寛文3年(1663年)〜寛保3年6月2日(1743年7月22日)
京都屈指の呉服商雁金屋かりがねや尾形宗謙の三男に生まれる。
幼名は権平、長じて深省と改名。
乾山とは主宰する乾山焼の商標で、世人がこれを通称とした。
元禄2年(1689年)双ヶ岡ならびがおかに習静堂を建て、隠士を自称。
しかし、元禄12年(1699年)には陶工として独立し、仁和寺近くの鳴滝泉谷に開窯。
京都乾いぬいの方角にあるため「乾山」を商標として、作品にもこの名款を付けた。
はじめ、兄・光琳こうりんが絵付けに参加し、光琳意匠を焼物に応用して、乾山焼は一世を風靡した。
享保の頃、江戸に下向して絵画にも力を注ぎ、文人陶工・絵師として81歳まで江戸に住んだ。
尾形乾山墓碑・乾山深省蹟 (東京都台東区・寛永寺) (平成19年12月28日) |
尾形乾山墓碑・乾山深省蹟しんせいせき
台東区上野桜木1丁目14番11号 寛永寺
尾形乾山は、琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳の弟である。
寛文3年(1663)京都で生まれた。
乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。
画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・享保年間(1711〜35)、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。
寛保3年(1743)81歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。
しかし、月日の経過につれ、乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政6年(1823)、顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。
抱一は江戸琳派の中心人物で、文化12年(1815)に光琳百回忌を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行、文政2年には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。
墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨4−8−25)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。
当寛永寺境内の二つの碑は、昭和7年、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。
その経緯は、墓碑に刻まれ、それによると現、善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正10年には公寛法親王との縁により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。
なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がる。
平成11年3月
台東区教育委員会
(説明板より)
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