野村和作(靖)像 平成15年7月25日

野村靖 のむら・やすし

天保13年8月6日(1842年9月10日)〜明治42年(1909年)1月24日

山口県萩市・萩往還公園(道の駅)でお会いしました。


萩藩下級武士出身。
松下村塾で学び、尊皇攘夷運動に活躍しました。
岩倉遣外使節団に加わり欧米諸国を視察。
のち神奈川県令・駅逓えきてい総監・枢密院顧問官・駐仏公使などを歴任しました。
明治27年(1894年)第二次伊藤内閣の内相となりましたが、自由党との提携に反発して明治29年(1896年)辞任しました。
政党内閣に反対して伊藤博文と疎遠になり、山県有朋に接近。
晩年は政界を退き皇女の養育掛となりました。


野村和作と天野清三郎像 萩往還公園(道の駅)に建つ銅像
(山口県萩市郊外)

右:野村和作(靖)
左:天野清三郎(渡邊蒿蔵)

野村和作(靖)

天保13年〜明治42年
足軽の子として生まれました。
16歳の時に兄の入江九一いりえ・くいちとともに松下村塾に入塾しました。
松陰が最も信頼する門下生の一人でした。
松陰没後は、京都や江戸で村塾グループの尊皇攘夷運動に参加し、四境しきょう戦争や戊辰ぼしん戦争で各地を転戦しました。
維新後は政府高官となり、内務大臣を務めました。

(説明板より)


野村靖の墓



子爵野村靖 墓(向かって右)
(東京都世田谷区・松陰神社・吉田先生墓所)

向かって左:野村靖夫人・野村花子 墓



(平成20年7月4日)

子爵野村靖 墓 天保13年(1842)〜明治42年(1909)
16歳の時松陰に師事、尊攘の事に奔走する。
明治になり特命全権大使岩倉具視に随行して欧米各国を視察、帰朝して外務省に出仕。
神奈川県令、逓信次官、枢密顧問官、フランス外交公使等を歴任し、第二次伊藤内閣内務大臣、第二次松方内閣逓信大臣を勤める。
遺言により松陰先生墓域内に埋葬。
享年68歳。

野村靖夫人野村花子 墓
明治44年埋葬。

(説明板より)

吉田先生墓所



吉田先生墓所
(東京都世田谷区若林4−35−1・松陰神社)





(平成20年7月4日)

吉田先生他烈士墓所

文久3年(1863)正月。
高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三やまおようぞう、白井小助しらいこすけ、赤根武人あかねたけひと等は、松陰先生の亡骸なきがらを千住小塚原回向院せんじゅこづかっぱらえこういんよりこの世田谷若林せたがやわかばやし大夫山だいぶやまの楓かえでの木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。
同時に小林民部こばやしみんぶ、頼三樹三郎らいみきさぶろうも同じく回向院えこういんより改葬。
その数日後、来原良蔵くるはらりょうぞうの墓を芝青松寺しばせいしょうじから改葬。
同年11月、福原乙之進ふくはらおとのしんを埋葬した。
禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助わたぬきじろすけを埋葬、中谷正亮なかたにしょうすけを芝清岸院しばせいがんいんより改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てた。
その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠いしどうろうと墓域ぼいき内の水盤すいばんが、謝罪の意を込め寄進された。
明治8年、来原良蔵妻和田春子を埋葬。
明治37年、桂太郎が長州藩第4大隊招魂しょうこん碑を建立。
明治42年、遺言により野村靖のむらやすしを埋葬。
明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。
昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。

(説明板より)

松陰神社



松陰神社
(東京都世田谷区若林4−35−1)





(平成20年7月4日)
松陰神社



松陰神社
(東京都世田谷区若林4−35−1)





(平成20年7月4日)

松陰神社

ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命よしだとらじろうふじわらののりかたのみこと(吉田松陰 先生)

松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰しゅさいし、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育しました。
しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。
その4年後の文久3年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫もうりだいぜんだゆうの所領で大夫山だいぶやまと呼ばれていたこの地に改葬されました。
明治15年(1882)11月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔ぼはんに社やしろを築いて先生の御霊みたまを祀り神社が創建されました。

(説明板より)



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