられず、自殺を思いつめていた。
児玉源太郎は、谷司令官に進言し、乃木を監視しやすいように、自分と同じく、鎮台司令部付参謀にしてもらった。
そのうえ乃木は、児玉よりも一級上の中佐となったが、それでも沈んでいる。
ある夜、様子がおかしいと感じた児玉は、乃木の部屋を覗いた。
乃木は軍刀を腹に突き立てようとしていた。
児玉は部屋に飛び込み、軍刀をもぎ取り、説得にかかったが、乃木はうつろだった。
翌朝、乃木が行方不明になった。
児玉は先頭に立って、兵達と乃木を探した。
3日目、山王山の山頂で、断食して座っている乃木が見つかった。
その後、乃木は死ぬのをやめたが、その負い目は消えず、大罪を背負った苦行僧のように、ひたすら自分を責める人生を送ることになる。

(参考:生出寿 著 『謀将 児玉源太郎』 徳間文庫 1992年12月 初版)

(令和元年7月23日 追記)


乃木将軍由縁地の碑



「乃木将軍由縁地」の碑

(東京都港区虎ノ門1丁目)





(平成18年2月25日)

乃木将軍縁故の地

この地は乃木将軍が明治11年歩兵第1聨隊長に補せられ間もなく居宅を購い同年8月静子夫人を迎えて新居を構え翌12年8月長男勝典氏誕生同年冬新坂町へ移転まで住まれたゆかりの地である

昭和36年9月吉日
乃木神社宮司 山貴■識

(副碑・碑文より)

※ ■は判読不明な文字です。

乃木邸跡


乃木邸跡(乃木将軍由縁地)

(東京都港区虎ノ門1丁目)

コンビニの脇に碑が建っています。




(平成18年2月25日)

【台湾総督】

仙台の第2師団長であった乃木希典が第3代の台湾総督に任命されたのは、明治29年10月14日である。
前年9月からおよそ6カ月間、第2師団を指揮して台湾平定作戦をやったからという理由であった。
しかし、乃木のような機転の利かない真面目人間が、妖怪人間がはびこる魔界のような台湾を治められるわけがなかった。

現地人の盗賊団より、内地から来る悪徳商人より、無責任で私利に走る役人連中が癌であった。
「土匪どひ狩りも必要じゃが、急務は官匪かんぴ狩りじゃ」と、乃木は側近にこぼした。
台湾経営は、経済上でも大きな赤字だった。
1年余り努力したが、乃木は遂に行き詰まり、明治30年(1897年)11月、台湾は百鬼夜行で、特に内地から来たロクデナシの文武官僚が跋扈して手が付けられない、と言うような理由で、松方首相に辞表を提出し辞めてしまった。

(参考:生出寿 著 『謀将 児玉源太郎』 徳間文庫 1992年12月 初版)

(令和元年7月23日 追記)


第3軍(司令官:乃木希典)の旅順攻略戦

明治37年
(1904)
 6月 1日 乃木希典、広島県宇品港を出港
 6月 6日 大連だいれん北方の塩大澳えんたいおうに上陸
 6月26日 第11師団、歪頭山わいとうざんと老横山を攻撃
歩兵第43連隊(徳島)、老横山を占領、占領地を剣山つるぎさんと改称する
 7月15日 大山巌満洲軍総司令官、大連に上陸
 7月26日 ロシア軍要塞の前進陣地への攻撃を開始
西から第1師団、第9師団、第11師団と並列して攻撃
 7月28日 前進陣地攻略成功
 8月 6日 大狐山たいこざん、小狐山しょうこざんへの攻撃開始
 8月 7日 海軍陸戦隊重砲隊(重砲24門)、旅順市街と旅順港へ砲撃開始
 8月 8日 大狐山を占領
 8月 9日 小狐山を占領
(参加日本軍9,000名のうち死傷者1,200名以上)
 8月10日 ロシア軍・旅順艦隊、旅順港を出港
日本軍・連合艦隊が旅順艦隊を攻撃(黄海海戦)
 8月19日 旅順要塞の東北正面への総攻撃を開始
強襲法(砲撃後の歩兵の突入)により攻撃
 8月24日 東鶏冠山ひがしけいかんざん第2堡塁を占領するも奪還される
盤龍山ばんりゅうざん東堡塁に突入成功、占領
砲弾払底のため以後の攻撃中止(第1回総攻撃失敗)
(日本軍戦死者5,037名、戦傷者15,860名)
 9月 5日 攻撃法を強襲法から正攻法へ変更することを決定する
(正攻法=塹壕とトンネルを掘削し要塞爆破、突撃をする方法)
第1師団参謀長の提案により203高地の攻略も決定
 9月19日 要塞前面の前進堡塁への攻撃を開始
第1師団後備歩兵旅団、203高地への攻撃を開始
 9月23日 龍眼北方堡塁、水師営南方堡塁、南山坡山堡塁を占領
(日本軍戦死者729名、戦傷者2,347名)
203高地の占領に失敗
(日本軍戦死者200名、戦傷者1,605名)
10月26日 第2回総攻撃開始
日本陸軍最大の28センチ榴弾砲18門参加
10月31日 盤龍山の一戸いちのへ堡塁の占領のみで第2回総攻撃を中止
(日本軍戦死者1,092名、戦傷者2,738名)
11月26日 第3回総攻撃開始
決死隊である白襷しろだすき隊(約3,600名)の突入不成功
11月27日 東北正面要塞群への攻撃を中止し203高地の攻撃に戦術を転換
11月28日 第1師団、203高地山頂への攻撃を開始
12月 5日 苦戦中の第1師団に対し予備軍・第7師団(10,403名)を投入
203高地の頂上を占領
(日本軍戦死者5,052名、戦傷者11,883名)
(第7師団の戦死者1,982名、戦傷者4,224名)
12月15日 28センチ榴弾砲で旅順港を砲撃(203高地の砲兵観測班の指示)
ロシア・旅順艦隊全滅
引き続き東北正面の主要塞攻撃を再開
ロシア軍・コンドラチェンコ少将が戦死しロシア軍の士気が下がる
12月18日 東北正面要塞群を正攻法で攻略
東鶏冠山北堡塁の爆破に成功、歩兵部隊の突入により成功
12月29日 ニ龍山堡塁を占領
12月31日 松樹山堡塁を占領
明治38年
(1905)
 1月 1日 ロシア軍降伏する
 1月 5日 第3軍司令部の水師営にステッセルが訪問(水師営の会見)
旅順攻略での第3軍の損害
戦死:15,390名
戦傷:43,914名

(平成17年2月5日記)


 平成23年9月14日

山口県下関市・覚苑寺でお会いしました。






乃木希典像
(山口県下関市・覚苑寺)




(平成23年9月14日)





乃木希典像

(山口県下関市・覚苑寺)




(平成23年9月14日)




長門鋳銭所跡
(山口県下関市・覚苑寺)




(平成23年9月14日)

国指定史跡「長門鋳銭所ながとちゅうせんしょ跡」

指定年月日 昭和4年12月17日

長門鋳銭所は、奈良・平安時代に長門鋳銭司ちゅうせんしという機関が置かれ銭貨の鋳造を行った工房跡です。
長府地区の西側を限る、准堤峰じゅんていほう(標高176m)東南麓斜面に位置し、鋳銭峰いせんぽうや、火除け道などの銭貨鋳造を物語る地名呼称も残っています。
現在の黄檗宗おうばくしゅう法輪山覚苑寺かくおんじ一帯の約1万4千uが史跡として国の指定を受けています。
遺跡の発見は、江戸時代の寛永年間(1624〜1643年)まで遡り、現在まで、数度にわたる発掘や調査が行われています。
これらにより、奈良時代の「和同開珎わどうかいちん(ほう)」や鋳型いがた、坩堝るつぼ、鞴ふいごの羽口はぐちなどの銭貨鋳造用具のほか、銭貨鋳造に伴う副産物である銅滓どうさい等が多数出土し、古代銭貨鋳造の事実を明らかにしています。
「和同開珎」の鋳造は、和銅元年(708年)催鋳銭使さいじゅせんしという官職が置かれ、始まりますが、長門鋳銭所の明確な操業時期は分かっていません。
また、長門鋳銭所は、天長2年(825年)には廃され、周防国(山口市鋳銭司すぜんじ)に移ったとされています。
「和同開珎」の鋳造記録が残る、近江国(滋賀県)・河内国(大阪府)・播磨国(兵庫県)などの鋳銭司のうち、工房の場所が特定できるのは、現在のところ長門国のみです。
長門鋳銭所跡からの出土品のうち、下関市立長府博物館および(財)辰馬考古資料館(兵庫県西宮市)蔵品は国の重要文化財に指定されています。

山口県教育委員会
下関市教育委員会

(説明板より)





覚苑寺本堂
(山口県下関市長府安養寺3−3−8)




(平成23年9月14日)

下関市指定有形文化財(建造物)
覚苑寺本堂

昭和61年5月10日 指定

法輪山覚苑寺は、元禄11年(1698)に創建された黄檗おうばく宗寺院で、開基は黄檗宗に帰依した長府藩三代藩主毛利綱元。
開山は、綱元が宇治の黄檗山萬福寺から招いた悦山禅師である。
この建物は、周防三田尻(現・防府市)にあった黄檗宗寺院の海蔵醍醐寺の本堂として寛政6年(1794)に建立されたもので、明治8年(1875)、廃寺となっていた海蔵醍醐寺から覚苑寺に移築され、以後、当寺の本堂(大雄宝殿だいおうほうでん)として利用されている。
構造形式は、桁行けたゆき三間・梁間はりま三間で一重裳階もこし付の吹放し。
屋根は入母屋いりもや造の本瓦葺。
基壇は乱石積で、正面に石階六級を設け、礎石は花崗岩切石上に石造角形礎盤いしづくりかくがたそばんを置く。
軸部は総て面取角柱めんとりかくばしらを使用し、柱頭は粽ちまき形、足元は丸面となっており、身舎もやは飛貫ひかん・頭貫懸鼻とうかんかけはな付・台輪だいわ、中央間四面及び両脇間を虹梁こうりょうで繋ぎ、裳階は地覆じふく・腰貫こしぬき・飛貫・頭貫・台輪で構成されている。
組物は身舎柱上及び大瓶束たいへいづか上に禅宗様出三斗でみつど笹繰付と出桁、裳階柱上及び中備大斗肘木なかぞなえだいとひじき内外は木鼻きばな付となっている。
軒は二軒繋垂木で、妻飾つまかざりは破風はふ板、眉欠まゆかき、化粧棟木に鰭ひれ付かぶら懸魚げぎょを施している。
この建築様式は、本市に遺例の少ない江戸時代の黄檗宗寺院の典型的な特徴を示しており、建築史的な価値が高い。

下関市教育委員会

(説明板より)

 平成23年9月14日

山口県下関市・乃木神社でお会いしました。





乃木大将御夫妻像
(山口県下関市・乃木神社)

岸 信介 書



(平成23年9月14日)




乃木大将御夫妻像
(山口県下関市・乃木神社)

左:御神馬「壽号」像



(平成23年9月14日)

乃木大将御夫妻銅像

昭和37年御殉死50年祭に当たり乃木静子夫人の神霊合祀を記して銅像を建立。
以て百世崇敬の象徴と為す。

(リーフレット『乃木神社』より)






「壽号」像

(山口県下関市・乃木神社)




(平成23年9月14日)

御祭神 乃木将軍御夫妻殉死90年・乃木神社創建85年・日露戦争百年の節目の年を迎え記念事業として名馬「壽号」の石像を 山口県産徳山御影石・壽号終焉地の隠岐の島自然石を用いて製作 全国崇敬者各位の奉賛により「御神馬」建立
以て 崇敬の念を表し 国家安泰・世界の共存共栄を祈る事を記す

平成16年4月11日
乃木神社 宮司 松吉宣和
施行 (有)中村石材 中村重雄

(碑文より)






乃木旧邸
(山口県下関市・乃木神社)




(平成23年9月14日)




乃木旧邸内部
(山口県下関市・乃木神社)

左から、父・十郎、母・寿子、乃木将軍(14歳)



(平成23年9月14日)

乃木旧邸(長府宮の内町)

乃木希典は、嘉永2年(1849)11月、長府藩士乃木希次の子として、江戸麻布の長府毛利藩邸に生まれたが、安政5年(1858)、10歳のとき父とともに長府の地に帰り、16歳で萩に従学するまで、私塾集堂場(※)において学ぶなど、長府城下で過す。
現在保存されている乃木旧邸は大正3年(1914)、乃木記念会がそのゆかりの地に、忠実に復元したもので、家屋の造りは、六畳と三畳の二間、押入れ、それに二坪の土間という極めて質素な生活をしのばせている。
また、調度品等も当時を再現したもので、風呂敷包が天井につりあげてあるなど、生活の工夫もみられて興味深い。
なお、六畳の間に相対して置かれている父、母、そして少年からなる三体の等身大木彫坐像は、乃木大将の甥にあたり、明治から大正にかけて活躍した著名な彫刻家長谷川栄作の製作によるもので、乃木少年が、父親から訓話を受けている場面が、見事に表現されている。

(説明板より)

(※)「集堂場」は誤記、「集童場」が正しい






梅井
(山口県下関市・乃木神社)




(平成23年9月14日)

梅井

乃木家用の井にして大将歸郷の時には必■此の水を汲■で昔をしのばれしものなり
大将の幼年時代より■■ものなり

(説明石碑・碑文より)





台柄だいがら
(山口県下関市・乃木神社)

乃木大将は十才から家事手伝いをせられて、足踏みのだいがらにて米麦を搗き寸陰を惜しんで勉学に励んだ
(説明板より)


(平成23年9月14日)





なつめ
(山口県下関市・乃木神社)




(平成23年9月14日)

水師営の棗なつめの子木

昭和14年10月頃 旧陸軍浜田第21連隊が旅順駐屯中に行軍や演習で水師営会見所に行った際 八代目大島庄八氏が乃木大将ゆかりの棗の木の下で拾った三粒の実を故郷を平田市に送り 父親の七代目大島庄八氏が丹精込めて植え育て大きくなった棗です
八代目庄八氏が乃木神社に献木される■■■より 既に畑氏によって植えられていた水師営の棗の分け木と「兄弟棗の木」としての対面となりました

平成10年11月吉日
献木者 島根県平田市
      八代目大島庄八 八十才
      妻     房子 七十八才
発起人 江島 潔
      村田文典

(説明石碑・碑文より)

水師営六代目の棗

水師営会見の時、乃木大将の副官兼松大尉が記念に持ち帰った棗の実が大木となり、その実生を大尉の甥の友人竹内将人氏が貰って育てられた。
その実生が成長しその根元の実生を平成5年兼松大尉の遺族に当たる荒川義尚氏が貰い受けて育て、その実生がこの棗の木である。

平成14年2月11日
献木者 京都府城陽市 荒川義尚
                妻 ナナヱ
発起人 京都府城陽市 下辻重雄
                妻 玲子

(説明石碑・碑文より)






203高地の松
(山口県下関市・乃木神社)




(平成23年9月14日)





宝物館
(山口県下関市・乃木神社)




(平成23年9月14日)

宝物館について

一家をあげて世の為人の為に盡し最后に明治天皇に殉ぜられた乃木将軍御夫妻御殉死75年を迎えました昭和61年を記念すべく 御遺愛の品々を始め乃木家伝来の宝物等を後世の人々に伝うべく宝物館ご造営奉賛会を結成、全国の崇敬者の誠心によって昭和61年7月に竣工
こゝに日本人が世界に誇り得る平和をこよなく願われた 御祭神の御神徳を仰ぎ観る事が出来た次第であります。

(説明板より)






さざれ石
(山口県下関市・乃木神社)




(平成23年9月14日)

『さざれ石』

学名 石灰質角礫岩
岐阜県指定天然記念物

わが君は千代に八千代にさざれ石の
        いわおとなりてこけのむすまで

この歌は今から約千有余年前の古今集の古歌で藤原石位左衛門の作と判り、上一旬を替えて国歌君が代の原歌となりました。
愛石の郷土史家小林宗一(号宗閑そうかん)は適々たまたま史跡探訪中に岐阜県春日かすが村で「さざれ石」を発見し国歌発祥の地を証しました。
歌も石も日本文化の粋、大和と弥栄いやさか永続とを壽ことほぎ祈念するもので国歌としても、将又祭神の御遺徳にも相応しいものです。
この度忝かたじけなくも御神縁を被こうむり下関偕行会の斡旋を得て左記下名が奉納しました。

岐阜県揖斐川町
発見者 嗣子 小林 文治
陸士48期生 松野 治郎
岐阜県池田町 (有)ワタナベ石材

平成8年11月吉日
右奉賛 下関偕行会






乃木神社・社殿
(山口県下関市長府宮の内町3−8)




(平成23年9月14日)





乃木神社
(山口県下関市長府宮の内町3−8)




(平成23年9月14日)

乃木神社

乃木将軍殉死後、追慕の念高揚し、乃木神社建立の儀が起こり、広く有志の協力を得て大正8年12月御祭神ゆかりの台湾の有山の檜を用いて社殿が竣工し、大正9年4月鎮座祭が行われ、名実ともに「乃木神社」が創建し、人々の信仰を集めた。

学問の神様

乃木将軍殉死の報伝るや将軍を慕う人々はその至誠盡忠に感激して北は北海道函館、栃木県西那須野、東京赤坂、京都桃山御陵の傍に、長府、四国善通寺等6ヶ所に乃木神社が創建され、国民をして神に祀らずには置かなかった。
大正元年9月16日萬朝報紙上に黒岩周六は 今日まではすぐれし人と思ひしに人と生れし神にぞありける と称え、特に明治天皇は、明治卅九年
いさをある人ををしへの親としておほしたてなむやまとなでしこ
の御製を賜り天皇直々の御諚により学習院長として昭和天皇を初め皇族方のご教育に全身全霊を打込まれ、その偉大な教育の事実と実践は厳として学習院教育の上に残って居り、明治の大教育家杉浦重剛は「乃木大将は無二の大教育家である」と道破されて居られる。
であるからこそ乃木将軍を学問の神様と視るに至って始めて乃木将軍の真実に触れることが出来ると言うべきである。

(リーフレット『乃木神社』より)

乃木希典像 平成15年5月24日

東京都港区赤坂8丁目(乃木神社脇)の旧乃木邸でお会いしました。


説明板より

乃木将軍は言うまでもなく日清、日露の両役に武功輝き又高風清節徳望高き人格者として一世の崇敬を受けた。
陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵に叙せられ晩年明治天皇の思召によって学習院長に任ぜられ専ら華胄子弟の薫育に蓋したが大正元年9月13日明治天皇御大葬の当日64才を一期として殉死し静子夫人も共に自刃した。
将軍の殉死せらるるや遺言して自邸を東京市に寄附せられた。
時の東京市長男爵阪谷芳郎は中央乃木会を設立してその旧邸を保存し、また隣接に乃木神社も建立した。
将軍は嘉永2年11月11日麻布日ヶ窪の長府藩主毛利候邸に於て生れ「少年乃木無人所載年譜」安政5年11月将軍10才の砌り一家と共に長門国長府に移った。
幼名を無人とよび慶応2年6月18才の折文蔵と改名した。
明治2年11月21才の時藩命により佛式練兵教習のため伏見御親兵営に入隊しその後京都市河東練兵場御親兵練武掛を命ぜられ又豊浦藩陸軍練兵教官として鎮台兵の教育に盡したが明治4年11月23才の時に陸軍少佐に任ぜられ名を希典と改めた。
明治8年27才の時熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となり同10年には西南の役に従軍4月22日中佐に任ぜられた。
将軍の父希次は、同年10月東京に於て病没した。
翌年11年1月26日熊本鎮台参謀を免ぜられて歩兵第1連隊長となり、8月27日薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚したが夫人は時に20才であった。
当時将軍は、芝桜川町に住んでいた。「山路愛山著乃木将軍」
翌明治12年8月28日長男勝典が生れ11月に新坂町55番地に初めて邸宅を設けたのである。
同13年4月大佐に進み翌14年12月次男保典が出生した。
その後ドイツ留学、日清、日露両役に従軍、英国皇帝の戴冠式参列等の事があり、その間、那須別邸に自適されたこともあったが本邸は依然として此地に在り、明治12年以来34年間に及んだ。
本邸は、素朴高潔であった。
将軍の日常を偲ぶのに最も良き記念物である。
因みに長男勝典中尉は、明治37年南山総攻撃に於て戦死し、次男保典中尉は、同年11月30日歪頭山に於て戦死した。
時に長男26才、次男は、24才であった。
大将夫妻、及び両息子の墓はともに青山墓地にある。

※華冑[かちゅう]=名門、貴族のこと。


旧乃木邸

乃木邸


乃木邸は明治12年に買い求め、明治35年に改築されたものです。
この建物は明治19年にドイツ留学中、フランスの陸軍訪問の折にスケッチした連隊本部を参考に建てられています。




(平成15年5月24日)

(説明板より)

東京都港区指定文化財
有形文化財

旧乃木邸及び馬小屋

旧乃木邸は、明治35年(1902)に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が大正元年(1912)9月13日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。
将軍が、ドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので、明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物か、和風住宅に洋風の応接室を付属させたものが多いのに比べこの邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。
建坪は168u、木造平屋建、日本瓦葺で、傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造をもつ。

馬小屋は、平屋建、日本瓦葺で、邸宅が新築される以前、明治22年(1889)に建てられた。
間口約12・5m、奥行約4・5mの細長い建物には、4つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。
住居が木造であるのに対し、馬小屋が煉瓦造で立派だ、という評判のあったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。

昭和62年10月28日   東京都港区教育委員会

厩



[うまや]

明治22年に新築されたものです。




(平成15年5月24日)
厩の内部



厩の内部

愛馬”壽号”の馬房




(平成15年5月24日)

(説明板より)

愛馬の由来

正馬壽[す]号は「ステッセル」将軍の愛用した「アラビヤ」産の牡馬で明治38年1月5日水師営会見の際に乃木将軍に贈らんとしたが大将はその志を謝し直ちにこれを受けとることは軍規の許さないことなので後日を約してこれを「壽[す]」号と名づけて戦役中乗用し凱旋後拂い下げを受け自分の馬として愛用した。

大将は壽号を明治39年末に種馬として鳥取県赤碕町佐伯友文氏に贈られた、後大正4年5月同氏より島根県隠岐島村上寿夫氏に贈られ海士[あま]村渡辺淳三氏方で飼育中大正8年5月27日に終命した。
馬齢23歳でその仔馬は二十余頭に及んでいる。
副馬「璞[あらたま]」号は去勢馬で仔馬なし。

乃木将軍と辻占売少年の像




乃木大将と辻占売少年の像





(平成15年5月24日)

(説明板より)

乃木大将と辻占売少年の像

今に伝えられる「乃木大将と辻占売少年」の話は、明治24年、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折のことです。
希典は金沢で偶然、当時8歳の今越清三郎少年に出会います。
今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。
この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。
今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。

この銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和43年に旧ニッカ池(六本木6丁目)の縁に造立されましたが、このたび旧ニッカ池周辺が整備されることとなり、希典所縁のこの地に移建されました。

平成13年9月

旧乃木邸の入口
(東京都港区赤坂8−11−32・区立乃木公園)

公園附近沿革案内 (説明板より)

この公園附近は、江戸時代の初期、青山常陸介忠成が家康の命をうけ、馬を乗り廻して賜った土地で、力尽きて死んだ馬の塚を築き、駒留八幡といったという伝説がある。
青山氏の敷地は現在の南北青山および赤坂7、8丁目を含む広大な地域であった。

江戸時代末期このあたりは美濃郡上[ぐじょう]藩青山大膳亮[だいぜんのすけ]の邸地で、明治維新後この一帯は新坂町と呼ばれ、名士の邸宅街となった。

陸軍大将乃木希典は明治12年この地を買い求め、同35年新築をした。
大将は大正元年9月明治天皇のあとを追い、夫人静子とともに自害して果てた。
邸宅はその遺言により、東京市に寄付され、整備ののち公園として開園された。
現在では、旧乃木邸を含めて区立公園として管理している。

麻布土木事務所


乃木神社




乃木神社
(東京都港区赤坂8−11−27)




(平成15年5月24日)

乃木神社案内記  (案内板より)

本社
祭神 乃木希典命[のぎまれすけのみこと]
配祀 乃木静子命
創立 大正12年11月1日・昭和20年5月25日戦災にて焼失。戦災復興完成昭和37年9月13日

乃木希典 〜高貴なる明治〜
岡田幹彦 著  展転社発行 平成14年2月11日第2刷発行 定価1,800円+税
(解説)
乃木愚将論の誤りを正す。
日露戦争を勝利に導いた陸軍最高の名将にして近代随一の国民的英雄だった乃木希典。
その生涯を顧み日本人に自信と誇りを回復させる。
名将 乃木希典 〜司馬遼太郎の誤りを正す〜
桑原巌 著  中央乃木会発行  平成10年7月30日第3刷  
乃木将軍の御生涯とその精神 〜東京 乃木神社御祭神九十年祭記念講演録〜
小堀桂一郎 著  国書刊行会発行 平成15年4月11日 定価1,000円

旌忠記念碑



旌忠記念碑
(滋賀県大津市下阪本4丁目)





(平成17年4月9日)

せい忠記念碑

この碑は、明治43年(1910)に、戦没者の魂を祭るため、有志が相計はかり篤志家の賛同を得て建立した。
碑文の5文字は、杉浦重剛氏の依頼により、学習院長乃木希典氏が揮毫きごうしたものである。
後に下阪本遺族会に受け継がれ護持されている。

平成7年3月
下阪本学区まちづくり推進協議会

(説明板より)

碑の建っている公園




道路右の小さな公園に碑が建っています。





(平成17年4月9日)

大正元年(1912年)9月13日、明治天皇の柩ひつぎが皇居を出発する午後8時の号砲に合わせて、妻の静子と共に自決しました。
この事件は大きな反響を呼び、「最後の武士道精神」として乃木希典を賞賛し、殉死が一時流行したといわれています。

(平成17年2月5日記)


乃木希典・静子の墓


乃木希典(右)と乃木静子(左)の墓

(青山霊園・番地:1種ロ10号26側4番)




(平成15年5月24日)

青山霊園に行ったら、まず最初に管理事務所に行きましょう。
ここで著名人のお墓の場所が載っている「青山霊園案内図」(50円)を購入すると便利です。
もっと詳しく知りたい人には東京公園文庫の「青山霊園」(1,000円)も販売しています。


乃木将軍母堂慰霊顕彰碑

軍神乃木将軍母堂
慰霊顕彰碑

(京都市・京都霊山護国神社)

昭和44年4月建之
日本民主同志会 中央執行委員長 松本明重



(平成19年3月17日)

碑文

明治二十九年十月乃木将軍台湾総督ノ任ニ赴クニ当リ母堂壽子夫人静子行ヲ共ニス
幾何モナク母堂病ミテ没シ遺言ニヨリ台北三板橋ノ共同墓地ニ葬ル
蓋シ日本人移住者ノ骨ヲ台湾ニ埋ムルモノ之ヲ嚆矢トス
大正元年九月明治天皇大葬ノ日将軍夫妻共ニ殉死ス後夫妻ノ遺髪ヲ台北ニ送リ母堂ノ墓側ニ葬リ霊位三基弘法寺ニ安置セラル
昭和三十五年中華民国政府ハ北投中和禅寺ニ日本人無縁公墓ヲ築キ乃木家遺骨遺髪及ビ霊位亦禅寺ニ遷サル
将軍ノ総督ノ任ニ在ルヤ明治天皇ノ聖旨ヲ奉ジテ徳化政策ヲ行フ
春風秋雨六十年居民ノ猶ホ将軍ノ仁政ヲ懐ビ常ニ米ッテ香華ヲ供スルモノ多シ
昭和四十三年三月日本民主同志会ハ明治百年記念事業トシテ日本精神ノ発揚ヲ念願シ日華両国政府ノ允許ヲ得台湾ニ至リ乃木家遺骨遺髪及ビ霊位ヲ故国ニ奉還シ地ヲ京都霊山護国神社境内ニトシテ合祀シ上ニ此ノ碑ヲ建テ以テ母堂ノ薫陶ヲ称ヘ将軍ノ遺徳ヲ不朽ニ伝ヘ世道人心ヲ裨益スル所アラントス

撰 松本明重
書 西田寿山


乃木希典 日露戦争 旅順 



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