平成20年5月5日
明治9年(1876年)11月9日〜昭和3年(1928年)5月21日
福島県耶麻郡猪苗代町・野口英世記念館でお会いしました。
幼名は清作。
福島県猪苗代湖畔の小農家に生まれる。
明治30年(1897年)東京の済生学舎に入り、医術開業試験に合格したのち、伝染病研究所助手補となる。
明治33年(1900年)渡米、フレクスナーの助手となり蛇毒の研究に従事。
その業績によってカーネギー研究所から奨学金を受ける。
その後、ロックフェラー医学研究所助手・准正員となり、明治44年(1911年)梅毒病原体スピロヘータの純粋培養に成功。
大正3年(1914年)同研究所正員となり、翌年、日本の帝国学士院から恩賜賞を授与される。
大正8年(1919年)エクアドルの黄熱病病原体発見を発表。
大正10年(1921年)エール大学から理学博士の学位が授与される。
昭和3年(1928年)黄熱病がアフリカに発生すると、その調査・研究に赴き同病に感染し、ガーナのアクラで死去した。
53歳。
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生家 (平成20年5月5日) |
生家について
1876年(明治9)1月9日に生まれて、上京するまでの19年間を過ごしたこの家は、建てられて2百年近くたった今も当時の姿が保たれています。
博士が火傷した囲炉裏や、上京するときに決意を刻んだ柱が残されています。
(リーフレットより)
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清作(英世)が1歳半の時に落ちて火傷をした囲炉裏
清作が、1歳6ヶ月となった1878年(明治11)の4月末、母シカが洗い物をしている間に這はい出してこの囲炉裏いろりに落ちて左手に大火傷おおやけどをしました。
(説明板より)
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誕生碑と忍耐の碑 (平成20年5月5日) |
誕生碑と忍耐の碑
この二つの碑は野口英世博士記念会によって1929年(昭和4)に建立されました。
誕生地碑の下にはメリー夫人から送られてきた英世の遺髪が埋葬されています。
題字は会津藩主松平容保かたもりの子で会津松平家12代当主安男もりお氏の書です。
忍耐の碑は、1915年(大正4)に帰国したときに書いた英世直筆じきひつの書が刻まれています。
英世直筆の書
忍耐の書は母校・翁島おきなじま小学校に、英文と仏文の書は当時の猪苗代町長に寄贈されたものです。
忍耐(patience)
Honesty is best policy (正直は最良の方法である)
La patience est am`re, mais son fruit est doux.
(忍耐は苦い、しかしその実は甘い)
(説明板より)
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由来碑 (平成20年5月5日) |
碑文
此処ニ建設セル碑石ハ昭和四年三月十八日磐梯山腹龍ヶ馬場台石ハ同狼岩ヨリ翁島村及竹馬會員等五百餘人ニテ運搬セリ工事ハ昭和三年六月二十九日東京ニ於テ擧行セラレタル野口博士追悼記念會ヨリノ寄附金ヲ主トシテ竣工シタルモノ也
昭和四年八月
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野口英世記念館 (福島県耶麻郡猪苗代町大字三ツ和字前田81) (平成20年5月5日) |
野口英世記念館のあらまし
博士が西アフリカで殉職した1928年(昭和3)、東京の追悼会で、遺徳遺業の顕彰を生家の保存を目的として「野口英世博士記念会」が生まれました。
1938年(昭和13)には財団法人としてスタートし、その翌年に「野口英世記念館」が開館しました。
1954年(昭和29)に、福島県第1号の登録博物館となり現在にいたっています。
観覧のご案内
休館日:年中無休(ただし12月29日から1月3日などを除く)
開館時間:4月〜10月 午前8時30分〜午後5時
11月〜3月 午前9時〜午後4時15分
見学所要時間:約30分
観覧料金:大人 500円
明治9年 (1876) |
11月9日生誕 初めの名を清作と呼ぶ |
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明治10年 (1877) |
日本赤十字社の母体・博愛社創立 | ||
明治11年 (1878) |
1歳半 | 4月末の夕方 囲炉裏に落ち左手に大火傷を負う |
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明治12年 (1879) |
ハンセン、らい菌を発見(スウェーデン) ナイサー、りん菌を発見(ドイツ) |
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明治13年 (1880) |
モーベルト、腸チフス菌を発見(ドイツ) ラブラン、マラリヤの原虫を血中に発見(フランス) |
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明治14年 (1881) |
パスツール、狂犬病の予防発見(フランス) | ||
明治15年 (1882) |
5歳 | 母の荷運び仕事を手伝う | コッホ、結核菌を発見(ドイツ) |
明治16年 (1883) |
6歳 | 三ツ和小学校入学 (初等科6級) |
クレーブス、ジフテリア菌を発見(ドイツ) |
明治17年 (1884) |
コッホ、コレラ菌を発見(ドイツ) ニコライエル、破傷風菌を発見(ドイツ) |
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明治19年 (1886) |
9歳 | 初等科1級終了 4月、中等科6級編入 |
ワイル、ワイル氏病を発見(ドイツ) フレンケル、肺炎球菌を発見(ドイツ) |
明治20年 (1887) |
10歳 | 4月、尋常科4年編入 4月10日、弟清三生まれる |
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明治21年 (1888) |
11歳 | 3月、尋常科終了 4月、温習科に入る |
パスツール研究所開設(フランス) ケストナー、腸炎菌を発見(ドイツ) |
明治22年 (1889) |
12歳 | 3月、温習科終了 4月、猪苗代高等小学校に入学 |
北里柴三郎、破傷風菌の純粋培養に成功(日本) 流行性感冒、コレラ流行する |
明治23年 (1890) |
コッホ、ツベルクリンを発見(ドイツ) | ||
明治24年 (1891) |
ベルツ、東京帝国大学名誉教師となる | ||
明治25年 (1892) |
15歳 | 10月、学校職員・同級生の醵金で 会陽医院・渡部鼎氏に左手の手術 を受ける |
大日本私立衛生会「伝染病研究所」創立 イワノフスキー、ろ過性ヴィールスを発見(ロシア) |
明治26年 (1893) |
16歳 | 3月、猪苗代高等小学校を卒業 5月、若松会陽医院に入門 薬局生となる 医学・英・仏・独逸語を学ぶ |
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明治27年 (1894) |
17歳 | 日清戦争で渡部医師応召 不在中の一切を委嘱される |
日清戦争始まる |
明治28年 (1895) |
エルザン、ペスト菌を発見(フランス) | ||
明治29年 (1896) |
20歳 | 9月、上京 10月、医術開業前期試験合格 11月、高山歯科医学院学僕となる |
志賀潔、赤痢菌を発見(日本) |
明治30年 (1897) |
21歳 | 5月、済生学舎入学 10月、医術後期試験合格 医師となり順天堂医院に勤務 |
京都帝国大学創立 |
明治31年 (1898) |
21歳 | 4月、北里伝染病研究所助手 8月、帰省中、英世と改名 |
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明治32年 (1899) |
22歳 | 4月、フレキスナー博士視察案内 5月、海港検疫医官補 初めてペスト患者を発見 10月、清国へ行く 国際予防委員会中央医院勤務 |
横浜にペスト患者現れる |
明治33年 (1900) |
23歳 | 6月、帰朝 12月5日、渡米(24歳) フィラデルフィアに入る |
高峰譲吉、アドレナリンを創製(日本) |
明治34年 (1901) |
25歳 | 1月、フレスキナー博士の助手 蛇毒の研究に従事 |
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明治35年 (1902) |
25歳 | 5月、ペンシルバニア大学病理学 助手となる |
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明治36年 (1903) |
26歳 | 5月、ペンシルベニア大学上席助手 10月、カーネギー学院研究助手 デンマークへ留学 国立血清研究所に入る |
ライト兄弟初飛行 |
明治37年 (1904) |
27歳 | 9月、デンマーク留学を終える 10月、ニューヨークに帰着 ロックフェラー医学研究所一等助手 |
日露戦争始まる |
明治38年 (1905) |
シャウデン、ホフマン、梅毒スピロヘータ発見 | ||
明治39年 (1906) |
ワッセルマン、梅毒の血液反応を発見(ドイツ) | ||
明治40年 (1907) |
30歳 | 6月、ペンシルバニア大学から マスター・オブ・サイエンスの名誉 学位を受ける ロックフェラー医学研究所の準正員 に昇進 |
サンフランシスコに排日暴動が起こる ピルケ、ツベルクリン反応に成功 |
明治42年 (1909) |
32歳 | 6月、カーネギー学院より 『毒蛇及び蛇毒』を出版 ロックフェラー医学研究所の副正員 に昇進 |
高峰譲吉、「タカジアスターゼ」を作る |
明治43年 (1910) |
33歳 | 『梅毒の血清診断』を刊行 血清学会会長に就任 |
鈴木梅太郎、ビタミンBを発見 |
明治44年 (1911) |
34歳 | 2月、日本より医学博士の学位 梅毒スピロヘータ純正培養に成功 |
アムンゼン南極に到達 |
大正元年 (1912) |
35歳 | 4月、メーリー・ダーヂス嬢と結婚 | 明治天皇崩御 |
大正2年 (1913) |
37歳 | スピロヘータ・パリーダを検出発見 9月、欧米各国へ講演旅行 スペイン、デンマークから勲三等を 贈られる 11月帰米 |
第一次欧州大戦勃発 日独宣戦 |
大正3年 (1914) |
37歳 | 7月、ロックフェラー医学研究所の 正員に昇進 4月、日本より理学博士の学位 スウェーデンから勲三等贈与 |
稲田竜吉、ワイル氏病病原体を発見(日本) 第一次世界大戦 |
大正4年 (1915) |
38歳 | 4月、帝国学士院より恩賜賞 9月5日、15年ぶりに帰国 勲4等旭日小綬章を授賞 11月4日、渡米 |
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大正6年 (1917) |
40歳 | レプトスピラに関する初めての論文 チフスに罹る |
ロシア革命 |
大正7年 (1918) |
41歳 | 6月、エクアドルに出張 黄熱病原体を9日目に発見 10月、同国名誉軍医監及び陸軍 大佐に任ぜられる グアヤキル大学及びキトー大学 名誉教授の称号を受ける |
第一次世界大戦終わる スペイン風邪、世界中に流行する |
大正8年 (1919) |
42歳 | 黄熱病原体を発表 米国医学会より銀牌を贈られる 12月、黄熱病研究のためメキシコ へ出張(43歳) |
山極勝三郎、人工ガン発生に成功 |
大正9年 (1920) |
43歳 | 4月、ペルーに出張 リマ大学医学部名誉教授の称号を 受ける 11月、ユカタンに出張 同医科大学より名誉医学博士の 学位を受ける フィラデルフィア市より名誉章ジョン ・スコット・メダルを贈られる(44歳) |
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大正10年 (1921) |
44歳 | ブラウン大学及びエール大学より ドクトル・オブ・サイエンスの名誉 学位を受ける |
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大正11年 (1922) |
45歳 | 5月、恩師血脇守之助氏、アメリカ を訪れる |
エバンス及びビショップ、ビタミンEを発見 (イギリス) |
大正12年 (1923) |
46歳 | 7月、父佐代助死す(73歳) 11月、帝国学士院会員に列せられ る ブラジルへ遠征(47歳) |
関東大震災 |
大正13年 (1924) |
47歳 | フランスよりレジオン・ド・ノール 勲章を贈られる 7月、ジャマイカ、キングストン市へ 出張 |
カルメット及びジュラン、BCG接種を提唱する (フランス) |
大正14年 (1925) |
48歳 | コーベル賞牌を受ける パリ大学よりドクトルの名誉学位を 受ける 7月、恩師小林栄氏夫人逝去 12月、正五位に叙せられる(49歳) |
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昭和元年 (1926) |
49歳 | オロヤ熱病原体を発表 | ゴールドベルゲン、ビタミンB2を発見(アメリカ) |
昭和2年 (1927) |
50歳 | トラホーム病原体を発表 10月、アフリカへ出発 |
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昭和3年 (1928) |
51歳 | 西アフリカ、アクラで黄熱病の研究 5月21日、同地で逝去 勲二等に叙せられ、旭日重光賞を 授けられる フランスより防疫功労金牌を贈られる 6月15日、ニューヨーク市郊外の ウッドローン墓地に葬られる |
フレミング、ペニシリンを発見(イギリス) |
(参考:野口英世記念会発行『野口英世博士年譜』)
平成18年10月8日
東京都台東区 上野公園でお会いしました。
平成15年2月19日
野口英世銅像
台東区上野公園8番
野口英世は、明治9年11月9日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。
31年、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、33年12月に渡米、37年よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。
大正7年からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病おうねつびょうの研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和3年5月21日、現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。
享年53歳。
野口英世銅像は総高約4・5メートル(台石を含む)、製作者は多摩美術大学教授吉田三郎。
英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BONO HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。
銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県三春町出身の玉応不三雄たまお・ふみおである。
玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和22年より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。
その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和25年には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周旋によって上野公園に造立されることが決定した。
昭和26年3月、現在地に造立。
月は異なるものの英世の命日である同月21日に除幕式が行われた。
なお、銅像前面の標示石・敷石は昭和46年に会津会あいづかいが設置したものである。
平成14年3月
台東区教育委員会
※ 台東区教育委員会文化事業課様より現地説明板修正に基づく修正依頼をいただきましたので一部文面を改訂いたしました。
(平成16年11月4日)
(現地で説明板を再度確認し平成18年10月8日再改訂)
【会陽医院・書生】
英世が会陽医院で書生をしていたのは、恩師で旧会津藩士の小林栄こばやしさかえの紹介による。
英世の才能を惜しんだ栄は、自ら学費を援助して進学させ、更に医師を目指すために書生として住み込んで働けるよう会陽医院の院長・渡部鼎わたなべかなえに頼んでくれた。
当時、書生の生活費は自前であったが、鼎は英世の将来を見込んで無料にしてくれたうえ、勉学に集中できるよう特別に一部屋を与えた。
更に、英世は旧藩士の有志で作った私学・会津中学校の特選生として、特別に聴講を許されもした。
明治27年(1894年)、旧会津藩士の柴四朗しばしろう(柴五郎陸軍大将の兄)が、会津出身の若者数名を総武そうぶ鉄道へ就職させるために、同じ会津人の小桧山武四郎こびやまたけしろうに人選を依頼した。
その就職の話が、会陽医院で書生をしていた野口英世にも舞い込んだ。
優秀ながらも経済的ゆとりのない英世を気遣う人がいて、斡旋してくれたのである。
英世は一度は悩んだが、望みは高く持ちたいといって断ったという。
(参考:『歴史街道 2006年7月号』)
(平成23年11月10日追記)
【ノーベル賞】
明治44年(1911年)に梅毒ばいどくの研究でノーベル賞になるかも知れないというところまで行く。
3回候補になり、大正3年(1914年)には最終選考に残ったが第一次世界大戦の勃発で賞を逃してしまった。
(平成18年7月21日追記)
【朝河貫一と野口英世】
1921年(大正10年)6月22日、エール大学新総長エンジェルの就任式が挙行された。
その日朝河は早稲田大学を代表して行列に加わり式場に入場した。
この就任式に野口英世も招かれ、エール大学は彼に名誉理学博士の称号を授与したのであった。
ここにはじめて日本の二人の秀でた学者が、異国の地ニューヘーブンで対面することとなった。
朝河が生まれた二本松と、野口が生まれた翁島とは、安達太良山をはさんでわずかに離れているにすぎない。
野口は朝河より三つ年下で、渡米も4年遅れていた。
ともに貧しい家庭に育ち、苦学に苦学を重ねながら、一人はエール大学への道を歩み、一人はロックフェラー医学研究所への道を歩んできた。
しかし二人の学究の姿と人格には、いちじるしく相違するものがあった。
朝河がきびしい精進の道を歩み続けたのに対し、野口は享楽の淵に沈むことも辞せず、人間性の流動において、非常に振幅の激しい面があった。
この日、野口はニューヨークからソプラノ歌手三浦環の夫の三浦政太郎医師を連れてきていた。
総長の就任式がすんだ後、朝河は二人と一緒にドライブに出かけ、夕刻には市内のルーディース食堂に案内し、彼らをもてなした。
食後、三人は、大学の前の広い市営公園のベンチに陣取り、さまざまな愉快な話をしながら、真夜中までそこに座っていた。
朝河が馬鹿話の相手となって研究のための貴重な時間をさくなどということは、あとにも先にも、この時だけであったろう。
外務省の学芸交流委員をしていた姉崎正治は、野口がニューヨークの日本人クラブで、将棋を指している姿をよく見かけたが、朝河には、決してそのような社交性を発揮する姿を見ることはなかったと語っている。
(参考:阿部善雄 著 『最後の「日本人」〜朝河貫一の生涯〜』 1983年第1刷発行 岩波書店)
(平成31年2月9日 追記)
【野口英世の最期】
黄熱病の病原体発見を発表後、それを証明するためアフリカへ向かい、現地で黄熱病を発症するも治る。
一度免疫が出来ると二度と黄熱病にはならないとされていたのに、再度発症し、これが命取りとなる。
「僕には・・・わからん」という言葉が最期の言葉だったとされている。
後に黄熱病はウイルスが原因とわかり、野口英世の細菌説が誤りだったことが判明した。
(平成17年10月18日追記)
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レリーフ (神奈川県横浜市金沢区・横浜検疫所長浜庁舎) (銘版) あなたは永遠に不滅な母としてここに在る (平成20年2月8日) |
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旧長浜検疫所の建物 (神奈川県横浜市金沢区・横浜検疫所長浜庁舎敷地内) |
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横浜検疫所長浜庁舎 (神奈川県横浜市金沢区長浜107−8) (平成20年2月8日) |
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