小花作助 おばな・さくすけ

文政12年2月24日(1829年3月28日)〜明治34年(1901年)1月17日


小花作助・妻幾子の墓



右:小花作助墓
左:妻幾子墓

(東京都台東区谷中・谷中霊園)




(平成19年12月28日)

東京都指定史跡
小花作助墓

所在地 台東区谷中7丁目
      東京都谷中霊園乙3号3側8番
指定  平成2年3月22日

小花作助(1829〜1901)は江戸幕府の幕臣で、はじめ作之助と称し、明治に入って作助と改めている。
幕末の文久元年(1861)11月には小笠原島開拓御用を命ぜられ渡航し、1年半にわたり現地にとどまり、その支配にあたっていた。
明治維新後は新政府に仕え、明治9年(1876)12月には小笠原島内務省出張所の初代所長を命ぜられ着任。
以後、3ヶ年にわたり在島し、小笠原の初期島治に尽力した。
彼は小笠原諸島の歴史を正しく理解する上で欠くことのできない人物の一人で、その墓は旧態をよくとどめている。
指定面積1.619平方メートル。
なお、小花作助関係の遺品(所有者 小笠原村)は彼の事績を裏付け、小笠原初期島治の実態を明らかにすることができる貴重な史料として、東京都有形文化財(歴史資料)に指定されている。

平成2年12月27日 建設
東京都教育委員会

(説明板より)


【小笠原諸島】

小笠原諸島は、江戸からおよそ1千キロの海上にある。
島そのものは、今から4〜5千年前からあった。
海底火山脈の頂上が海上に盛り上がって出来たものである。
北緯24度14分から北緯27度45分、東経141度16分から東経142度26分にわたって散らばっている30個あまりの島々である。
一番大きい父島は24平方キロ、2番目に大きい硫黄島は22平方キロ、三番目の母島は21平方キロ。
気候は1年を通じて暖かく、雪などの降る時はなく、父島の平均気温は22.6度。
冬は17度、夏は27度である。
蛇やサソリなど、人間を殺すような動物はいない。
バナナ、オレンジ、パパイヤ、マンゴなど熱帯の果物がなっている。
この島は、日本以外の国々の地図には「ボニン島」として書きこまれていた。
「ボニン島」とは「無人島」という日本語からのなまりであろう。

後陽成天皇の御代、文禄2年(1593)7月26日、徳川の武将・小笠原貞頼は、伊豆から出て南の海を探検して廻り、無人島を発見して上陸し、木の杭を島内2ヶ所に建てたというが、「文禄2年7月26日」などと、日付までハッキリしているところが返って作り話らしい。
明治21年(1888)に出版された小笠原島庁編、警視庁監獄石川島分署印刷『小笠原島誌纂』によると、小笠原貞頼の発見は「文禄2年10月貞頼家康ニ従ヒ東帰スルノ後」と書いてあって日付はない。
ともかく日本政府の公文書が、小笠原貞頼による小笠原島発見から書きはじめられている。

小笠原貞頼は、信州深志の城主・小笠原長時の曾孫である。
小笠原長時は天文22年(1553)、武田晴信に滅ぼされた。
その長男・小笠原長隆は織田信長に屈し、越中富山で戦死。
その子・長元の子が貞頼である。
長元・貞頼父子は、織田信長、豊臣秀吉徳川家康に仕えて戦功があった。
文禄元年(1592)、朝鮮の役に際して貞頼は軍検使として働いた。
帰国するや、家康は貞頼に、お前たちは主従もろとも禄に不自由しているだろうから、小田原の陣以来の軍功のあったことだし、島などを見つけて申し出たらばあげようと、証拠の書付をくれた。

小笠原貞頼は何度も、その所領・小笠原諸島に出かけて行った。
その子・長直も一度目は島に達したが、二度目には風浪に妨げられて上陸できず、その後は上州の館林に住んで死んだ。
文禄2年から寛永2年(1625)までの32年間、小笠原諸島との行き来はあったが、その後はパタリと渡航しなくなった。

ヨーロッパの文献では、1543年(天文12年)にスペイン人のルイ・ロペツ・ド・ヴィヤロボスが小笠原諸島を見た記事が最も古い。
ヴィヤロボスはフィリピン諸島を攻略した人物であり、小笠原貞頼の小笠原諸島発見の記事よりは信頼できるが、それ以前に数知れぬ漂流者(その多くは日本人)がこの島を発見していたことは推定できる。

寛文9年(1669)に阿波の勘左衛門、安兵衛、秀之丞、三右衛門の一行、紀州の長左衛門がそれぞれ別々に小笠原島に漂着し、その翌年の寛文10年に、下田に戻って奉行所に届け出た。
この報告に基づき、幕府は延宝3年(1675)6月に伊豆の代官・伊奈兵右衛門忠易に「巽の方の離島巡見」を実行させたという。

ドイツ人エンゲルベルト・ケムペル(1651〜1716)は、オランダ東インド会社の医官として来日し、元禄3年(1690)から元禄5年まで滞在し、ヨーロッパに帰ってから『日本志』(1728年刊)を書いた。
この本によると、この無人島は、1675年(延宝3年)頃に日本人によって発見された。
伊豆の八丈島から暴風のため押し流された日本船が、この島に漂着した。
この日本人たちは、この島を「フジン島」と呼んだ。
というのは、この島に住民の住んでいるのを見なかったからである、と記している。

享保12年(1727)になって、小笠原長直の孫で小笠原宮内貞任という浪人が、老中・松平伊豆守に、無人島は自分の家の旧領であるので、そこに渡りたいと願い出た。
町奉行・大岡越前守が申し出を吟味し、明年5月に行ってよろしいということになった。
そこで小笠原宮内貞任は300石積みの船を支度して大坂から出帆した。
息子の民部が言うには4年経っても帰って来なかったので父の船は沈んだのだろうとのことである。
その後、小笠原諸島への渡航はまた途絶えた。

1827年(文政10年)、英艦ブロッサムが小笠原島占領を宣言。
翌、1828年(文政11年)、ロシア船ルトケが小笠原に至り占領を宣言。

米国マサチューセッツ州ブラッドフォード出身のナサニエル・セイヴォリーは、ハワイのホノルルに行って働いているうちに、無人島のことを聞き、1830年(天保元年)6月26日に他の4人の白人と共に小笠原島に達した。
セイヴォリーはグアム人と結婚して子供をもうけ、ここに住み着いた。
セイヴォリーは米国人であり、彼と行を共にしたアルディン・チャッピンは米国人、リチャード・ミリンチャップは英国人、チャールズ・ジョンソンはデンマーク人、マテオ・マザロはイタリアのジュノア人だった。
彼らはここに、かなり豊かな国際的な社会を作った。

ホノルル駐在のイギリス領事・アレクザンダー・シンプソンは、1842年(天保13年)12月27日付公文書で、この無人島の経営状態を報告し、この島がブロッサム号艦長・ビークーの発見したものであり、イギリス領土であると述べている。
これは米国人セイヴォリーをわざと無視したものであり、小笠原諸島をイギリスの主権下に置こうとしたものだと言われている。

1853年(嘉永6年)にペリーが東洋艦隊を率いてこの島を訪れた時、セイヴォリーはこの「植民地」の首長に任命されている。
ペリーはこの島の発見について『日本遠征記』(1856年刊)に「ヨーロッパ人はその発見者として何ら権利もなし」と書きいれたのは、イギリスの態度に反発したものと言われている。

幕府は海防上の必要から文久元年(1861)、外国奉行・水野筑後守忠徳一行90余名を軍艦「咸臨丸」に乗せて小笠原諸島に送り、翌文久2年にセイヴォリーたち外国人移住者に小笠原が日本の属島であることを伝えた。
通訳として、既に嘉永2年(1848)捕鯨船フランクリン号に乗って同地を訪れたことのある中浜万次郎がこの一行に加わっていた。
現地監督官として小花作之助(作助)が父島に残った。
同文久2年、幕府は小笠原島開拓を計画して第一次移民を父島に送ったが、翌年には内外事情切迫のためにこの計画を中止し、幕府官僚と移住民を引き揚げた。
この後、小笠原の国際社会は無国籍のまま数年を過ごす。
明治政府が出来た後、宮本守成らの建白書があって、政府は小笠原開拓を研究しはじめ、明治8年(1875)小花作助・田辺太一らの調査隊を派遣する。
この政府調査団は、初代開拓者ナサニエル・セイヴォリーの未亡人や長男に会っている。
セイヴォリーが亡くなったのはその前年、1874年4月10日のことで、80歳だったという。
このころ島の人口は71人(男37人、女34人)。
イギリス領事・ロバートソンによる別の報告では、人口66人、そのうちこの島で生まれた者35人となっている。
明治9年、政府は駐日各国公使に通達して、小笠原諸島を日本領土として認めさせた。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年4月30日追記)




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