緒方洪庵像 平成16年10月2日

緒方洪庵 おがた・こうあん

文化7年7月14日(1810年8月13日)〜文久3年6月10日(1863年7月25日)

岡山県岡山市足守・緒方洪庵誕生地でお会いしました。


備中国足守藩士・佐伯惟因の三男。
文政8年(1825年)父親と大坂に出、翌年に蘭学者・中天游なかてんゆうに入門し、緒方三平と改称。
天保2年(1831年)江戸の坪井信道塾に入り、信道の師である宇田川玄真げんしんにも学び、蘭書翻訳の力を蓄えた。
天保7年(1836年)長崎に遊学し、洪庵を名乗る。
天保9年(1838年)大坂に適々斎塾を開き、医業とともに蘭学教育に専心し、近代日本の建設に寄与した多くの人材を育成した。
牛痘接種法の普及やコレラの治療にも成果をあげた。
文久2年(1862年)幕府奥医師・西洋医学所頭取となるが、翌年喀血により急死。


緒方洪庵誕生地



緒方洪庵誕生地

(岡山市足守)




(平成16年10月2日)

岡山県指定史跡 緒方洪庵誕生地

緒方洪庵(1810〜1863年)は、江戸時代後期の蘭学者、教育者。
文化7年(1810)、備中足守藩士佐伯惟因の三男として、この地で生まれた。
15歳の時、大阪の蘭方医、中天游の門に入って蘭学をはじめ、文政13年(1830)、江戸に下り坪井信道の蘭学塾に入った。
また、天保7年(1836)には長崎に遊学し、オランダ商館長らから医学や西洋事情について学んだ。
洪庵29歳の時、医業の傍ら蘭塾「適適斎塾(適塾)」をを大阪に開き、福沢諭吉大村益次郎佐野常民橋本左内ら多くの門弟を育てた。
また、洪庵はオランダ人によって伝えられた種痘に成功した。
そして、嘉永3年(1850)には足守藩主木下利恭の招きに応じて、足守の除痘館で種痘を施した。
近隣を含めてその数500人に及んだと伝えられている。
緒方洪庵には「扶氏経験遺訓」や「病学通論」など翻訳、著述が多数あり、近代医学への貢献は計り知れない。
この生家跡は、指定面積686平方メートル、中央に顕彰碑が建つ。
この顕彰碑下には洪庵の臍の緒、元服の時の遺髪が埋められているという。

平成9年10月
岡山市教育委員会

(説明板より)

生家跡


洪庵緒方先生碑
銅像の側に建っています。
この碑の下にヘソの緒と元服の時の遺髪が埋められているといわれています。



緒方洪庵先生之像



緒方洪庵先生之像
岡山県知事 長野士郎 書




(平成16年10月2日)

緒方洪庵先生顕彰

緒方洪庵先生は わが国蘭医学の先覚者として活躍したほか たぐい希な教育者として偉大な功績を残されました
文化7年(1810)足守植之町の地で産ぶ声をあげ 16才の元服まで古里で育ったのち大阪に出て 中天游の思々斉塾に学ぶこと4年 ついで江戸に入り蘭医学の大家坪井信道をたずね 4年あまりの教えを受ける一方 「人身窮理小解」など多くの翻訳を成し遂げました
そののち長崎に行き約2年間 オランダ商館長ニーマンについて医学を修め 29才のとき 大阪瓦町で医業のかたわら適塾を開いて若い人材の育成に心血を傾けたのであります
洪庵先生の卓越した人徳を慕い学んだ門下生は3千人を数えたといわれ 明治維新前後における文明開化の主役となって活躍した人たちの教導を担った功績は極めて大きく その情熱は高く評価されているところであります
また 除痘館を開いて種痘事業を開拓し 足守除痘館などと共に各地で牛痘種痘法の普及につとめました
さらに 「■■■治準」を刊行してコレラの治療に尽くしたことや 「扶氏経験遺訓」「病学通論」などの翻訳著作の事業は今日においてもなお高度な業績として伝えられております
文久2年(1862)乞われて江戸に出府し幕府の奥医師と西洋医学所頭取を兼任し 間もなく法■に叙せられるなど 医学界として最高の地位についた足跡は 近代医学史に燦然と光芒を放つものがあります
このため 郷土の有志相はかりまして 先生の功績を讃え 遺徳を後世に伝えんこと願い 生誕180周年を迎えるに際し 宇野山の麓 誕生地の一角に座像を建立 のちのちまでもその雄姿を仰ぎ見ることといたします

(説明石碑碑文より)

※■は判読できなかった文字です。

緒方洪庵像 平成20年6月17日

大阪市東区北浜・緒方洪庵旧宅脇でお会いしました。

緒方洪庵像



緒方洪庵像
(大阪市東区北浜3−30・旧宅脇の緑地)





(平成20年6月17日)

碑文

緒方洪庵先生像

制作 川合敏久
題字 緒方惟之
監修 大阪大学・適塾記念会
寄贈 大阪北浜船場ライオンズクラブ チャーターナイト35周年記念事業
協力 日本生命保険相互会社
    財団法人 洪庵記念会

1997年2月19日


【緒方洪庵

緒方洪庵は、名は章あきら、字は公裁こうさい、適々斎また華陰かいんと号した。
文化7年(1810年)に足守あしもりという城下町で生まれた。
備中足守藩(木下氏・外様2万5千石)の家臣で、33俵4人扶持の父・佐伯惟因これよりの三男で末子であった。(長兄は幼没)
文禄8年(1825年)16歳で元服して「田上?せい之助惟彰これあき」と名乗った。
この年、父が大坂における藩の蔵屋敷の留守居役となり、洪庵も父に従って上坂した。
翌年、17才のとき蘭学者の中天游の門に入り、この時から「緒方三平さんぺい」と改名して、オランダ医学の修業を始めた。
洪庵は天游の門に学ぶこと4年、西洋医学に関する訳書をほとんど読みつくした。
文政11年(1828年)にシーボルト事件が起こった。
多数の蘭学者が連座して罰せられ蘭学界に大きなショックを与えたが、この事件の後まもなく、天保元年(1830年)、師・天游のすすめによって江戸遊学に出る。
しかし学資に乏しく途中種々辛苦をなめて、翌年、江戸に入り蘭学者の坪井信道の門下生となった。
22歳のときである。
この時期に洪庵はかなり多くの医書・物理書の翻訳や編述をしていて、そのうちいくつかは、後まで広く写し伝えられた。
洪庵は坪井塾の塾頭となったが、さらに信道のすすめによって薬品に関する研究のため宇田川榛斎しんさいの門に出入りした。
天保6年(1835年)に父に従い帰郷し、やがて大坂に出て旧師・天游の塾で蘭書を講じたが、翌年の2月、長崎遊学の途にのぼる。
このときになっていよいよ「緒方洪庵」と名を改めた。
洪庵は長崎の大音寺籠町かごまち(現・鍛冶屋町)で開業するかたわら、同地に遊学中の青木周弼しゅうすけ、伊東南洋(岡海蔵)とともにオランダ人プラゲ著の薬物処方書を訳すなどした。

2年間の長崎遊学ののち、天保9年(1838年)1月に帰郷し、3月には大坂に出て瓦町で開業。
7月には名塩(現・西宮市塩瀬町名塩)の医者・億川百記おくがわ・ひゃっきの娘と結婚した。
当時の大坂における蘭方医者としては、斉藤方策とシーボルトに師事した高こう良斎と日高ひだか涼台の3人が有名であったが、洪庵の名声も高まり、開業の翌々年の大坂における医者の評判の番付には早くも東の前頭四枚目に置かれている。
この瓦町の家は狭隘であったらしく、大坂に開業して8年目にあたる弘化2年(1845年)末には過書町かしょまち(現・中央区北浜3丁目)に町屋を購入して移転し塾を拡張した。
この建物が今日史跡・文化財に指定されている適塾であり、現存する我が国唯一の蘭学塾の遺構である。

嘉永2年(1849年)には『病学通論』を出版した。
これは現在の病理学総論にあたり、日本語で書かれた最初の病理学書といえる。
洪庵40歳のときである。

江戸幕府はかねてから洪庵の学識を認めており、奥医師として召出そうとしたが、洪庵はこれを固辞していた。
しかし、蘭学界の長老・伊東玄朴や林洞海が幕命の厳重なことを伝えてきたので、ついに断りきれず、文久2年(1862年)、江戸に出てまもなく奥医師になり、閏8月には西洋医学所頭取を兼ねる。
文久3年(1863年)6月10日、にわかに多量の喀血のため倒れて再び起たず、54歳の生涯を閉じた。
遺骸は江戸駒込高林寺に葬り、遺髪を大坂天満龍海寺(大阪市北区空心1丁目)に埋めて追憶のしるしとした。

【洪庵の子供達】

洪庵と妻・八重の間には13人の子がある。
そのうち4人は幼没している。

多賀(長女) 天保11年生まれ、嘉永2年没(10歳)
整之輔(長男) 天保12年生まれ、天保13年没(2歳)
平三(次男) 洪哉のち惟準、天保14年生まれ、明治42年没(67歳)
四郎(三男) 城次郎のち惟孝、弘化元年生まれ、明治38年没(62歳)
某(四男) 弘化2〜3年の間生まれ、幼没(年不詳)
小睦(次女) 弘化4〜嘉永元年生まれ、嘉永2年没(2〜3歳)
七重(三女) のち大槻玄俊の妻、嘉永2年生まれ、明治7年没(26歳)
八千代(四女) のち養子・吉雄拙斎(緒方拙斎)の妻、嘉永4年生まれ、明治44年没(61歳)
九重(五女) のち堀内利国の妻、嘉永5年生まれ、明治32年没(48歳)
十郎(五男) のち惟直、妻マリア・ロゼチ(イタリア人)、嘉永6年生まれ、明治11年没(26歳)
十重(六女) のち深瀬仲麿の妻、安政2年生まれ、明治4年没(17歳)
収二郎(六男) 安政4年生まれ、昭和17年没(86歳)
重三郎(七男) 安政5年生まれ、明治19年没(29歳)

【適塾】

塾では学級を設けて組織立った蘭学教育をし、それも各自の努力によって実力を養うことを主眼とする方針がとられた。
塾には塾頭があって塾の生活を総括し、その下に塾監がある。
一般塾生は学力に応じておよそ8ないし9級に分かれていた。
まず文法をならう初級からはじまって、次第に上級になると原書を勉強し、その程度も段々高くなり、第一等となる。

【姓名録】

入塾の署名をした書生の数は637人である。
洪庵が江戸に赴いた文久2年(1862年)8月までに612人(その中の1人は再入塾)、その後25人の署名者があって、元治元年(1864年)7月に終っている。
このほかに通いで学習している塾生、1843年以前の門人などを含めると千人を超えると推定される。

都道府県別 適塾門下生氏名
北海道(2人) 酒井 篤礼 父親は函館の蘭医。医者を継ぐはずがキリスト教に帰依。
函館を逃れて潜伏するも明治になってからも数度の投獄に遭う。
明治8年司教に叙され、伝道者の道を歩み明治14年死去。
田沢 成一郎 函館の西洋医術の家に生まれる。のち長崎に遊学中に客死。
岩手県(4人) 大島 周禎  父親は盛岡藩の侍医。
帰藩後は医者としてではなく御鉄砲方として藩士に西洋砲術を指導。
また、南部領釜石鉄鋼山に洋式高炉を築造し操業に成功する。
坂井 隆徳 盛岡藩の奥医者。
佐々木 恕伯 盛岡藩の遠野南部家の侍医の家柄。
父親はシーボルト直伝の蘭方医術を身につけていた。
嘉永5年、適塾に入り種痘法を学ぶ。
帰藩して侍医となり、多くの若き医生を育てた。
維新後、医院を開業して種痘等の診療にも活躍。
松岡 寿仙  
宮城県(4人) 尾崎 道倫  帰郷して故郷の涌谷で開業。明治初年には病院設立に努力。
坂本 道逸  
原 玄了 父親は仙台藩の医学館学頭。
横山 浅謙 長崎にも出向いて蘭医学と英語を学ぶ。
のち明治になって仙台に帰り、医学や英語を教授。
宮城県から東京大学病院に留学を命ぜられる。
明治12年、宮城地方での赤痢・コレラの流行では、治療と予防に当たり名をあげた。
秋田県(1人) 岩谷 省達  父親は外科医を開業。弘化3年に入塾。
帰国後、秋田藩で初めて横文字の読める人物として西洋医術の第一人者となる。
藩の外科医、佐竹氏の侍医長を務めた。
子孫は今も医業を続け8代目である。
山形県(13人) 吾妻 千齢  適塾で学んだ後、米沢か山形で蘭学の教授をしたらしい。
内村 良庵  
進藤 整斎  
鈴木 得応  
武田 良祐 父親が明治6年に開いた山形県公立病院の医師となる。
花沢 玄庵 代々生薬きぐすり屋を営む家。長崎へも遊学。牛痘種痘法を学ぶ。
安政2年、米沢藩内で疱瘡が流行したとき「近郷種痘掛」を命じられる。
2年後33歳で死去。
古山 立斎  
細谷 米山 帰国後、父の塾と医業を継ぐ。
山形藩の市中医取締役を務める。
松岡 理水 山形県公立病院の医師となる。
三瀦 白圭 三瀦みつまは上杉家に従い会津、米沢と移って代々典薬として仕えた家柄。
医薬修業のため長崎に出たが医学はあまり学ばなかった。
鉄砲術を蘭人より習い、帰国後、大砲や鉄砲打場を造って咎めを受ける。
33歳で死去。
宮崎 忠格 米沢市内で代々の医業を引き継ぐ。
弭間 正白  
藁科 松伯 山形県公立病院の医師となる。自らも病院を建てて経営。
薬学関係の著書もある。
福島県(6人) 大貫 礼蔵   
近藤 玄龍 郷里ニ本松に帰り藩医となり、維新後も胃腸科医を開業。
佐藤 周庵 福島藩典医の家に生まれる。
古川 春龍 農家の生まれ。米沢で医学を学んだがあきたらず、安政5年に適塾に入る。
さらに長崎に行きボードインに学ぶ。
戊辰戦争で帰藩し、松本良順の助手として傷病兵の治療に当たる。
のちに松本の跡を継いで会津の城内病院を主宰。
三浦 退之助 地方の名医の家柄。弟に家督を譲り元治元年、洪庵の没後に適塾に入る。
帰郷後、福島藩医となり、のち東京医学校(東大医学部の前身)教授となる。
南 三隆  
茨城県(6人) 飯田 良節  
岡部 同直  
金子 寿活  
田上 周道 上総国結城出身。適塾の初期の頃に入門。
手塚 良庵 安政2年入門。漫画家・手塚治虫氏の曽祖父。
松本 隆介  
栃木県(1人) 竹内 静安  
群馬県(2人) 群馬 良三 父親は厩橋(前橋)藩の御用商人。
親戚の蘭医が種痘で活躍、妻は蘭医の娘という関係で向学心に燃える。
37歳で3人の子持ちだが大坂に出て適塾に入門。
帰郷後、開業。明治以降は利根郡医として指導的立場となる。
震動雷 天僕 震動雷しだらは、伊勢崎の油・砂糖問屋の家に生まれる。安政6年に適塾入門。
長崎行きを含め2年間の修業ののち伊勢崎に帰る。
「日精堂」を開業して、外科・種痘を行なう。
明治になり、小学校校長や町会議長を務める。
埼玉県(1人) 我野 春造 父は武蔵国秩父郡坂石村の名主で質屋を営む。
安政2年に入門。のちに八王子で開業。
文久3年、28歳で他界。
千葉県(7人) 大野 貞斎  
鏑木 立本 父親は江戸・長崎で蘭医学を学び、佐倉藩の蘭医法を始めた人。
天保14年には佐倉で最初の人体解剖を行なう。
立本は21歳の時にすでに藩医に任じられていた。
安政元年、適塾で修業。
柴野 厚庵  
神保 朔茂 養父は、鏑木立本の父親と共に佐倉藩の初期の蘭医。
竹内 東白 適塾を出た後、京都で開業したが、やがて兵学者の道を選ぶ。
頼三樹三郎、梅田雲浜と交友を結ぶ。
健康にすぐれなかったため兵書の翻訳だけで実践活動には入らなかった。
野中 玄英  
布留川恵吉郎  
東京都(18人) 赤井 三郎  
赤城 良閑  
岩名 有文  
織田 貫斎 適塾を出た後、長崎で学ぶ。幕府奥医師の伊東玄朴の長女と結婚。
紀州侯に召されて寄合医師となる。
安政5年、米国使節ハリスの重患を治療して名声を得て奥医師となる。
佐藤 玄海  
沢田 修民  
杉山 泰輔 帰郷後、父の「石垣本店」の薬種商を継ぐ。
のちに砂糖商として極めて初期の輸入販売業を始める。
適塾出身者としては珍しく経済界で活躍。
明治になって、地元の戸長、県会議員、村長などを歴任。
明治30年には熱海電灯株式会社を創立した。
鈴木 玄節  
高松 洞?  
坪井 信友 洪庵の師・坪井信道の長男。嘉永5年に入門。
洪庵は恩師の子弟であっても厳しく、その不行跡のため一時適塾を追放される。
のちに許され、萩藩に医師として出仕し、医業の相談役や病院の総督を務める。
36歳で死去。
永井 昌伯  
永田 見臓  
中山 八郎  
西川 元正  (若山儀一)適塾に入ってのち開成所に入る。
慶応3年、洪庵の次男・洪哉(のち惟準)の義弟となり、一時期、緒方正と名乗る。
明治4年、岩倉遣外使節にしたがいアメリカに留学。
やがて若山儀一として日本資本主義発展史上に大きな足跡をのこした。
古川 文行 嘉永6年の洪庵の日記によると、よく洪庵の代診を務めている。
牧山 熹朔 (牧山修卿)長崎・大坂と合計3年余で江戸に帰り開業。
万延元年に勝海舟福沢諭吉と共に軍艦付医師として咸臨丸でサンフランシスコへ。
その後、幕府が西洋医学所の創設時に、その肝煎となる。
明治には医学校で教え、文部省、内務省に出仕。
コレラの治療や地方衛生にだずさわる。
晩年には窮民施療、濃尾地震への救恤などに私財を投じた。
村田 春斎  
湯浅 方斎  
神奈川県(3人) 富田 晩斎 父は小田原藩医、奥医師も務め、のち藩校修成館の医学学頭となった富田元道。
晩斎は文久3年、洪庵の没後に適塾で修業。
水留 昇仙  
毛利 耕蔵  
山梨県(3人)   中込 言貞 邨松の家で医業を修業。
適塾を出たのち、甲府で開業。
明治になって第一種痘区の担当医となっている。
広瀬 周平 (板倉郁蔵)板倉家の養子となり、板倉郁蔵と名乗る。
邨松 岳佑 甲府内で医学を勉強していたが結婚後、長崎に行く。
長崎で蘭医モーニケから直接種痘法を教わる。
帰郷途中、適塾に立ち寄り、洪庵から半年ほど薫陶を受ける。
帰郷後は種痘を一生の仕事として専念。
長野県(2人)  後藤 元哲 父は漢方医。
蘭医学を学ぶため適塾に入門。佐野常民、福沢諭吉らと交わった。
沼田 芸平 家は農業と酒造業を営む。
漢医学、儒学等を学ぶが満足できず、蘭医学を志して適塾に入門。
また外科医学も学び33歳から医業を開き、北信濃では最初の西洋医とされる。
のちに長野県会議員となり、地方公共事業に尽くす。
北信濃地方の民権運動の担い手たちを育てた。
新潟県(11人) 垣沼 関斎 郷里の町医として明治の半ばまで開業。
葛西 仲惇  
小林 準碩  
小林 誠卿 長岡藩医として活躍し戊辰戦争に参加。
小山 良長 戊辰戦争に参加。敗戦後一時逃れたが、間もなく病死。
鈴木 玄斎  
鈴木 光之助  
梛野 鎌秀 戊辰戦争に参加。
明治になり新潟地方の風土病「恙虫病」を近代医学の目で捉え、我が国最初の
恙虫病研究報告を行なったことで名高い。
八田 道碩  
北条 謙輔 (池田謙斎)のちに池田家の養子となり池田謙斎と名乗る。
明治3年、ドイツ・ベルリン大学に留学。
6年後に帰国し、陸軍軍医監、のち東京大学医学部総理、宮内省侍医局長官を歴任。
吉見 雲台 戊辰戦争で門弟と共に転戦し傷病者の治療に当たる。
富山県(3人) 赤  昌斎 赤昌斎の姓は正しくは赤祖父という。
安政4年に入門。のちに長崎の精得館で学び帰国。
富山藩医官として官軍で戊辰戦争に従事。
維新後は藩校で子弟の教育に当たる。廃藩後、医術薬舗を開業。
片山 文哲 適塾に入門し3年間の修業ののち、郷里の高岡で開業。
医業の傍ら明治初年に北海道から多量の昆布を取寄せヨードカリの製造に従事。
明治のヨード工業の草分け的存在となる。
佐渡 賢隆 のちに建部姓となる。
明治8年、上京し、一時警視庁医員などを務めたが、のちに富山で開業。
石川県(33人) 明石 元随  
池田 一学  
池田 三亥  
生駒 駿造  
今村 新斎  
大隈 春吉 帰郷後、ドイツ語を習得し、「独話辞典」を刊行する。
大田 良策 田中発太郎と共に、明治になって開設された医学館の教師に任命される。
これが閉鎖されると私費を投じて、これを金沢病院として継続維持した。
岡沢 終吉  
岡部 亮平  
奥野 勇助  
加藤 量平  
萱津 行蔵  
岸  直輔  
伍堂 春閣  
小林 文叔  
小柳 元学  
近藤 岩太郎  
坂  乙格  
鹿田 謹斎 帰郷後、英語教師や砲台築造などをする。
鈴木 儀六  
関沢 安太郎  
園田 文渓  
田中 発太郎 大田良策と共に、明治になって開設された医学館の教師に任命される。
これが閉鎖されると私費を投じて、これを金沢病院として継続維持した。
津田 淳三 嘉永2年、適塾に入門。のちに塾頭となる。
金沢へ帰り市立の種痘所を開設。(のちに加賀藩の種痘所となる)
津田 徳本  
原  省蔵  
藤井 宗朔  
馬島 健吉  
水越 元正  
森  健吉  
山本 清仲  
渡辺 卯三郎 適塾塾頭となる。
大聖寺藩出身。洪庵の信任厚く、帰郷するときに洪庵の二子の教育を託された。
やがて藩医となり、さらに侍医になった。
のちに再び長崎に行ってボードインらに学んだ。
明治になった藩校の洋学教師となり、大聖寺分病院の設立に尽くした。
福井県(25人) 石田 快介  
笠原 健蔵 兄の笠原白翁が福井藩の松平春嶽に進言し、長崎から牛痘を取寄せ京都で種痘。
洪庵がこれを分苗してもらい、大坂の種痘事業が始まった。
このことより、弟の健蔵は後に適塾生となる。
京藤 良斎  
栗山 海造  
斉藤 策順  
滝波 元章  
田中 禎輔  
田村 乙四郎  
土田 玄意 大野藩で種痘を行なう。
中村 正玄  
内藤 隆伯  
西川 貫蔵 大野藩で蘭学を教える。
橋本 左内 父は福井藩医。13歳で父の代診を務めたという。
松平春嶽の命で医学から離れ藩政の枢機に参画。
安政の大獄に連座して25歳の生涯を終える。
橋本 秀益  
秦  寛太郎  
林  雲渓 大野藩で種痘を行なう。
藤野 升八郎 坂井郡尼原あわら町下番に生まれる。
橋本左内の父親の紹介で京都の究理堂に学び、のち適塾に入門。
佐久間象山に兵学を学びたい希望を持っていたが諭され、帰郷して医業を開く。
升八郎の三男・厳九郎は、魯迅の「藤野先生」その人である。
蒔田 良哉  
松本 源造  
松本 五郎  
三竹 ?介  
宮永 勤斎 藩医宮永家の長男。
宮永 実吉 (高桑実)藩医宮永家の二男。
その後、高桑実と名乗り、福井藩の貧民治療などに尽力。
福井医学所・所長。
宮永 典常 藩医宮永家の三男。
明治になり、福井医学所が開設されたとき、兄の高桑所長のもとで教頭となる。
山崎 譲 大野藩で蘭学を教える。
岐阜県(14人) 青木 玄英 岐阜県の医学講習所設立に貢献。
秋月 東庫  
飯沼 五作 大垣藩士。江戸で舎密せいみ学(化学)を学んだ後、適塾に入門。
明治になり大阪舎密局に入学したが、成績優秀のため教師に編入された。
オランダ人ハラタマ、ドイツ人リッテルから化学を学ぶ。
明治26年、我が国最初の写真団体である日本写真会に入会し、写真術に傾倒。
適塾出身者としては異色の化学の開拓者。
飯村 周沢  
池上 謙策  
伊藤 貞斎  
江馬 春琢  
奥村 健二 可児郡久々里出身。
北島 宗二  
桑原 林庵 適塾生として初期の入門。明治に入って『原病学図』を刊行。
坪井 信立  
所  郁太郎 適塾にいる頃から尊王論を唱え、諸藩の志士と交わる。
文久2年に長州藩の藩医となり、禁門の変にも加わった。
のち、井上聞多(馨)遭難の際に治療に当たる。
慶応元年、藩論統一の戦いに遊撃隊参謀として高杉晋作をたすけた。
度々藩に建白書を上申したが志なかばで、27歳の時、腸チフスで陣中に急逝。
丸川 襄吉 (丸山元敬)高山で最初の種痘をした。
吉川 圭周  
静岡県(15人) 秋元 明司  
足立 藤三郎 (足立寛)福沢諭吉に学び、のちに適塾に入る。
江戸の医学所で教え、のちに医学所の塾頭となる。
明治になって軍医学校教官となり、初めて消毒法を講義、のち軍医学校長を務める。
退官後、日本赤十字社の事業の講師を務めた。
藤三郎はのちに寛と改名している。
跡見 玄山 はじめ漢医学を学ぶが、その後、華岡塾を経て適塾に入る。
伊吹 静馬  
岡村 健三  
神谷 健輔  
篠田 秀道 静岡出身だが、主に淡路島、徳島方面で活躍。
徳島藩の『英国騎兵操練式』『野砲演習式』の翻訳に従事。洋学所教授となった。
戸塚 柳渓 父は掛川藩医。帰郷後は兄を助けて医業に従い子弟を教えた。
野村 震平  
肥田 貢  
深沢 文卿  
深沢 雄甫 深沢家は甲州の郷士で祖父の代に医業を始めた。父は長崎で修業した沼津藩医。
雄甫は帰郷後、藩医のかたわら医業・医学塾を開き塾生を教育した。
明治に入り、静岡県の医務取締、検疫医員などを務めた。
本間 恒哉  
宮崎 尚温  
柳下 立達 父は蘭方医で洪庵とも親交があった。
立達は、帰郷後、沼津水野藩の藩医となる。
愛知県(8人)  稲田 宣四郎  尾張種痘所開業時から名を連ねている。
加藤 宗龍 西三河からの入門。帰郷後、医業に就く
北田 元碩  
桑田 道存 西三河からの入門。帰郷後、医業に就く
中根 玄山 西三河からの入門。帰郷後、医業に就く
奈倉 道庵 産婦人科医として活躍。
蜂須賀 修蔵 西三河からの入門。帰郷後、医業に就く
山中 頤庵 西三河からの入門。帰郷後、医業に就く
三重県(8人) 井上 主水  松阪の代々の医家。
主水はここに養子として入り、適塾修業の後、帰郷して医業を継いだ。
大国 明二郎  
小沢 敬斎  
川北 元立 津藩藩医である蘭方医の家に生まれる。
大垣の江馬塾に入った後、適塾に入る。
政府軍の軍医として戊辰戦争に参加後、津で開業。
三重県県会から地方衛生会員に選任された。
菅野 秀二  
福島 立庵  
古田 杏輔 志摩鳥羽藩の典医。伊勢山田で開業。
明治になり、同志と共に二見浦に海水浴場を開いた。
宮田 昇庵  
滋賀県(3人) 河合 辰之丞  
黒田 行次郎 父は膳所藩校の教授で、のちに頭取になった著名な人。
父の命により、行次郎は17歳で適塾に入門。
英国人デフォーの長編小説『ロビンソン・クルーソー』を邦訳したことで名高い。
江戸に出て3年足らずでオランダ語から訳して『漂荒紀事』と名付けた。
明治以降は多くの著書を刊行し、漢学や洋学の教授をし、地元の教育にも貢献。
望月 行蔵  
京都府(26人)  浅田 徳太良  
今井 良介  
岡  順造  
岡  直蔵  
荻野 広斎  
奥村 裕斎  
木戸 朴斎  
木村 宋斎  
栗原 唯一 適塾塾頭となる。
小林 牧太  
嵯峨根 良起 適塾を出て長崎で英学を学び、のちに江戸に出て開成所で教授した。
新宮 涼庵  
高橋 純平  
多田 周哲  
辻  学而  
土山 将曹  
戸田 謙次郎  
豊岡 正蔵  
中村 清太郎  
船曳 卓介 父は京都で産科を開業し名声があった。父を継ぎ産科を学ぶ。
適塾入門2年目にオランダ語を翻訳して『婦人病論』を刊行。
古田 松貞  
真島 多一良 (真島利民)京都の船曳に学んだ後、適塾に入門。
洪庵のすすめで英語を学ぶため長崎に行き、ボードイン、エルメレンスに師事。
明治になって京都府の病院で勤務。
日本初の精神病院が京都に、のちに東京に創立される。
いずれの病院の医師あるいは院長として勤務する。地方衛生会委員も拝命。
多一良(のち利民)の子は、大阪大学総長を務めた真島利行である。
村田 卓造  
森  漸庵  
安田 謙曾 適塾を出てから大野藩洋学館に入学している。
渡  新吉  
奈良県(6人)  岸  正爾 桜井の岸家の養子。
奈良で養父の医業を継いだが、のち四国伊予(愛媛県)の実家に帰り医業を続けた。
木邨 文蔵  
久保 良造 (久保良三)適塾の早い時期に入門。宇陀郡の医家に生まれる。
薬学と儒学を県下で学び、さらに洋学蘭医の道を選んで大坂に出る。
帰郷して開業。新式洋医術で地方の信望を集める。
種痘法をいち早く導入し、兄と協力して県下に種痘を普及させた。
谷  鵬庵 大和郡山出身。
父は洪庵没後、大坂種痘所から免許を得て大和地方に種痘を広めた。
鵬庵は父より早く死亡したらしい。
前田 順蔵  
三好 東益 郡山藩の「本道外科兼」、すなわち内科と外科を兼ねた藩医となる。
和歌山県(12人)  宇佐川 有道  
大石 才蔵  
小川 裕蔵 父は田辺で有名な華岡流外科医。
洪庵の北塾と緒方郁蔵の南塾に入門。のち、医学を捨て政事に走り江戸へ。
田辺に帰郷後、藩政改革に対し意見を述べる。
維新後、伊勢・京都で官吏を務め、田辺に戻り小学校校長や郡長を務めた。
織戸 譲輔  
河島 宜哉  
崖  嘉一郎 (塩路嘉一郎)塩路家に生まれ崖きし家の養子となる。
紀州藩和歌山蘭学所で適塾出身の池田良輔から洋学を学び、その後、適塾に入門。
慶応の頃、崖家から離縁し元の塩路姓に戻る。
のち適塾生・神植挌之助の未亡人いく(適塾生・山口良哉の姉)と結婚。
小渓 幸二  
佐田 尚平  
沢井 俊造  
須川 健蔵  
若林 元俊  
大阪府(19人) 芦田 愛次良 河内出身。
井岡 謙二  
池田 良輔 天満出身。大塩平八郎に5年間漢籍を学び、のちに華岡青洲塾に入り外科術を習得。
父の医業を助ける傍ら、蘭医学を洪庵から学び独立して開業。
のち長崎に遊学し英独仏の語学を学んだ。
洪庵のすすめで洋学・兵学をもって紀州藩和歌山蘭学所に出仕。
明治以後は、陸軍省に入る。
西洋兵学の翻訳や航海術により沿岸防備・軍関係の御用を務めた。
今西 純二  
大田 要  
小野 治八郎  
新川 去病 地元・岸和田藩の命により適塾に入門。
明治になって貝塚近木町議員、貝塚町長を務めた。
高瀬 西海 安政3年に適塾に入門。広瀬旭荘に洪庵の死を告げた。
高安 丹山 実父は大坂今橋の儒者。篠崎小竹・広瀬旭荘に漢学を学ぶ。
15歳のときに医師・高安家の養子となる。
洪庵が種痘活動をしたとき、その補助をしている。
明治以降は大阪医学校に勤め、明治13年まで教鞭をとる。(大阪公立病院)
のちに道修町で開業。明治19年のコレラ流行時にも活躍した。
滝川 章造  
壺井 俊三  
手塚 種三  
林  泰造  
日野 秀太郎  
平田 杏純  
三谷 正二郎  
山口 良哉 (山口良蔵)父・寛斎はシーボルトの高弟・高良斎に学び、医薬と蘭学塾を開いた人。
良哉は適塾の塾頭を務める。
のち、和歌山藩洋学所助教、大阪鎮台医官、兵部省で医官を任じる。
海軍省の命で舶用汽機新書や目耳曼ぜるまん軍律を翻訳している。
吉井 儀蔵 (長野一郎)河内長野から適塾に入門し、帰郷後、医術に従事。
攘夷運動の影響を受け、長野一郎と名を変え文久3年の天誅組の挙兵に参加。
五条代官所の襲撃に加わったが、天誅組は壊滅、京都で斬殺される。
吉雄 卓爾  
兵庫県(33人) 梅谷 慊堂 加古郡出身。大坂で開業。
のち飯野藩保科家に出仕、鳥羽伏見の戦いで傷兵の治療に当たった。
明治になって、大阪の松島病院に勤務。ボードイン、エルメレンスにも師事。
大田 俊庵  
大鳥 圭介 赤穂郡出身。岡山藩校、閑谷しずたに学校で漢学を学んでから適塾に入門。
のちに韮山代官兼鉄砲方の江川太郎左衛門に兵学を学び、幕府に用いられる。
江戸城開城の際、同志とともに各地で抗戦。
箱館では適塾生・武田斐三郎の設計した五稜郭に立て籠もる。
榎本武揚とともに戦い敗れ、のち帰順して明治新政府で活躍。
大西 秀松  
岡田 哲蔵  
岡村 龍哉  
岡本 文吾 父親は医師。適塾で2年3ヶ月学ぶ。のち、城崎郡で明治半ばまで医業を開く。
荻  大亮  
河島 柳亭  
川本 文二  
神沢 担斎  
高瀬 栄蔵  
高松 春民  
田中 鼎斎  
豊富 一郎 (岸本一郎)名塩出身。億川家の人で洪庵夫人・八重の甥。12歳で適塾に入門。
慶応2年、尼崎藩の英国留学生募集に応じ、難関を突破して英国に渡る。
2年後、帰国して尼崎藩洋学所の教授となる。
明治になって文部省に出向、さらに紙幣寮舎密局長となる。
以後、紙幣製造技術の改良や後進の指導・育成に当たったが、30歳で没す。
中川 哲次  
西脇 文節  
橋本 艮斎  
馬場 尚徳 摂津名塩の出身。
原  豊吉  
疋田 盛平  
広岡 敬輔  
堀  鯉助  
本庄 俊斎 本荘豊太郎が適塾に入ったが早くなくなったため、俊斎が本荘家の養子に入る。
のち医業を開く。
本荘 豊太郎 篠山の名医の家柄。適塾に入ったが、早く亡くなった。
前田 隆斎  
松井 元純 明石藩典医の4代目。明治になって兵庫県医務取締となる。
松浦 元? 明石藩で最初に種痘を実施した。
松本 速水  
三木 惟善  
村上 代三郎 村上家は播州加東郡木梨村の代々続く医家。代三郎は9年間適塾に在塾した。
のち、播州出身の後輩・大鳥圭介と江戸に出て伊東玄朴の象先堂に学んだ。
江戸からの帰路、江川太郎左衛門の韮山塾に一時滞在。
江川塾で教授をした事もある。
帰郷し、蘭学塾と医業を開く。
幕府の要請で江戸講武所で師範として西洋兵学を教えたが眼疾のため帰郷。
晩年は郷里に籠もり医業と家塾に専念した。
村上 東蔵  
森鼻 純三郎 三田藩の典医の家に生まれる。
岡山県(46人) 青江 昌平  
赤石 退蔵 備前藩出身。父は備前の医師。
帰郷後、岡山藩の御番医となり、地理・万物窮理学の教授を務める。
明治になって岡山藩の医学館創設に協力。
有吉 宗斎  
石井 元太郎  
石井 為之介  
石井 久吉  
石坂 一操 養父の石坂堅操は、かねてから洪庵と親交があった。
石原 朴平 足守藩から入門。のちに足守の除痘館主任となる。
岩井 尚賢  
潮田 遠平  
大谷 三畏  
岡崎 文節  
岡野 敬吉 備前藩出身。明治になって兵学御用掛・兵学館教頭などを務める。
廃藩置県後は岡山県師範学校などで英学を教えた。
金光 廉平  
菊池 秋坪 備中の教育者・菊池家に生まれ、のち江戸で箕作阮甫の養子となる。
(箕作阮甫は洪庵の師)
幕府天文台に入り、翻訳に従事。津山藩の侍医、番所調所教授を歴任。
明治には教育博物館や東京師範学校で指導した。
喜多 玄麟 足守藩より入門。木下家御典医となる。
国府 彰哉  
小寺 陶平 郷校敬業館で和漢学を教授した家の出身。その後、江戸で開業。
旗本・松平氏の子のジフテリヤを治療したことが縁で、松平氏の知行地越後で開業。
笹川 自謙  
佐藤 静安  
柴岡 宗伯 父親の死後、備前藩医を相続。
慶応4年、戊辰戦争に備前藩として従軍し、負傷兵を治療した。
明治には兵部文部開拓使として樺太方面に出張。
海軍軍医となり、西南戦争にも従軍する。
嶋村 貞蔵 (のちの嶋村鼎甫)津下来吉(精斎)の弟。
洪庵が江戸の西洋医学所頭取になった時、推挙で教授職になる。
西洋医学所がのちに大学東校になっても引き続き教育に携わった。
妹尾 遊玄  
高原 次郎作  
田上 立志郎  
瀧田 玄的  
田中 亮亭 塾生・藤井省三の弟。
岡山藩田中家の養子となり、養父の後を受けて御番医者となる。
のち岡山藩医学館副督事となる。
谷江 謙造  
津下 来吉 (津下精斎)33歳で適塾に入門。
洪庵(53歳)の中国・四国地方への旅行に従者として同行。
明治になり医学館(のち医学所と病院になる)の教育や取締りを担当する。
中桐 洪吉 (戸塚文海)幕府奥医師・戸塚静海の養子となり、戸塚文海と名乗る。
長崎遊学ののち、江戸で幕府の医師となる。
徳川家茂の長州藩再征に従ったり、徳川慶喜の奥医師となる。
明治新政府では海軍軍医を務め、のちんい松本良順と東京医学会社を設立。
その後、東京共立病院(のちの東京慈恵病院)を設立する。
長瀬 元蔵 岡山藩出身。津下精斎に学び、のち適塾に入門。
京都で更に学び、頼三樹三郎、梅田雲浜、藤本鉄石らと交わった。
帰郷して藩主の侍医となる。
のち蘭医ボードインについてさらに修業を重ね、御目見医師となる。
長崎行きの間にキリストの洗礼を受けたため投獄されるが明治になって赦免される。
大阪軍事病院に奉職、佐賀の乱・西南戦争で傷兵の治療に当たる。
中村 謙輔 塾生・藤井省三、田中亮亭の弟。
岡山藩医・中村家に養子に入り、異国船渡来の時、応接御用を命じられる。
のち医学館監督となる。
難波 文林  
花房 虎太郎 (花房義質よしもと)適塾を終えてのち岡山藩大坂詰め大砲方となる。
大坂伝法の海岸砲台の築造に加わる。
のち長崎に派遣され、五代友厚後藤象二郎らと知り合った。
慶応3年、藩命を受けて洋行。帰国して外国官雇となり、外務大丞になる。
明治6年、ロシア公使館書記官となり、榎本武揚をたすけ樺太千島交換条約を締結。
また朝鮮外交にも関与した。
第3回内国勧業博覧会事務局長なども務める。
明治の末頃、塾生・佐野栄寿(常民)が設立した日本赤十字社に社長として勤めた。
原田 磊蔵 岡山藩出身。帰郷後、医業を開き、明治には陸軍医官となる。
久岡 東作  
福田 久寿治  
藤井 省三  
藤田 文弥  
別府 琴松  
俣野 整記  
三鞁 龍斎  
三好 春岱  
宮川 春台  
山田 貞順 足守藩より入門。病気のため帰郷し足守藩の医員を務める。
維新後、足守町で開業。
横山 謙斎 備前藩出身。帰郷して医業を開き、近隣の子弟も教育。
種痘御用を拝命したこともある。明治には小学校教師として勤務した。
広島県(31人)  石井 厚顕  
石井 三慶  
今井 雄策  
今田 隆軒  
岡本 周吉 (古川節蔵、古川正雄)
適塾で先輩の福沢諭吉に私淑。諭吉が江戸に出る時、一緒に同道する。
安政5年築地鉄砲洲に開いた福沢塾の初代塾長となる。
下谷辺の旗本・古川家の養子となり、古川節蔵、ついで古川正雄と改名した。
維新直前に幕府の海軍に出仕。
榎本武揚に従い箱館に走り、宮古港襲撃のとき政府軍に捕らわれ拘禁された。
明治6年、ウィーン万国博に出張。
古川が作った洋風スタイルの『智慧の輪』は初等教育読本としてよく使用された。
奥本 雄一郎  
小田 松眠  
金子 元達  
神植 挌之助  
神植 元鳳  
小島 大庵  
後藤 文徳  
佐沢 元太郎 江戸に行き、洋学調所、医学所に学び、開成所でフランス語も学んだ。
のち洋学所教授となる。
廃藩置県後、文部書記官として近代教育制度の確立のため活躍。
『仏国帝政史』等の著作がある。
沢田 泰順  
下間 為善  
代山 岱  
高橋 寛斎  
高橋 文郁  
竹田 俊弼  
津川 春二  
津水 益之介  
寺地 謙佐  
西  敬次 洪庵が故郷足守に除痘館を開設して中国地方への種痘伝播計画に手助けをした。
藤野 卓爾 気鋭の蘭医学者として医術も卓越し患者が多く集まったという。
穂波 捜古  
三刀 元寛  
向井 又玄  
邨田 文機 安芸へ帰藩後、長崎に派遣され航海学を学び汽船購入の用務を行なう。
のち藩を脱走して英国へ行く。
帰国した文機を藩は洋学教授に任命している。
明治以降は野に下り、東京で『団々珍聞』という風刺雑誌を発行した。
ほかに『西洋聞見録』『西洋沿革図説』等著述多数。
のち立憲改進党に入り、広島政友会に奔走する。
山口 倉二  
吉村 文益 明治12年、コレラが流行したとき、コレラ予防取締医として広島県から任命される。
渡辺 礼三 明治12年のコレラ流行時にコレラの予防薬を作って貢献。
社会衛生観念の普及指導も行なっている。
鳥取県(11人) 赤沢 斧吉  
足羽 深蔵 嘉永5年に入門。長州戦争では鳥取藩から軍医として参加。
近侍医師となり、明治になって藩主に従って東京に出る。
浅田 貞次郎  
太田 静馬 適塾後、村田蔵六の鳩居堂に入り塾長となる。
のち鳥取藩で召抱えられ、明治になって藩校尚徳館医学寮で教えた。
黒川 静雲  
土佐 柳庵 代々鳥取藩に仕えた医家で、父は長崎に留学して蘭方医となった。
柳庵は適塾を退塾後、医業をやめて軍務に従事。
明治期まで江戸や京都で警備についた。
内藤 信郷  
長田 雷助  
林  貞造 父は鳥取藩医。貞造は適塾入門前から父に代わって城中に出仕していた。
のちに尚徳館で講義をした。
松波 小太郎  
山内 一斎  
島根県(14人) 秋山 栗庵  
阿部 養庵  
安藤 鉄哉  
方寄 文沢  
北尾 見輪  
小西 天臣 松江藩出身。眼科に秀でる典医の家の三男。
大坂で広瀬旭荘に漢学を学んだのち適塾に入門。
のちに今市で開業。医師組合にあたる医師株式会社を組織したという。
進藤 良策 津和野藩から入門。
年少より蘭医学を藩内で学び、適塾のほか、長州藩の青木周弼にも習う。
帰郷後、藩校養老館で蘭医学の教授となり、藩主の侍医になった。
福間 三良  
藤井 秀達 適塾3年目に大坂で病没する。
布野 雲平  
室  良悦  
横山 見純  
吉浦 春洞 浜田藩出身。帰郷後開業したが肺病で没した。
渡辺 春昌  
山口県(56人) 青木 省吾  
秋本 玄芝  
浅田 文厚  
飯田 三郎  
飯田 秀輔  
石和 弦介  
石井 行蔵  
石井 元良  
石原 淳道  
伊藤 精一 (伊藤慎蔵)塾生・村田蔵六(大村益次郎)と仲がよかった。
大坂に出て貧苦のなか適塾で学び、優秀な成績で3年後には塾頭となる。
何かの不行儀のため洪庵の怒りを受けて破門となる。
親友の村田蔵六の取りなしにより許されて塾に復帰。この時に慎蔵と改名した。
のち越前大野藩の洋学館教授を務める。
大阪に出て開成所や舎密局に出仕、また名塩(西宮市)に蘭学塾を開く。
上田 春学  
牛尾 圭斎  
内山 寛斎  
大田 玄譲  
岡  宅次  
岡  良弼  
岡本 昌甫  
小川 新平  
桂  鼎介  
上司 謙四郎  
神原 真斎  
黒瀬 素民  
桑原 英甫  
桑原 玄阜  
桑原 西蔵  
坂井 修造  
坂田 宗甫  
白石 安熊  
鈴木 春斎  
砂田 文哉  
関  玉造  
大地 要人  
高井 泰造 代々医業、祖父の代に毛利家に仕える。
長州藩が下関で米仏蘭を砲撃したさい、陣中の医務のため出張したことがある。
高邨 閑斎  
田中 堯民  
土屋 元鵬  
東条 永庵 (東条英庵)萩藩西洋翻訳御用掛、幕府蕃所調所教授手伝、軍艦操練所教授となる。
徳島 泰慎  
中司 俊平  
中司 俊哉  
南部 恭平  
仁専 良伯  
仁保 寿安  
萩山 ■門  
長谷川 黙蔵 厚狭毛利氏の儒医の子。帰郷して家業を継ぐ。西南戦争に従軍。
医業のかたわら養蚕業、名誉職にもついた。
藤邨 玄伯  
松浦 道伯  
松岡 勇記 適塾の「物干台事件」の中心人物。帰郷後、藩医となった。
明治に入り茨城県立病院の設立やその院長になるなど他県で活動した。
三木 芳策  
水野 良哉  
三輪 謙治  
村田 文蔵  
村田 良庵 (村田蔵六、大村益次郎)適塾・塾頭。
対外情勢の緊迫を見て医学から西洋兵学に転じた。
伊予宇和島藩主伊達氏に仕え蘭学・兵学を講義、江戸で鳩居堂を開塾する。
幕府の蕃書調所で兵書の翻訳し、長州藩でも洋学・兵書を翻訳する。
ヘボンについて英語の研究もした。
長州藩の軍事指導者として幕末の長州戦争や戊辰戦争で活躍。
近代的兵制の創始者となるが、保守反動的士族の反感を買い京都で襲われる。
大阪病院でボードインの手術を受けたが落命した。
森王 得一  
山県 玄淑  
山県 周平 のち萩藩医・日野貞庵の養子となる。帰郷して開業。
萩藩好生館員となり安政期のコレラの治療に尽力。
明治になって山口県の医務取締や学校教育に尽くした。
徳島県(9人)  猪子 鼎 帰郷後、村で医業を開く。
斉藤 光治郎  
柴  六郎 適塾以前にすでに儒者として名を成している。
儒者にも洋学は必要であるとして適塾に入門、儒学の師・広瀬旭荘の家から通学。
のち播磨に帰っていた塾生・村上代三郎に学ぶ。
大坂や九州で塾生指導ののち徳島で「思斎塾」を開く。
徳島藩の儒官となり、のち藩主・蜂須賀氏に従い江戸へ。
菅  雄斎  
多賀 荘碩  
高畠 耕益 父の家督を相続し、のち伊東玄朴の象先堂に入門したが、江戸にて病没。
秦  四郎 藩の洋学校に蘭学助教として出仕。のち藩主の侍医となる。
松岡 悦之助  
湯浅 才介  
香川県(14人) 有馬 摂蔵 洪庵夫人・八重の妹の婿。京都で31歳で亡くなる。
上枝 辰助  
岡田 如屏  
岡部 正伯  
柏原 学介 適塾・塾頭。
江戸に下り、奥医師・石川良信に学ぶ。一橋家、のち徳川慶喜に仕える。
蛤御門の変で禁裏に入り負傷兵の救護に当たる。
鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜に従って静岡に行き開業。
のち静岡県立病院長などを兼務し、多数の門下生に教えた。
柏原 謙益 柏原学介の兄。
高松藩東海警備隊付、兵庫沿岸警備隊付、のち医学寮教頭となる。
廃藩後は、旧医学所に医院を開き、医生を開く。
河田 雄禎 適塾初期の塾生。
洪庵より種痘を学び、分痘を受け、丸亀除痘所を開いて最初の種痘を行なった。
川西 顕良 農家の出身。郷里に帰り医業を開く。明治戸籍に「農医」とある。
来島 玄亮  
中邨 恭安 (山井量平)郷里・金光院侍医となる。
西南戦争では大阪府病院からの派遣軍医として鹿児島に赴任。
山井量平と改名。このときの従軍日記である『鎮西日記』がある。
古沢 琢磨  
三田 元沢  
三好 晋造 農家の出身。帰郷後、開業し、特に種痘で多くの人を救う。
のち高松藩医となるが、明治には再び開業する。
山田 純安 高松藩医の家に生まれる。
明治になって藩命により英国へ留学し、鉱山冶金学を学ぶ。
のち工部省に入り鉱山技師として勤務。
愛媛県(22人) 浅田 勉哉  
今泉 彦六 宇和島藩校明倫館の指南を務め、のち適塾に3年滞在。
帰郷し、藩の銃隊調練の役に付き教授。
今岡 良伯  
岩田 三達 適塾を出た後、帰郷。のち江戸に滞在したが死去。
楳木 俊蔵  
大内 貞介  
大野 春寿  
岡部 玄章  
木邨 純碩  
倉橋 考序  
河野 梁蔵  
近藤 守全  
菅  謙造  
須藤 為次郎  
武田 斐三郎 適塾を出てのち幕府に仕官。箱館奉行支配、箱館台場を築城した。
蕃所調所教授。五稜郭砲台を完成させた功により旗本となる。
辺海の測量をし、ニコライエフスクに渡航。幕末に開成所教授となる。
富沢 松庵 宇和島藩主侍医の子。藩に帰り種痘を仰せ付けられている。
長州戦争に参加出陣。
富永 習益  
二宮 逸二 シーボルトの門人・二宮敬作の次男。
高野長英が蛮社の獄で逃亡中、宇和島にいたとき、長英から学ぶ。
村田蔵六(大村益次郎)が宇和島にいたときも楠本イネ・三瀬周三と共に学んでいる。
林  玄仲 適塾のほか、本道・外科・鍼灸の修行もしたマルチ医者。
修行中に入手したエレキテルを藩主に献上したという。
また文久2年に宇和島に流行したコレラの治療に努めた。
山田 直記  
山本 良迪  
渡辺 立誠  
高知県(14人)  伊吹 敬良  
岩村 亀治  
栗尾 助太  
小谷 純静  
立田 春江 (小野義真)大庄屋を務める。
明治新政府で工部省に勤め、淀川改修工事に携わる。
のち官を辞し、岩崎弥太郎の相談役として三菱経営の枢機に参画した。
田中 多助  
徳弘 敬之助  
萩原 慮庵 (萩原三圭)長崎の精得館でも学んでいる。
明治2年、ドイツ留学を命じられベルリン大学に学んだ。
解剖学者デ=ニッツを伴って帰国し、三圭も東大で生理解剖の教授となった。
弘田 玄又 父は土佐地方で最初に種痘を普及した医師。
これを継いで、医療と医学生教育を行なう。
のち家督を弟に譲り、藩主・山内容堂の侍医となる。
戊辰戦争のとき、土佐藩病院の頭取として江戸・会津に行く。
従軍日記『東征道の記』と『会津征討日記』が残っている。
細川 春斎  
横矢 卓道  
横矢 平挌  
和田 敬吉 緒方郁蔵の独笑軒塾(南塾)に署名ののち洪庵の北塾に入っている。
土佐藩医学教育機関の沢流館が閉館された時、遺憾とする建白書を藩に出す。
和田 養源  
福岡県(33人) 青木 道琢  
有吉 文郁  
稲葉 秋芳  
今村 純庵  
牛島 養朴 松下元芳の叔父。久留米藩の医学校・好生館の教授試補として蘭方医を教授した。
宇治田 隼太 久留米藩出身。代々の学究で特に本草学に詳しい。
藩の医学館教員となり、薬園方等を命じられる。
木崎 俊英  
北村 政記  
工藤 寛哉  
久門 元a  
古賀 万三  
後藤 徳太郎  
篠田 正貞  
高松 凌雲 我が国初の赤十字活動をした人。
修業ののち将軍侍医となり、パリ万博使節に随行、パリで外科を実習した。
帰国後、箱館戦争に際し、敵味方なく傷病兵を治療。
のち西南戦争での博愛社の精神につながる。
明治12年、同愛社を創設、東京周辺に60ヶ所の慈善施設を開いた。
武谷 祐之 父は筑前藩蘭学の先達。広瀬淡窓に学び、瓦町時代の適塾に入門。
藩主・黒田斉溥なりひろの信任を得、博多に設立した精錬所で肝油やサントニンを製造。
(洋薬の製造の最初)
藩内の医制の改革や子弟の留学に貢献。
慶応3年設立の藩医学校・賛生館の督学となり、附属病院も起こした。
(九州大学医学部の淵源)
塚本 道甫  
鶴田 仙庵  
富永 堅苗  
中島 泰民 36歳で入門。のち庄屋の家督を相続。開業して名を挙げる。
藩校医学館の教官になり、蘭医書の原書で講義した。
中島 連  
原  一学  
原田 水山 武田祐之の末弟。
平野 l蔵  
深江 咸一郎  
藤野 良泰 岡村家に生まれたが、代々鍼科の藤野氏を継いだ。
内科を志したので藩主・黒田斉溥の命で西洋医学を学ぶため適塾に入門。
その後、長崎でも修業し、のち内科医となり藩侯侍医となった。
松下 済民 松下元芳の弟。適塾ののち長崎でも学んで開業した。
松下 元芳 適塾・塾頭。曾祖父は広瀬淡窓の師。淡窓の塾・咸宜園で学び、のち適塾に入る。
さらに福沢諭吉の塾に中島泰民と共に英学を学んだ。
諭吉は元芳を賓客として遇したという。
帰郷後、藩内の軋轢により藩外に出ることが許されなかった。
三坂 無逸  
安元 繁  
山脇 琢磨  
吉雄 養正 広瀬淡窓に学び、長崎を経て適塾に学び、のち典医となる。
廃藩後、陸軍に出仕した。
吉田 梅仙  
吉永 永叔  
佐賀県(34人) 朝日 宗郁  
伊東 玄敬 養父は幕府奥医師・伊東玄朴。玄敬はのち奥医師見習いとなる。
井上 静軒  
岩谷 玄良  
大須賀 道貞  
大中 玄哲  
尾形 良益  
河原 謙吾  
蒲原 豊安  
小出 文堂  
古賀 元才 佐賀藩代々の藩医。維新後は海軍軍医になった。
後藤 祐益  
斎藤 春庵  
坂本 徳之助  
相良 寛斎  
佐野 栄寿 佐野常民)佐賀藩士の子。
適塾のほか江戸の象先堂や長崎で蘭学・化学・物理・冶金・築城などを学ぶ。
佐賀藩の造船・鋳砲を指導した。
諸外国を視察して帰り、藩の軍制改革に従事。のち工部省に転じた。
ウィーン万国博では副総裁を務める。日本赤十字社を設立する。
沢野 健斎  
志田 春庵  
渋谷 良耳 好生館(もと佐賀藩医学校)で指導する。
角  春静  
滝野 文道  
武富 文益  
永尾 卯吉郎  
中西 仲英  
中野 雲圭  
中村 俊策  
西  春濤  
西岡 周碩  
花房 元淑  
福地 文安  
馬渡 礼介  
宮田 魯斎 長崎で研鑽を積み、藩侯侍医となる。佐賀藩校ができたとき指南役になる。
本野 周造 (本野盛亨)佐賀藩士の子。
大坂で広瀬旭荘、岸和田藩儒者・相馬一郎に学び、のちに適塾に入門。
長崎で英語を学ぶ。佐賀へ帰り藩の海軍興隆に尽くす。
慶応3年、佐賀藩の命で江戸に行き英国公使パークスら外国公使団との交渉に奔走。
維新後、外務一等書記官としてロンドンに駐在。
読売新聞の創刊に協力し、明治22年、その社長に就任。
吉田 泰春  
大分県(21人)   綾部 勤
安東 駿蔵  
小川 文之助  
神尾 挌  
河野 東庵  
小幡 弥  
高橋 玄策  
田代 一徳 父亡き後、従兄の田代家を継ぐ。
適塾に入門したが、按摩などをして生活費を得た。
洪庵が江戸に下ったので、翌年江戸に出て医学所に入門。
洪庵死去後、松本良順が頭取となり、医学以外の蘭書を読むことを禁止された。
それを不服として日本最初の学生ストライキを起こしたという。
のち医学所で数学と蘭学を教えた。
医学関係の雑誌の発行など最新医学の普及につとめた。
田永 常道  
楢林 源太  
藤野 貞司  
藤本 元岱 帰郷後、自ら医学館を開設する。
牛痘接種、解剖を実施したが藩庁の許可を受けなかったため閉門となった。
福沢 諭吉 まず長崎に遊び、やがて適塾に入り塾頭となった。
江戸に出て築地に塾を開いたのが、のち慶應義塾となる。
開港ののちは英学に転じ、塾でも英書を教育した。
万延元年、幕府軍艦奉行の一行に従って渡米。
さらに広く欧米の実情を見聞し『西洋事情』を著した。
維新の際には平民となり、『学問のすすめ』を刊行。
前野 良伯  
征矢野 元雄  
町田 有多郎  
松口 錠七郎  
右田 俊三  
和田 克太郎  
渡辺 謙節  
宮崎県(6人)  岩切 久吉  
木脇 文節  
木脇 道隆  
杉尾 尚?  
竹村 恒夫  
橋口 魚蔵 安政3年に入門。
長崎県(20人)  安藤 研斎  
伊東 英哉  
大浦 彦章 長与誠一の兄。帰藩後、藩侍医となった。
廃藩置県後、除痘館を設立し、生涯にわたり天然痘治療に専心した。
尾道 量平  
草野 元養 適塾を終え、長与専斎が開塾したとき、門下生となっている。
大村に帰り開業したが、のち長崎精得館で医学研究を続けた。
明治になって再び開業したが、のち東京へ出て東京医学校に勤務。
明治14年には東京大学医学部の講師となる。
郡  元之進  
古賀 央介  
杉  収蔵 杉亨二)我が国統計学の祖。
江戸に出て神田孝平、佐久間象山勝麟太郎ほかと知り合う。
蕃書調所のち開成所の教授となる。
明治になり日本の統計制度、官庁統計機関、統計教育の確立のため生涯を捧げる。
須田 長安 母は長与俊達の娘。
高橋 秀吉  
田川 元淑  
竹内 良庵  
長与 誠一 大村藩代々の医官。長与専斎の祖父・俊達は養父。専斎より先に入門している。
帰郷して大村藩侍医となる。
専斎と共同で熱症、労症、婦人病に効く真珠丸、真珠膏を製薬した。
長与 専斎 大村藩の医官を務めた家柄。祖父・長与俊達の勧めで適塾に入門。
福沢諭吉の後を受けて適塾・塾頭となる。
長崎に到着したポンペの指導を受けた後、文久元年、適塾風の塾を開く。
大村に帰り侍医となるが、さらに外科治療も身につける。
明治になり、精得館頭取から長崎医学校学頭となる。
さらに東京に出て東京医学校校長になった。
岩倉遣外使節団に加わり渡米、医学、衛生制度を視察し、文部省に医務局を設ける。
コレラ流行に際しコレラ予防法や日本薬局方を起草。
大日本私立衛生会を作り先輩の佐野常民を会頭に迎える。
西川 桃芸 藩から牛痘法実施の命を受ける。
また、砲学場製煉方も務め砲学場を建設した。
古川 春斎 適塾で修業した後、戊辰戦争で軍医となり、帰国後は村医となる。
松添 球策  
迎  文益  
邨瀬 杏庵 洪庵が開塾した初期の入門と思われる。
文久元年、ポンペの指導を受けたが、翌年、死去。
森  良斎 産科医の4代目。帰国して開業した。
協和医療社の創設にかかわり庶民の診療に力を尽くした。
熊本県(9人) 池田 桃園 生涯、地元・阿蘇郡の住民医療に尽くし人々から感謝された。
池田 富喜 池田桃園の弟。
岡田 摂蔵 熊本藩士。適塾で学んだ後、福沢諭吉の鉄砲洲の塾に入り塾長となる。
慶応元年、英仏派遣を命じられた外国奉行・柴田貞太郎の小使いとして随行。
『航西小記』という優れた欧州見聞記録を著し幕府に提出した。
奥山 静叔 開塾まもない頃に適塾に入門。
蘭文の筆写と按摩で生活費を得て学業につとめ、やがて塾頭となる。
熊本藩より蘭学出精を認められ禄をもらった。
熊本城下に医業を開き生徒に教え、蘭書を翻訳した。藩の蘭学指南も務める。
明治になり医学所と病院が出来、着任したマンスフェルトと共に教育に当たる。
清水 泰淵  
平山 秀民  
広岡 新斎  
松永 貫堂  
山田 謙輔  
鹿児島県(7人) 有馬 洞運 蘭学修業のため長州藩・青木周弼のところでまず遊学し、のち適塾に入門した。
岩崎 俊斎 蘭学修業のため長州藩・青木周弼のところでまず遊学し、のち適塾に入門した。
大田 恕斎  
小倉 玄昌 蘭学修業のため長州藩・青木周弼のところでまず遊学し、のち適塾に入門した。
黒江 ?介  
松崎 鼎甫  
八木 元悦 薩摩藩郷士の家に生まれる。はじめ江戸で戸塚静海に蘭語を学ぶ。
のち伊東玄朴の種痘を行なうのを見て医者を志し、適塾に入門。
洪庵の除痘館で勉強した。

文学碑



文学碑

(広島県尾道市・千光寺公園文学のこみち)





(平成18年3月21日)

緒方洪庵

のきしげくたてる家居よ
あしびきの
山のおのみち道みちせまきまで


名は章、備中足守の人で医学に志し江戸に下って坪井信道、宇田川玄真らに師事し更に長崎於て研修すること3年29才のとき大阪で開業して洪庵と号した。
名声甚だ高く生徒、患者は門に満ち大阪を通る大名も必ず診察を受けたという。
足守藩の侍医となりついで幕府の侍医を命ぜられ法眼に叙せ文久2年(1862年)の初夏尾道に来遊したときの作である。

(説明板より)







緒方洪庵の墓所
(東京都文京区・高林寺)




(平成23年1月22日)


緒方洪庵の墓
(中央)
(東京都文京区・高林寺)

遺骸は甕に収められて埋葬されています。

右の碑は「追賁碑」


(平成23年1月21日)

緒方洪庵

文化7年7月14日(1810)備中足守に生る
天保9年(1838)より文久2年(1862)まで大阪に適々齋塾を開く
文久3年6月10日(1863)江戸にて没 54才
花陰院殿前法眼公裁文粛大居士
文久3年6月12日(1863)高林寺に埋葬
明治45年7月10日(1912)追賁碑建立
大正13年2月5日(1924)東京府史蹟指定
昭和11年6月22日(1936)道路拡張のため現在位置へ移転
昭和43年6月10日(1968)追賁碑移転整備

(副碑・碑文より)





高林寺

(東京都文京区向丘2−37−5)




(平成23年1月21日)

緒方洪庵墓(文京区指定史跡)

洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。
文化7年〜文久3年(1810〜63)現在の岡山県に生まれ、名は章あきら、後に洪庵と改めた。
大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に“適々斎塾”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、三千人におよぶ門弟の教育に当たった。
この塾から大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが輩出した。
洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)に病没した。

金峰山 高林寺 文京区向丘2−37−5

文京区教育委員会 平成3年3月

(説明板より)


緒方洪庵



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