平成16年11月28日
天保10年10月21日(1839年11月26日)~大正4年(1915年)1月1日
静岡県掛川市・報徳図書館でお会いしました。
二宮尊徳の塾に入り、惣庄屋を務める父・佐平治とともに報徳信者となる。
明治11年(1878)掛川農学社を創立して農業技術の普及に尽くし、更に、掛川信用組合を創設した。
また、遠江国報徳社社長として報徳運動に尽力。
衆議院議員当選2回。
門下として子の良平や一木喜徳郎いちき・きとくろうらがいる。
岡田良一郎座像 (静岡県掛川市・報徳図書館) |
岡田良一郎(淡山翁)
淡山翁とは、大日本報徳社社長の岡田良一郎(1839~1915)の号名です。
佐野郡倉真くらみ村(現在の掛川市倉真)の生れで、16歳で二宮尊徳(金次郎)の門に入って学び、尊徳の四大門人の一人にあげられました。
彼は佐野・城東郡長、県会議員、衆議院議員など政治家として活躍するほか、教育面で、自邸内に私塾冀北学舎きほくがくしゃを設け、自ら指導にあたりました。
また明治13年に掛川中学校(現在の掛川西高)が設置されると、学校長を務めました。
現在でも掛川西高には冀北会館の名が残っています。
この他、農政面で掛川農学社をおこし、地域の農業振興に努めたり、全国初の信用組合、掛川信用金庫も創設しました。
なお、良一郎の長男の良平と二男の一木喜徳郎は、ともに冀北学舎で学び、後に文部大臣などを努めました。
(説明板より)
報徳図書館 (静岡県掛川市) (平成16年11月28日) |
掛川と報徳運動 |
倉真くらみ村(現掛川市倉真)出身の岡田佐平治さへいじ・良一郎父子は日光の地で尊徳から直接に教えをうけて、遠江(現静岡県西部)の報徳運動の指導にあたり、倉真地区が報徳社活動の一大拠点となりました。
明治8(1875)年に遠江国報徳社が浜松に設立されると、佐平治、次いで良一郎が社長に就任しました。
明治時代の後半、地域振興を図る地方改良運動が国内各地で展開されると、報徳思想への期待が高まり、尊徳の顕彰、報徳運動が全国に広がりました。
静岡県が全国の報徳運動の中心となり、とくに掛川に本拠地を移した遠江国報徳社がまとめ役的な存在であったので、明治44(1911)年、遠江国報徳社は大日本報徳社と改称され、全国の5百余の報徳社が、傘下に加わって、名実ともに掛川が報徳運動の中核となりました。
(報徳図書館のリーフレットより)
大日本報徳社 (静岡県掛川市) |
掛川信用金庫 (静岡県掛川市) (平成16年11月28日) |
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