緒方竹虎 おがた・たけとら

明治21年(1888年)1月30日〜昭和31年(1956年)1月28日


山形県出身。
早稲田大学卒。
大阪朝日新聞社に入り言論界で活躍。
昭和19年(1944年)政界に入り、小磯内閣の国務相兼情報局総裁。
第二次大戦後の東久邇宮内閣の国務相兼内閣書記官長として「一億総懺悔論」を展開。
公職追放解除後、第4次吉田内閣の国務相兼内閣官房長官となり、以後、自由党幹部として保守本流を形成。
昭和29年(1954年)に自由党総裁となり保守合同を果たし、次期首相と目されたが急逝した。


緒方竹虎先生屋敷跡の碑

『緒方竹虎先生屋敷跡』の碑
(福岡県福岡市)

昭和54年3月2日
福岡市長 進藤一馬

(平成20年11月25日)

緒方竹虎(1888〜1956)

東久邇宮内閣の要として敗戦直後の混乱を収拾したが軍事裁判強行に抗議し総辞職。
当時過労を気遣う兄に
「生れた国への借りは返さねば」
と述懐した
その後吉田内閣副総理から自由党総裁となり敢て保守合同に心血を注ぎ、祖国復興の方途を定め終って急逝した
幕末、洪庵と共に適塾を開いた緒方研堂の孫
林学者の父道平が県大書記官となり来福
この屋敷で附属小学校・修猷館と少年時代を過ごした
幾岡一到館に剣を学び本目録・皆伝であった

(碑文より)

緒方竹虎先生屋敷跡


緒方竹虎先生屋敷跡
(福岡県福岡市中央区赤坂1−2)



(平成20年11月25日)

【戦犯指定】

戦後、戦犯指定者に前国務相の緒方竹虎がいた。
彼は以前から健康を害して病床にあった。
これを近所に住む緒方の主治医・井上猛夫の奔走もあって、緒方にはGHQから自宅静養が認められた。
このため緒方は自宅で蟄居ちっきょとなり、巣鴨への出頭は避けられたのである。

巣鴨プリズンへの入所が避けられた緒方は、昭和20年12月20日にそれまで住んでいた調布多摩川の自邸から、麻布区(港区)広尾17番地の家に移り、ここで静養することになった。
広尾の家というのは同盟通信社の古野伊之助が社長当時に主宰していた財団法人・同盟育英会の所有であった。
かつて明治天皇が、首相邸へ御成りの時に使われた部屋の一部を移築しただけに、数寄屋造りの凝った建物であった。
これが戦災にも遭わず、焼け残っていたのを、古野の好意によって提供されたのであった。

(参考:塩田道夫 著 『天皇と東条英機の苦悩』 日本文芸社 1988年10月 第10刷発行)

(令和2年9月5日 追記)


【吉田茂の後継としての期待】
緒方竹虎が戦後の政界に登場したのは、昭和27年(1952年)、第4次吉田内閣の国務大臣兼内閣官房長官としてだった。
緒方は、その堂々たる風采、誠実そうな人柄など大人たいじんの風格を備え、また2・26事件の際、青年将校の突きつけた銃口にも屈しなかったという勇気、小磯・東久邇ひがしくに内閣での政治経歴、言論界出身としての基盤の良さなど、戦後の政界にとって大物の登場として期待された。
時の総理大臣であった吉田茂も、この緒方に目を付け、昭和26年(1952年)に緒方が追放解除になると、ただちに初代保安庁長官に就任するよう要請したが、これは実を結ばなかった。
しかし、昭和27年(1952年)の総選挙で衆議院に議席を得た緒方を、今度は一年生議員ながら、国務大臣兼官房長官に大抜擢した。

吉田は、彼の人格、経歴を買って、ひそかに後継者に迎えようとした。
ところが、裏腹に緒方阻止に動くものものも少なくなかった。
吉田側近グループにしてみれば、吉田体制の継承に強力なライバルが現れた事になる。
また、鳩山派にとっても、吉田から鳩山一郎へという政権交代に、緒方が割り込んでくれば、鳩山の出番がなくなると快く思わなかった、という。
しかし、緒方は、昭和28年(1953年)の第5次吉田内閣では国務大臣兼副総理となり、党内で吉田後継者の地歩を着々と固めた。

情報機関設置問題
緒方は「入閣して感じた事は、政府の海外情報網の貧弱なこと。これを充実して、国内の政治に反映させることはもちろん、NHKの海外放送を通じて海外に宣伝すべきだ」と主張。
これに対して、野党や新聞社は、言論統制につながる戦時中の情報局の再現だとして猛反対。
結局、昭和28年(1953年)10月に『社団法人内外情勢調査会』を設立して、お茶を濁す結果となる。

軍人恩給の復活
軍人恩給はGHQの指令で廃止されていたが、緒方は戦争の責任を軍人だけに負わせるのは社会正義に反するとして、昭和28年(1953年)8月、国会で軍人恩給復活の法案を成立させ、約240万人の旧軍人に恩給支給を復活させた。

教育問題
緒方は大達茂雄おおだち・しげおを文部大臣に推薦して日教組征伐を行おうとした。
これは、後に、灘尾弘吉なだお・ひろきちに引き継がれていく。

【吉田政権の終り】
吉田・自由党は昭和27年(1952年)の総選挙で、解散時の285議席から240議席となり、過半数をわずかに超える勢力となる。
翌年の総選挙では、さらに議席を減らし、199議席という惨憺たる敗北となる。
そこで、自由党の執行部や吉田側近は、野党を切り崩して多数派工作を進めた。
緒方はこれに反対。
そのような姑息な手段を取るよりも、保守が大同団結して革新政党と対決するのが、憲政の常道ではないかと主張した。
そして「政局の安定は現下爛頭らんとうの急務である・・・・」という自由党の声明を発表した。
ところが、その後の自由党は、昭和29年(1954年)11月24日、反吉田の衆議院121名が参加して鳩山新党『日本民主党』を旗揚げし、自由党の衆議院における勢力は185名と転落し、緒方が提唱した保守合同は頓挫する事になる。
自由党は11月28日の両院議員総会で「吉田は適当な時期に勇退すること。その後任には緒方を推すこと」と党議決定せざるを得なかった。
更に政局は急を告げる。
12月6日、野党提出の吉田内閣不信任案の提出が決まり、翌日の本会議に上程される事になった。
野党三党が足並みを揃えれば、自由党に勝算はなく、吉田首相は解散か、総辞職かの重大岐路に立たされることになった。
吉田首相をはじめ側近は解散論、緒方も当初解散論をとったが、党内の大勢に押されて総辞職論に変わる。
12月6日夜と7日早朝の二度にわたり吉田と膝詰め談判をする。
「もしあくまでも解散に固執するなら、自分は解散詔書に署名しないので、首を切ってからにしてくれ。そうすれば自分は政界を引退する」と強硬に進言したが、ついに吉田はウンとは言わなかった。
しかし、7日の閣議では、さすがの吉田も総辞職論に抗しきれず、閣議の座を外して大磯に帰ってしまった。
閣議は緒方によって続行。
衆参両院議長に総辞職の通告をさせ、通算7年2ヶ月にわたった吉田政権は幕を閉じた。

【巨星落つ】
このあと、緒方は自由党総裁に就任するが、内閣総理大臣は鳩山一郎である。
1年後の昭和30年(1955年)11月15日、自由党は解党し「自由民主党」が発足する。
緒方が「爛頭の急務」と言ってから実に1年8ヶ月ぶりの保守合同だったが、すんなりと緒方に政権は移らなかった。
当面は鳩山一郎、緒方竹虎、三木武吉みき・ぶきち大野伴睦おおの・ばんぼくの総裁代行委員により運営し、「昭和31年4月の党大会で緒方総裁、緒方内閣」を含みとした出発となる。
しかし、緒方は4月を待つことなく、昭和31年(1956年)1月28日午後11時45分、突然心臓衰弱のため急逝した。
享年67歳。
強い指圧が原因だったのではないかなどの噂も飛んだ。
2月1日の築地本願寺の葬儀には1万5千人の市民が詰めかけ、行列は三原橋(東京都中央区)附近まで達した。

(参考:楠田實 編著 『産経新聞政治部秘史』 20001年第一刷 講談社)

(平成23年12月11日追記)


【インテリジェンス機関構想】

重光葵は吉田茂に再軍備を迫る急先鋒だった。
1952年頃、重光の周囲には旧軍人たちの姿が見え隠れしていた。
重光が改進党の党首となり、再軍備を唱えていたからだ。

旧軍人の中心的メンバーの中でも、土居明夫と辻政信は緒方としきりに接触していた。
もともと玄洋社(大アジア主義を唱えた政治結社)や中国工作とのからみで緒方は旧軍人たちと接点があったし、戦後もこの関係は続いていたからだ。
緒方はその思想や戦時中の経歴から、重光以上に旧軍人と右翼主義者に人気があった。

1952年の春には、河辺虎四郎や辰巳栄一の要請もあって、かつて自分が総裁を務めていた内閣情報局と大本営参謀本部を足したようなインテリジェンス機関を作るための準備作業をしていた。
再軍備を果たした後には、このような機関が絶対必要になると考えたからだ。
このインテリジェンス機関は、まず内閣総理大臣官房調査室という総理大臣の秘書室のようなものからスタートし、緒方が官房長官に抜擢されたのちに拡充され、岸内閣のとき内閣調査室、そして中曾根内閣のとき現在の内閣情報調査室になっていく。

(参考:有馬哲夫 著 『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』 文春新書 2013年2月 第1刷発行)

(令和2年5月1日 追記)


【情報機関構想の挫折】

内閣調査室が設立されたのは昭和27年4月。
正式名は内閣総理大臣官房調査室といった。

昭和26年9月、サンフランシスコ講和条約が調印され、戦後6年にわたって続いたGHQによる間接統治に終止符がうたれた。
前年の昭和25年6月には朝鮮戦争勃発。
2ヵ月後の8月には、吉田内閣はアメリカの要請にこたえて、自衛隊の前身である警察予備隊を発足させている。
国内的にも共産党その他の親社会主義勢力が台頭してきており、政府としても、GHQが抜けたあとの権力の空白をどう埋めていくかが緊急の課題だった。
そんな時代の動きに応えて、警察官僚であった村井順が吉田茂首相に日本独自の情報機関をつくる構想について直言したところ、鶴の一声で内閣調査室の設立が決まったという。
戦時中、情報局の総裁であった緒方竹虎官房長官兼副総理が、この案に強い興味を示し、以後、緒方主導で構想がふくらんでゆくが、情報機関の設置を具体化する過程で、警察官僚と外務官僚、法務官僚との間で対抗意識がみられ、成立後もかなりドロドロしたものがあった。

ソ連の情報工作が外務部と内務部が一体となって完璧にすすめられていることに対抗し、これに対抗する情報機関としてCIAの機構を参考にして設立の準備作業を進めようとしたようで、当初関係者の意気込みは強かった。
設立後はCIAと諜報や情報の交換を計画していた。
しかし、アメリカ側は、日本には秘密保護法がなく、そのような情報を与えるのは危険であるとの理由で拒否してしまった。

CIAに袖にされたものの、緒方副総理の、日本独自の情報収集機関設立にかける意欲は旺盛だった。
すでに活動をはじめていた内閣調査室は、情報収集機関としては予算も少なく量的にも質的にも弱体であり、緒方は間もなく拡充を企図した。
「情報機関を持たぬ独立国は、暗夜に灯を持たぬ船の運航の如きである」
というのが、緒方がしばしば口にしていた言葉である。
緒方構想では情報機関の一翼を担う機関として「公益法人国策通信社」の創設が考えられていた。
昭和29年の発足を目指して、当初、水面下で準備が進められていたのだが、内閣調査室が発足して7ヶ月後の昭和27年11月、早くも緒方は官房長官として初めて、イギリスの放送局BBCにモデルをとった情報機関の構想を明らかにした。
「政府がいかなるときにも世界の情勢を知りうるために世界のラジオ及び通信を傍受する公益法人の機関であり、政府が直接その機関の経費を負担する。資材はアメリカから購入し、聴取技術者を中心に200名程度で発足する」
緒方自身、衆議院本会議でそう答弁している。
緒方構想が公表されると、言論界や各政党から一斉に反対の声がわきあがった。
新聞社も、国策通信社は、一種のニュース統制機関に転ずる恐れがあるとして反対。
また海外からも、日本の言論統制の復活では・・・・と批判があいついだ。
内外の批判をあびた緒方は、結局、国策通信社の設立構想を断念する。

だが、あくまで、情報機関にこだわり続ける緒方は、同盟通信の2代目社長であった古野伊之助等の応援を得て、翌年、新たに「公益法人ニュース・センター」の設立構想を打ち出した。
これは、先の国策通信社をさらに発展させたもので、古野伊之助が直接の推進役となり、関係者に根回しをはじめた。
しかし朝日、毎日が賛意を示さず、さらに読売の正力松太郎が強力に反対した。
当初、緒方構想に理解を示していた共同と時事も、報道の自由に対して墓穴を掘ることになるとして、及び腰になった。

一方、緒方は内閣調査室の拡充をも図ろうとしたが、緒方のライバルでもあった重光葵元外相や外務省の強力な反対にあった。
他の官庁も、こうしたゴタゴタを目の当たりにして、当初の意欲が薄れたようで、やがて内閣調査室の実績を評価しなくなり、班会議などへの出席者も下位の者に交代させるようになった。

内閣調査室の本部は千代田区三番町の総理府ビルの5階におかれ、昭和27年の発足当時は室員も10人足らずだった。
次第に要員も増えていったが、昭和42年度段階でも、室長以下、運転手も入れて71人ほどだった。
予算は11の外郭団体と本体の予算をあわせて約10億円程度であった。

当初、内閣調査室の設立にあたっては、GHQの参謀第2部のG2が、政府に示唆をあたえたということだが、頼みとするCIAが非協力的で、世論の総スカンを食った上に、関係官庁が低い評価しかしないのでは、実力者緒方としても、どうしようもなかったのだろう。
次期首相を本命視されていた緒方にダメージを与えるための、キャンペーンに使われたという説もある。
結局、当初の計画を後退させ、外郭の11の団体に委託して、情報収集や資料の作成ばかりか、情報分析、判断まで頼むことになったのである。

(参考:香取俊介 著 『昭和情報秘史〜太平洋戦争のはざまに生きて〜』 1999年第1刷発行 ふたばらいふ新書)

(平成27年10月17日追記)




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