野口雨情像 平成15年7月6日

野口雨情 のぐち・うじょう

明治15年(1882年)5月29日〜昭和20年(1945年)1月27日

茨城県北茨城市 北茨城歴史民族資料館(野口雨情記念館)でお会いしました。


本名は野口英吉えいきち
東京専門学校を中退し、北海道に渡り新聞社を転々としました。
「下総のお吉」が好評を博し、詩壇へ復帰しました。
北原白秋・西条八十とともに童謡の近代化に貢献しました。
代表作「十五夜お月さん」「七つの子」「青い目の人形」「船頭小唄」(1921)が中山晋平の作曲で映画主題歌となり、また「波浮の港」がレコード化されて、歌謡界・童謡界で作詞第一人者となりました。


【野口雨情】 

野口英吉(のちに雨情)は、明治15年(1882年)に父・量平、母・てるの長男として、茨城県多賀郡北中郷村磯原(北茨城市)に生まれた。
野口家は磯原きっての名家であり、明治22年ごろには父・量平が船問屋を営んでおり、かなり裕福な少年時代を送ったが、明治25年に持ち船の難破や火災による沈没が相次ぎ、家運は傾いていった。

雨情は明治29年春に上京し、伯父・勝一(衆議院議員)の家から神田の順天求合舎に入学。
順天中学校を卒業し、明治34年、東京専門学校(のちの早稲田大学)に入学するも35年5月に中退している。
中学時代から雑誌『文庫』に俳句を投じたり、民謡体の詩を作り始めている。
東京専門学校在学中には、坪内逍遥に師事していたこともあり、「ローカル詩に生きよ」という励ましの手紙は、生涯“土の自然詩”といわれる自分の芸術のバックボーンとなった。

明治37年、父・量平が不遇のうちに死去すると、雨情は帰郷して父の残した借財の整理に当たり、家運を盛り返す努力をしたが、かえって借金を増やす結果になってしまった。
結局、周囲に押し切られる格好で、栃木県喜連川の豪商・高塩家の娘・ひろと結婚。
明治38年3月、創作民謡集『枯草』を自費出版。
各誌へ次々と作品を発表するが、中央詩壇に迎えられることなく、失意のうちに樺太へ旅し、11月頃に上京して西大久保に住んだ。

明治40年に月刊民謡集『朝花夜花』三篇を刊行し、注目を集めた。
このころ人見東明、三木露風らと早稲田詩社を結成し、『早稲田文学』、『太陽』、『文庫』、『中央公論』などへ精力的に作品を発表した。
5月に就職のため北海道に渡り、北鳴新聞社、小樽新聞社、北海タイムス社、胆振新報社などに勤めた。
この間、石川啄木と知り合い、行動を共にしたこともあった。
明治43年に再び上京し、有楽社に勤務して『グラフィック』の編集にあたる。
明治44年9月、母・てるが死去すると帰郷し、家業を守り、中央詩壇から消息を絶つ。

大正4年(1915年)5月、妻・ひろと協議離婚し、福島県湯本に滞在する。
大正7年10月、中里つると結婚し、水戸市銀杏町で新婚生活を始める。
大正8年には、長久保紅堂と『茨城少年』を創立し、編集者として自らも毎号童謡を掲載し、県下の小中学生を対象に童謡の普及に努めた。
当時、雨情は自らの詩を「田園詩」と名付けて、田園の情趣や農民生活の諸相を民謡風に素朴にうたっている。
水戸での1年半ほどの生活の間にも中央詩壇への復活の切望は強く、西条八十に託した「下総のお吉」「雁」の二編が『文章世界』へ掲載されると、好評を博して中央詩壇への復帰を果たす。

大正9年6月、上京した雨情の遅咲きの活躍が始まる。
『金の船』(大正11年より『金の星』)の編集に当たり、東京童謡会を結成し、北原白秋、西条八十らと近代童謡の基礎を固めた。
この頃、水戸から家族を呼び、巣鴨町打戸(豊島区)に居を定めた。
大正10年から昭和初期にかけての活躍は東京に本拠をおいて行われ、民謡集『別後』、童謡集『十五夜お月さん』の刊行をはじめ、名作を次々と発表する一方、小川芋銭や横瀬夜雨、山村暮鳥らと郷土の文芸活動にも積極的にかかわっている。

雨情の作品を普遍にしたものに中山晋平、本居長世らの作曲、佐藤千夜子の歌を忘れることはできない。
昭和20年(1945年)1月、64歳で栃木県河内郡姿川村(宇都宮市)で死去する直前まで、長い間各地を旅する詩作の旅人でもあった。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)

(平成29年7月8日 追記)


野口雨情が生きた時代

時代 西暦 和暦 年齢 年譜 歴史的出来事
明治 1882 明治15  1歳 父量平、母てる、の長男として生れる  
1894    27 12歳   日清戦争始まる
1896    29 14歳   常磐線水戸〜上野間開通
1897    30 15歳 上京。 常磐線水戸〜平間開通
1901    34 19歳 東京専門学校(早稲田大学)  
1902    35 20歳 学校中退 詩作を始める。  
1904    37 22歳 高塩ひろと結婚 日露戦争始まる
1906    39 24歳 樺太に渡る。  
1907    40 25歳 北海道に渡り新聞社に勤める  
1909    42 27歳 北海道から帰郷、ただちに上京する。  
1911    44 29歳 郷里に帰り植林事業・山林管理に携わる  
大正 1914 大正 3 32歳   第一次世界大戦
1915     4 33歳 妻ひろと協議離婚  
1918     7 36歳 中里つると結婚 シベリア出兵、米騒動
1919     8 37歳 「船頭小唄」を作詞  
1921    10 39歳 「十五夜お月さん」を作詞  
1923    12 41歳   関東大震災
1924    13 42歳 朝鮮旅行  
1925    14 43歳 「日本作歌協会」を設立  
1926    15 44歳 9月〜10月満洲旅行 金融恐慌
昭和 1927 昭和 2 45歳 台湾旅行  
1928     3 46歳 文部省仏教音楽会評議員  
1929     4 47歳   世界恐慌
1931     6 49歳   満洲事変
1932     7 50歳   上海事変、5・15事件
1934     9 52歳 満鉄の招聘で中国へ行く  
1935    10 53歳 日本民謡協会を再興、理事長になる。  
1936    11 54歳 2・26事件
1937    12 55歳 朝鮮旅行 日中戦争開始
1939    14 57歳 台湾を巡歴 ノモンハン事件
1940    15 58歳 北海道を巡歴 日独伊三国同盟
1941    16 59歳 熊本県各地を旅行 大東亜戦争開戦
1942    17 60歳 長崎県方面を旅行 ミッドウェー海戦
1943    18 61歳 山陰地方、四国地方を旅行 山本五十六戦死
1944    19 62歳 宇都宮市外に疎開、病気療養に専念 サイパン島陥落
1945    20 63歳 永眠 敗戦

野口雨情記念館 北茨城市歴史民族資料館
(野口雨情記念館)


北茨城市磯原町磯原130−1

開館時間:午前9時〜午後4時30分
休館日:月曜日、年末年始
入館料:一般(大人)300円、児童・生徒・学生100円

(平成15年7月6日訪問)

雨情記念館銅像建立記念顕彰碑・碑文

ここは雨情生家に程近く
見えはしないが見えたなら あれはアメリカ合衆国と謳いし歌境そのままの処 待望久しかった雨情記念館が まさに最適の用地に恵まれ 昭和55年5月21日に竣工した
次いで翌昭和56年5月24日 北茨城市制施行25周年記念雨情生誕100年祭を機会に 詩作に耽る在りし日の雨情銅像除幕の式を行った
記念館の建設はもとより これに収蔵する文物 さらには銅像の建立など 実に多くの人々の御協賛をいただいた 思うにこのような善意の御協力なしには すべてのことが成就できなかったに違いない
即ち 敷地3,136.52平方メートル(約934坪)は いわき市平字白銀町5番の9 安嶋二郎氏が 全くの無償をもって御寄附下された土地である 氏は雨情先生が竹馬の友 安嶋 誠氏の御遺族であり 故人もさぞ喜ぶであろうとの御厚意はまことに有難く 唯々感銘深く想うところである
収蔵の文物は 雨情先生の遺品 遺墨をはじめとし 先生にゆかりのある人々の書画 写真の類であり その数210余点(昭和56年5月現在)は いずれも無償をもって寄贈もしくは寄託されたものである
ここにもまた 雨情先生を慕う人々の御芳情に深謝しなければならない
銅像は 滋賀県甲賀郡水口大字宇川□□37番の1に住まわれる新進著名な彫刻家 西森方□氏の作である 氏はかねてから雨情先生に関心を寄せられ製作に当たっては ひたすら献身的に情熱を傾け尽くされた
また 銅像の建立ならびに周辺の緑化造園のために寄せられた浄財は 合計204名による 1,400万7,000円の多額に及ぶもので これなしには この事業の達成は有り得なかったと言っても過言ではない
ここに 大方の善意と御協力に対し深甚なる敬意をしるすものである

昭和56年5月吉日


野口雨情の生家 野口雨情の生家

北茨城市磯原町磯原73番地

見学無料

野口雨情生家

野口雨情(本名・英吉)は、明治15年5月29日、父量平の長男としてこの家に生れました。
野口家はかつて水戸藩の郷士であり、水戸光國より観海亭と名づけられました。
昭和42年3月24日茨城県史跡文化財として指定されております。
家族の方が生活されておりますから次のことに注意して参観してください。

参観できる時間
午前10時〜午後3時
庭木、建物等に手をふれないで下さい。
家族の方に迷惑のかからないよう参観してください。

北茨城市教育委員会

(説明板より)

野口雨情像 平成18年11月10日

茨城県・北茨城市市役所でお会いしました。

野口雨情像


北茨城市名誉市民

野口雨情氏
(茨城県北茨城市・市役所)





(平成18年11月10日)

野口雨情氏(明治15年5月29日生〜昭和20年1月27日没)

茨城県多賀郡北中郷村磯原(現北茨城市磯原町磯原)に生まれ、本名は英吉といい、64歳の生涯中数多くの作品、評論等文学的に価値の高いものを残している。
雨情の作品は、独特の感性を持ち、平明、簡潔な言葉で、ありのままの純真、素朴な人情や自然の姿を愛深く詩情豊かにうたい上げている。
本市の文化振興に大きく貢献した功績により平成3年12月6日、北茨城市名誉市民に推挙された。
(主な著名作品)
シャボン玉、黄金むし、紅屋の娘、兎のダンス、雨降りお月さん、あの町この町、船頭小唄、波浮の港、七つの子、赤い靴、青い目の人形、磯原節、磯原小唄等々。

北茨城市制35周年記念事業
北茨城市名誉市民胸像建設実行委員会
平成4年3月吉日

(碑文より)

北茨城市役所




北茨城市役所






(平成18年11月10日)

野口雨情



野口雨情

(常盤自動車道中郷サービスエリア下り線の公園にある説明板より)





(平成18年11月10日)

童謡詩人
野口雨情

あなたは野口雨情をご存知ですか。
雨情(明治15年〜昭和20年)は、北原白秋、西条八十さいじょうやそと共に日本三大童謡詩人に並び称されています。
豊かな童心を核とし、素朴な香りをまとったその作品は、いつもやさしく私たちの心になじみます。
「赤い靴」「雨降りお月さん」「あの町この町」「青い目の人形」「しゃぼん玉」「蜀黍もろこし畑」など、あなたもきっと口づさんだことでしょう。
脈々と愛唱されている雨情の歌は、不思議なほど日本的情景を、メロディの向こうに呼び起こしてくれます。
心乾いた現代にさえ・・・・・。
ここ北茨城市は雨情の故郷です。
この公園に散在する雨情の詩碑は、地元にゆかりのある人々の手で心をこめて揮毫きごうされたものです。
一つ一つが個性的表現で、作品の内容はもちろん、愛されている雨情の一端を味わっていただけることでしょう。
そして雨情が仰いだ空、目にした緑、頬に届いた風を足をとめてあなたも感じてみてください。
そんな喜びの小道が、今、ここから始まるのです。(桂木なおこ)

(常盤自動車道・中郷サービスエリア下り線の公園内の説明板より)

詩 碑
青い目の人形 赤い靴 蜀黍畑
しゃぼん玉 雨降りお月さん あの町この町

野口雨情著名作品

十五夜お月さん
十五夜お月さん 御機嫌さん 婆やは お暇とりました
大正9年9月「金の船」
作曲 本居長世

七つの子
烏 なぜ啼くの 烏は山に 可愛い七つの 子があるからよ
大正10年7月「金の船」
作曲 本居長世

赤い靴
赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった
大正10年12月
作曲 本居長世

青い目の人形
青い目をした お人形は アメリカ生れの セルロイド
大正10年12月「金の船」
作曲 本居長世

シャボン玉
シャボン玉 飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こはれて消えた
大正11年11月「金の塔」
作曲 中山晋平

雨ふりお月さん
雨降りお月さん 雲の蔭 お嫁にゆくときゃ 誰とゆく ひとりで傘 さしてゆく
大正14年1月「コドモノクニ」
作曲 中山晋平

波浮の港
磯の鵜の鳥ヤ 日暮れに帰る 波浮はぶの港にゃ 夕焼け小焼け 明日あすの日和ひよりは ヤレ ホンニサ 凪なぎるやら
大正13年6月「婦人世界」
作曲 中山晋平

船頭小唄
おれは河原の 枯れすすき 同じお前も 枯れすすき どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れすすき
大正10年3月「新作小唄13」
作曲 中山晋平


歌碑



『磯原小唄』歌碑

(茨城県北茨城市・二つ島近くの国道6号線沿い海岸)





(平成18年9月28日)

磯原小唄

野口雨情 詩
篠井清水 曲

二ツ島でも 世間を
世間をかねて テモヤレコラサ
顔を見合せ朝夕に
はなればなれに チョイト 暮らすもの

碑文(裏)

天妃山から東を
東を見ればテモヤレコラサ
見えはしないが見えたなら
あれはアメリカ
チョイト合衆国

磯原小唄は郷土磯原を愛し 唄の聖と仰がれる野口雨情の詩である
書は恩師雨情を思慕して忌辰墓参を怠らず 常陸磯原を第二の故郷とされ 千石舟船の味覚とともに この景観をこよなく賞翫する塩原温泉の泉漾太郎先生である
千石船が創業15周年記念に建立した 二つ島にゆかりの磯原小唄詩碑である

昭和63年4月吉日
撰文 磯原雨情会長 杉月時雄
建碑 株式会社千石船
施工 磯原町 東小川石材店






『井の頭音頭』の歌碑

(東京都三鷹市井の頭・「井の頭公園」内)




(平成23年4月29日)

【説明板】

いて
   さわいで
の暮れごろは
よし
   行々子よしきり
はなりゃせぬ
               雨情





童心居

(東京都三鷹市井の頭・「井の頭公園」内)

移築された書斎



(平成23年4月29日)

童心居

童心亭は、童謡詩人として名声を博した野口雨情の旧書斎を移築し、その後の改築を経て一般に公開しているものである。
雨情は、1882年北茨城市に生まれ、童謡「赤い靴」や創作民謡「波浮の港」などの作詩で広く世に知られた。
1924年吉祥寺に居を定め、書斎を「童心居」と称した。
1945年の雨情没後、建物は大島秀一氏の手に渡ったが、その後、雨情会に寄贈され、さらに1958年8月東京都に寄付されて、翌年11月1日武蔵野の面影深いこの地に移築された。

(説明板より)






井の頭公園恩賜公園
(東京都武蔵野市御殿山1−18−31)




(平成23年4月29日)







 歌碑 
 (山形県酒田市・日和山ひよりやま公園)





(平成26年11月23日)

【碑文】 

米ぢや庄内
  港ぢや酒田
日和山まで
  船が来る
     野口雨情

野口雨情 
大正15年(1926)8月、酒田の荒木京之助川柳集出版記念音楽会に中山晋平、佐藤千夜子と共に来酒の折荒木氏に贈ったものである。

(説明板より)


 (関連商品のご紹介)

野口雨情



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