織田信孝 おだ・のぶたか

永禄元年(1558年)〜天正11年5月2日(1583年6月21日)


織田信長の三男。
伊勢神戸かんべ氏を継いで神戸三七さんしちとよばれた。
天正10年(1582年)四国遠征直前に本能寺の変を聞き、豊臣秀吉に合流して明智光秀を破った。
兄・信雄と織田家の後継を争った清須会議の結果、甥・秀信が家督を相続し、信孝は美濃国岐阜城主となる。
その後、秀吉の処遇に不満を持ち、柴田勝家と結んで打倒を図ったが失敗し、尾張国野間で自害した。26歳。


織田信孝の墓



織田三七信孝卿之墳墓
(愛知県知多郡美浜町・野間大坊)





(平成18年4月3日)
大御堂寺本堂



大御堂寺本堂

(愛知県知多郡美浜町・野間大坊)

現在の建物は3度の火災等にあり宝暦4年(1754)に鎌倉様式にのっとり再建された。



(平成18年4月3日)

寺院沿革

正式には鶴林山大御堂寺おおみどうじ(通称:野間大坊のまだいぼう)といいます。
その歴史は古く天武天皇(673〜86)の時代に始まり聖武天皇(723〜49)の時、行基菩薩が中興します。
後に弘法大師が諸国行脚の際留錫し、一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。
承暦年間(1077〜81)に白河天皇の勅願寺として、大御堂寺と称せられました。
後に源頼朝公が亡父義朝公の菩提を弔うために建久元年(1190)に開運延命地蔵尊と不動明王・毘沙門天を奉安され、七堂伽藍を造営します。
そして秀吉公、家康公の庇護を受けて発展。
現在尾張地方随一の祈祷寺として信仰を集めています。

(リーフレットより)



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