(別称:小早川館)
小田原市城内6−1
「相州小田原城」のパンフレットより
室町時代に大森氏の築いた山城が前身で、その後戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に整備拡張され、豊臣氏の来攻に備えた城下を囲む大外郭の出現に至って城の規模は最大に達し、前例を見ない巨城に発展した。
小田原北条氏滅亡後は徳川氏の譜代大名大久保氏が城主となり、江戸時代になると三の丸以内に規模が縮小されたが、稲葉氏の時代に行われた大規模な工事によって近世城郭として生まれ変わった。
次いで大久保氏が再び城主となり、東海道をおさえ箱根をひかえた関東地方防御の要として幕末に至った。
小田原城は明治3年に廃城の方針がだされ、城内の主な建物は解体された。
城址は国の史跡に指定され「城址公園」として、現在も様々な整備が続けられている。
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昭和35年に江戸時代の末期の姿で復興されました。
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【小田原城】
小田原城は、東西を酒匂さかわ川・早川が流れ、南は海岸に接した要害に築かれていた。
はじめに小田原城を築いたのは、扇谷上杉氏の重臣・大森氏である。
15世紀初頭のことである。
以来、大森氏は代々小田原城を本城として西相模(神奈川県)に威を振るってきた。
ところが、明応4年(1495年)9月、大森氏は隣国の武将の奇計によって小田原城を追い出されてしまう。
この隣国の武将が、小田原北条氏の祖、伊勢新九郎いせしんくろう、すなわち北条早雲である。
こうして小田原城を占拠した早雲は、城を整備するとともに、京都から宇野藤右衛門うのふじえもんを招いて、「透頂香ういろう」を作らせるなど、商工業者の移住を奨励して城下町造りにも取り組んだ。
最盛期の小田原城の規模は、東西50町、南北70町(1町は約109メートル)と巨大で、これは、総延長20キロとも12キロともいわれる長大な総曲輪がめぐらされており、その内側をすべて城内と称したからである。
この総曲輪の中には、城郭や武家屋敷だけでなく、町屋までが取り込まれていた。
すなわち、総曲輪の内部はそのまま一つの城郭都市でもあったわけである。
小田原城が天下の堅城と謳うたわれたのは、このような特殊な構造にあった。
総曲輪こそが小田原城の生命線だったといってよい。
総曲輪の工事はすでに三代・氏康の代に始まっていたが、本格的に整備されたのは次の氏政の代であり、さらに豊臣秀吉の来攻近しと知ったころ、最終的な仕上げが施された。
北条氏は籠城にあたり、各武将に総曲輪の持ち場を割り当て、いかなる事態が突発してもその持ち場を離れてはならないと厳命している。
総曲輪は堀をうがって外部との仕切りとしていたが、その構えはよほど厳重だったらしく、戦後、小田原に参陣した武将の間に総曲輪(総堀)造りが流行したほどである。
(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)
(令和2年7月8日 追記)
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