小高城 おだかじょう

(福島県南相馬市小高区)


小高城跡 平成20年10月5日

小高城址碑




相馬公舊居城 小高城址碑






(平成20年10月5日)

小高城由来

小高城ハ相馬公ノ舊居城ニシテ一ニ紅梅山浮舟城ト稱ス
古此地ヲ中四郎内或ハ堀内ト云ヒキ
保元ノ頃海東小太郎成衡ノ五子五郎隆行行方ヲ譲ラレ小高堀内ニ居リ行方氏ヲ稱セリ
今ヨリ六百廿餘年前後御醍醐天皇ノ元享三年四月相馬重胤公下総ヨリ下向太田邑別所館ニ住ス
行方ハ藩祖師常公軍功ニ依リ文治中源頼朝ヨリ加賜セラレシ地ニシテ公ハ即チ六世ノ裔ナリ
然ルニ別所ハ狭地ナル故三年ノ後嘉暦元年小高ニ移ル
此時行方氏堀内ヲ譲リ大井邑ニ退ク
延元元年春公出陣シテ鎌倉ニ在リ二男光胤ニ書ヲ貽リ更ニ城郭ヲ築カシム
同年四月公戦死シ翌月源顕家卿ニ當城ヲ攻落サレ光胤以下多ク討死ス
顕家卿鈴木某ヲ城代トシテ守ラシム
翌二年春公ノ孫胤頼公一族郎等ヲ■シ襲ヒテ鈴木某ヲ走ラセ小高城を復ス
十二代高胤公標葉ト連年兵ヲ交フ
其子盛胤公明應元年十二月標葉ヲ攻滅シ其地ヲ合ス
標葉ノ臣多ク我ニ帰ス
盛胤公ノ男顕胤公ニ至リ勢威近國ニ振ヒ小高ノ名声ニ聞ユ
其孫義胤公慶長二年牛越城ニ移リ小高ハ支城ト為リタレト同七年秋再ヒ小高ニ移リ其子利胤公に至リ慶長十六年十二月中村ニ移城
小高城廃城セラル
茲ニ至ル迄十一代二百八十餘年ナリキ

昭和十八年九月  霞橋 只野 清撰並書

昭和十八年九月 妙見婦人講社一同建之

(碑文より)

小高城の由来

小高城は相馬公の旧居城で紅梅山浮舟城と称した。
この地には12世紀の頃行方氏がいたといわれる。
藩祖師常公が軍功により文治中源頼朝から賜った地で鎌倉時代の末元享3年4月重胤公下総国から移るに及んで嘉暦元年この城に據る。
建武3年4月次子光胤に命じて修築せしめ爾後相馬藩の本據として南北朝の争乱に重要な位置を占め小高城攻防戦は相馬文書の外岡田大悲山飯野文書等によって史上明らかな事実である。
慶長2年にいたって義胤公牛越城に移ったが同7年再び小高城に還り同16年12月2日利胤公中村城に移った。
重胤公よりこゝにいたるまで11代280余年間6萬石の城として続いたのである。
小高城は小規模乍ら原形が保存されて居り台地の頚部を切りとって空湟からぼりとし四周を削り掘及び池をめぐらし頃はには土塁どるいをめぐらした跡が見られ、よく古城の面影をとゞめて居り中世城郭として注目すべきものがある。
昭和33年8月1日福島県史跡に指定さる。
指定地域 17037坪

(説明板より)

福島県指定史跡
小高城おだかじょう

昭和33年8月1日指定
所在地 相馬郡小高町小高字古城・城下・八景前・金谷前
所有者 相馬胤敏ほか
管理者 小高町教育委員会

小高城は、小高川氾濫原はんらんげんに舌状にのびた台地の上にあり、その台地の頸部を切り空濠からぼりとして、四周を削り、濠及び池をめぐらし、頂きには土塁を築いている。
元亨げんこう3年(1323)4月、相馬重胤が下総国(今の千葉県)流山から移るにあたって、はじめ太田(現原町市)の別所館に住み、嘉暦元年(1326)この城に移った。
建武3年(1336)に次子光胤に命じて修築させ、以後相馬氏の本拠として、南北朝の乱には北党の重要な位置を占めた。
小高城攻防戦は相馬文書のほか、岡田・大悲山・飯野文書などによって明らかである。
慶長2年(1597)に相馬義胤が原町市の牛越城に移り、当城を支城としたが、同7年再びもどり、同16年(1611)に相馬利胤が相馬の中村城に移って廃城となった。
城内の相馬小高神社は相馬氏代々の守護神である妙見を祀った社で、相馬三妙見のひとつに数えられ、「相馬野馬追」の野馬懸はここで行われる。
なお、小高城は別名紅梅山浮舟城とも称されていた。
城郭としては小規模であるが、原形がよく保存されており、本県の中世城郭として注目すべきものである。

福島県教育委員会

(説明板より)

戊辰戦死の神霊碑


『戊辰戦死之神霊』碑


徴兵 中村 藝州 肥後 長州 筑前 因州 筑後 伊州 館林 大洲
藩士 244名

明治17年9月 小高郷有志者樹之


(平成20年10月5日)

碑文

相馬将監胤真行年35歳

村田半左ェ門一隆34才
臼井章喜邦37才
田村五郎太夫純顕36才
岡田小三郎庸重28才
佐藤市兵衛元春35才
斉藤市兵衛實定27才
菊池庄佐ェ門春茂25才
末永栄助直重20才
佐藤喜右ェ門正信33才
佐々木清右ェ門清廣34才
片草村農久兵衛31才




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