小河滋次郎 平成20年10月29日

小河滋次郎 おがわ・しげじろう

文久3年12月3日(1864年1月11日)〜大正14年(1925年)4月2日

長野県上田市・上田城でお会いしました。


東京専門学校(のちの早稲田大学)、帝大法科大学専科卒。
穂積陳重の助言で監獄行政に関心を持ち、ドイツに留学して研究を重ねる。
内務省で監獄行政を担当し、監獄法制定に重要な役割を果たす。
明治41年、東京帝大監獄学講師
大正2年(1913年)、社会福祉政策に熱心な第14代大阪府知事大久保利武のブレーンとなる。
淀川洪水大被害の責任を取って大久保知事は辞任したが、後任の林市蔵知事の右腕となって大阪の社会福祉行政に継続して携わる。
岡山へ行き、岡山県知事・笠井信一が提唱する福祉制度案をつぶさに検討。
林知事と文案を練り、大正7年、民生委員制度の先駆である府令「方面委員制度」を公布する。
大正13年、61歳で退職。
日本生命の弘世助太郎はその人物を惜しみ、強く請うて共に「日本生命救生会」を起こし、医療救済活動を始めるが、翌大正14年、惜しまれながらこの世を去った。
62歳。
死刑廃止論者としても知られる。


小河滋次郎博士像



小河滋次郎博士像
(長野県上田市・上田城





(平成20年10月29日)

碑文

法学博士小河滋次郎君於文久三年十二月信州上田ニ生ル
金子宗元氏ノ第二子ナリ
夙ニ思ヲ監獄学ニ覃シ曩ニ聘セラレテ清國ノ獄制ヲ釐革シ後大阪ニ在テ社會事業ノ啓道ニ當ル
大正七年余ノ大阪府■タリシ時相議シテ方面委員ノ制ヲ創ム
今日斯業ノ資益大ナルヲ見君ヲ憶フヤ切ナリ
君逝イテ十五年有志胥謀リテ此ノ胸像ヲ建ツ
乃チ行實ヲ略叙シ厥ノ徳ヲ頌ス

紀元二千六百年 五月二十五日
林 市蔵 撰并書




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