岡山城 おかやまじょう

(別名:烏城)

岡山県岡山市丸の内2−3−1


岡山城 平成16年10月3日

岡山城(烏城)の歴史

備前国邑久郡から起った宇喜多直家が、岡山の地・石山にあった岡山城の前身にあたる城砦に入城したのは、天正元年(1573)の秋であった。
石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小城に過ぎなかったが、直家は、この城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄の基礎をつくった。
その子八郎秀家は、天正18年(1590)秀吉の意見に従い、石山の東「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を開始し、慶長2年(1597)天守閣が落成するにおよんで城普請は完成した。
これが豪壮きわまりない石垣と内堀を今に残す岡山城本丸である。
秀家の築いた天守閣は、二階建の建物を大中小の三つに重ねた3層6階の構造で、外壁の下見板が黒塗りであったことから「烏城(うじょう)」の別名がある。
この天守閣は、昭和6年に国宝に指定されたが、第2次世界大戦による昭和20年(1945)6月29日の、市街地空襲により焼失した。
現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月に鉄筋コンクリート造りで再建されたもので、外観は全く旧来の通り復元されている。

(説明板より)

岡山城

岡山城の歴史(あらまし)

「安土あづち城に建築ありし制に擬して天守閣を設く。その制三重造にて五重・・・・」と、古い記録(『岡山城誌』)にもあるように、この岡山城は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である。

いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ「後楽園」を背景にしたこの城は、天守閣の土台(天守台という)が北に大きく突き出した不等辺五角形という、全国に全く例のない珍しい形をしており、また塩蔵を併設した複合の天守閣である。

かつての岡山城の場所は、今の天守閣のある位置より西に300mほどいった、現在市民会館や放送局の建っている高台(『石山』という)にあった。

天正元年(1573)、宇喜多直家うきた・なおいえが、当時この城主であった金光宗高を滅ぼし、その城を修築した後、沼城(岡山市沼)から移ってきた。

今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家ひでいえで、時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。
秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部ももらい、57万4000石の大大名となった。
そして年若くして、参議従三位という異例の出世をとげ、「備前宰相」と呼ばれた。

こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天守閣の立つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しく旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛り上げ、上中下三段の地形を造成した。
そして天正18年(1590)から本格的な城づくりを開始した。
途中、秀吉の朝鮮半島への進攻には、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐに工事を継続し、ついに慶長2年(1597)の天守閣の完成で一応城づくりの全工事を完了した。
起工以来実に8ヵ年にも及ぶ大事業であった。

新しく出来上がった本丸(城の中心部分、内堀に囲まれた範囲)は、現在も殆ど昔のまま残っている部分で、面積が約4万uあった。

秀家の築いた天守閣は、石垣からの高さが20.45m、二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造である。
外壁の下見板には黒漆が塗られていたので、太陽光に照らされるとあたかも烏からすの濡れ羽色によく似ていたため、「烏城うじょう」の別名がある。
壁が黒いのは、戦国時代の名残りである。

また天守閣の内部には、かつて城主が生活をしていた「城主の間」の遺構が再現されていて、全国的にも珍しい設備である。
他の城でこの実例があるのは、天文6年(1537)の建築といわれる犬山城だけである。

かつて岡山城の範囲は、現在路面電車の通っている柳川筋や番町筋(当時の外堀跡、二十日掘といわれる)までで、建物の数としては、櫓が35棟、城門が21棟あり、当時はわが国を代表する名城であった。

しかし明治2年(1869)、岡山城は国の所有となったものの、これら全ての建物を維持していくことができず、明治15年(1882)以後に残されたものは、僅かに天守閣・月見櫓・西丸西手にしまるにして櫓および石山いしやま門の4つであった。

その後、これらは昭和6年と8年(1933)の二度に分けて国宝に指定されたが、昭和20年(1945)6月29日の早暁、第2次大戦による市街地空襲で、惜しくも天守閣・石山門を焼失してしまった。

現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月3日、市民の長年にわたる要望で作られた鉄筋コンクリート造りだが、外観は全く旧来通りに復原された。
また同時に、不明あかずの門・廊下門・六十一雁木がんぎ上門、それに周囲の塀なども、古い絵図面に従い、外観が旧来通りに復原された。

この本丸内で戦火を免れた唯一の建物は、中段=表おもて書院跡=の北西隅に建つ月見櫓(国指定重要文化財)である。
これは岡山城第5代藩主、池田忠雄ただかつによって、元和・寛永年間(1615〜1632)に建てられたものである。
この名称のある建物は、全国的にも極めて数が少なく珍しい遺構である。
この櫓は、文字通り「月見」という風流を楽しむためにも用いられたようだが、本来の目的は、この中段=表書院の北西を防衛するためのもので、櫓自体も武器の貯蔵庫になっており、隠し銃眼(鉄砲を撃つための狭間)や中世的な石落しの装置などが設けられている。

またこの付近にある塀の土台石には、全国的にも珍しい、当時の最新式装置の銃眼石(石狭間、狭間石ともいう)を並べている。
またそのそばには、穴蔵式の火薬貯蔵庫・古井戸・流し台なども残っていて、昔を偲ぶよすがとなっている。

さて石垣に目をやると、現在広い範囲に残っている石垣の殆どは、昔のままの状態で保存されていることで、全国的にもあまり例がない。
特に貴重なのは、天守閣を中心にこれを広く取り巻く石積みが、丸い形の自然石を用いた野面積のづらづみであることである。
これは日本全国に近代的な城づくりが始められた頃(安土桃山時代の初め)の古い形式のもので、貴重な文化遺産である。

一方、月見櫓を支えている付近の石垣は、前の野面積とは異なり、石の周辺を平らに加工した割り石を用いた石積みで、石の周囲の隙間に詰め石(小詰、合石という)を施した打込萩うちこみはぎという工法である。
「扇の勾配」とも言われるように、石垣のカーブの美しさが特徴である。

岡山城本丸の下段には、南から西にかけて、城を取り囲むように造られている掘は内掘で、ほぼ昔の原形をとどめている。

また、ここへ通じる橋(内目安橋、内下馬橋という)の城側の手前には、巨石が集中しており、四角な広場を形成している。
「枡形ますがた」と呼ばれるところで、城の表玄関に当たる大手門のあった場所である。

これらの石垣を含め、岡山城で使われている石の全ては、花崗岩の宝庫である瀬戸内海の犬島(岡山市)から運ばれたものである。

石段を上った中段広場は、「表書院」と呼ばれ、かつては備前(岡山)藩の政治を行うための建物(今の『県庁』に相当する)が立ち並んでいた所で、63室の部屋と庭園があった。

「不明門」を通り抜け、石段を上りきった天守閣のある上段は「本段」と呼ばれ、城主自身の生活に必要な建物が立ち並んでいた所で、築山や池のある庭園も作られていた。

この広場の南東の一画には、多くの石を整然と並べた場所がある。
これらは、昔の天守閣の礎石を移したもので、かつてはこの状態で重く大きな天守閣を支えていたのである。

なお、戦火を免れたもう一つの建物は西丸西手にしまるにして櫓(国指定重要文化財)で、この城から西に300m行った内山下うちさんげ小学校のグラウンド内にある。
これは、姫路城の城主、池田輝政の子、利隆としたかが藩政の代行でやってきた慶長8年(1603)に建てたものである。

(『岡山城』リーフレットより)

内堀



内堀
(内目安橋跡から大手門跡を見る)




(平成16年10月3日)

岡山城内堀

岡山城は 烏城または金烏城と呼ばれた名城で 宇喜多秀家によって天正18年(1590)から慶長2年(1597)にかけて築城された
内堀は城郭の中心である本丸を西と南から画した重要な施設であり いまになお築城当時の面影をよく伝えている
この堀はもともと旧岡山藩主池田家の所領であったが 昭和28年 林原グループ太陽殖産株式会社の所有地となり昭和58年林原創業百周年記念行事の一環として 岡山市に寄贈されたものである

昭和58年2月19日
全国市長会会長
岡山市長 岡ア平夫

(説明碑文より)

開祖宇喜多氏顕彰之碑



開祖宇喜多氏顕彰之碑






(平成16年10月3日)

「開祖宇喜多氏顕彰之碑」の由来

天正元年(1573)「石山」に宇喜多直家がもとあった城を修築してから入城し、城下町を開く。
またその子秀家は、豊臣秀吉の殊遇を受け、秀吉の指示により、この地「岡山」に本丸を移して城下町を完成させた。
ここに直家入城400年を記念し、岡山市発展の礎を築いた宇喜多父子を顕彰するためこの碑を建立したものです。

(説明板より)

月見櫓



月見櫓






(平成16年10月3日)

国指定重要文化財 岡山城月見櫓

月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三ひふみの段の二段目に当たる中の段の北西角を固める隅櫓で、池田忠雄ただかつが岡山城主であったときの城郭整備に伴い、元和年間から寛永年間前半の時期(1620年代)の建築と判断されています。
構造は、一部地下付きの塗籠ぬりごめ造り本瓦葺き二階建てで、城外(北西)側から眺めると二層の望楼ぼうろう型の様相を示し、城内(南東)側から眺めると三層の層塔そうとう型の景観を呈しています。
規模は、地階と一階が桁行(東西)三十二尺三寸(9.79メートル)・梁間はりま(南北)二十六尺二寸(7.94メートル)・二階が方形で桁行・梁間とも十六尺五寸九分(5.03メートル)、棟高四十五尺四寸(13.67メートル)です。
地階は、一階床下の貯蔵場所であり、一階の床板が引上げ式の戸造りとなっていて、有事の際に一階へ通じる作りとなっています。
一階は西面に石落いしおとし(俯射装置)付きの唐破風はふ造りの出格子窓、北面には石落し付きの片流屋敷の出格子窓を設けて城外側への臨戦の備えをなし、南面西寄りに入口を設けています。
二階は西面の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓を設けて、一階同様に城外側への備えを厳しくしています。
その一方で、二階の城内側の東面と南面には雨戸を立ての手摺付きの縁がめぐり、内側に腰高明り障子を立てており、二階のたたずまいは、城内側が日常生活仕様となっていて、平時にも月見を始めとした四季の眺望と小宴を催すのに格好の構造となっております。

岡山市教育委員会
岡山さくらライオンズクラブ

(説明板より)

月見櫓図面 説明板より

城主の間


城主の間

天守閣内に復原展示されています。




(平成16年10月3日)

歴代藩主の在城期間(リーフレットより)

初代 宇喜多直家 天正元年〜天正10年(1573〜1582) 9年間
2代 宇喜多秀家 天正10年〜慶長5年(1582〜1600) 19年間
3代 小早川秀秋 慶長5年〜慶長7年(1600〜1602) 2年間
4代 池田忠継 慶長8年〜元和元年(1603〜1615) 13年間
5代 池田忠雄ただかつ 元和元年〜寛永9年(1615〜1632) 17年間
6代 池田光政 寛永9年〜寛文12年(1632〜1672) 40年間
7代 池田綱政 寛文12年〜正徳4年(1672〜1714) 42年間
8代 池田継政つぐまさ 正徳4年〜宝暦2年(1714〜1752) 38年間
9代 池田宗政 宝暦2年〜明和元年(1752〜1764) 12年間
10代 池田治政はるまさ 明和元年〜寛政6年(1764〜1794) 30年間
11代 池田斉政 寛政6年〜天保4年(1794〜1833) 39年間
12代 池田斉敏なりとし 天保4年〜天保13年(1833〜1842) 9年間
13代 池田慶政よしまさ 天保13年〜文久3年(1842〜1863) 21年間
14代 池田茂政もちまさ 文久3年〜明治元年(1863〜1868) 5年間
15代 池田章政あきまさ 明治元年〜明治2年(1868〜1869) 1年間
後楽園


天守閣最上階から見た後楽園


正直言って、ただの公園にしか見えませんでしたけど・・・
これが日本三名園の一つ?


(平成16年10月3日)
喫茶コーナー 天守閣内にある喫茶コーナー
白桃アイスクリーム 喫茶コーナーで食べた『白桃アイスクリーム』

500円。
桃の味のアイスクリーム。
美味しかったです。

案内
入場料:大人300円(特別展開催時は料金を変更することがあります。
観覧時間:午前9時〜午後5時
休館日:12月29日〜31日、特別展開催日前後

【岡山城】

岡山城の起源は古いが、岡山城の歴史が大きく変わるのは、宇喜多直家が陰謀をもってこの城を奪ってからである。
宇喜多氏は元来、播磨(兵庫県)守護代・浦上うらかみ氏の家臣だったが、直家の代になってめきめきと頭角を現わし、主家を滅亡に追いやるとともに、中国地方の戦国大名の仲間入りをした。
当時の岡山城主・金光宗高かねみつむねたかは直家に臣従していたが、直家は自身の勢力が伸張するにつれて、立地条件の優れた岡山城をどうしても手に入れたくなった。
元亀元年(1570年)、直家は宗高のちょっとした手落ちを咎めて切腹を命じるとともに、強引に岡山城を我が物とした。

念願を果たした直家は、岡山城に大改修を施す。
家臣の岡平内おかへいないに縄張を命じ、従来の城を西廓に移し、その東に新しく本城を築くかたわら、さらに石垣を畳み、濠をうがち、みごとな平山城に仕立て直した。
岡山城の原型はこのときにほぼ整えられたが、直家の子の秀家の代になって、岡山城はもう一度改修の手を加えられる。
着工時期は、天正10年(1582年)とも文禄3年(1594年)とも伝えられるが、この大改修によって、岡山城は城域が大幅に拡張され、その東北部に天守がそびえたつことになった。

天守は外観も、内部の間取りや構造も、他の城では見られない、いくつかの特徴を備えている。
外観では、第三層から上が急に小さくなり、天守に向かって左に塩蔵しおぐらとよばれる二階建ての櫓が付属しているのが、異様な印象を与える原因となっているようである。
また、天守には連子れんじ窓と呼ばれる明り取りの窓が、煩わしいほど多く穿たれている。
これも天守の構造としては珍しく、このような窓の開け方は、西欧の石造りの窓と共通するものがあるという。

内部に関しては、天守台の石垣が極めて低いため、倉庫などに用いられる石蔵がない。
普通なら矩形くけいであるべき第一層の地取りは不等辺五角形、第二層は不等辺六角形をしており、第四層に至ってようやく矩形の平面が現われる。
最上層は正方形で屋根は南北に入母屋いりもやをつけている。
以前はこの最上層の西側壁面に祭壇を設け、三体の神を祀っていた。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月12日 追記)


【宇喜多直家の死】

宇喜多直家は生まれながらの謀将と思われた人だが、その死は峻烈だった。
直家は岡山城に病没(54歳)したが、腫れ物が体にでき、血膿ちうみに覆われ、苦悶しての死だった。
その血膿のついた衣類は毎日のように旭川あさひがわに捨てられた。
これを下流で乞食が拾う。
血膿の衣類が流れてこなくなって、城下では直家の死を確信したと『備前びぜん軍記』はいう。
その悲惨な死を天罰と人々は信じた。

(参考:『歴史街道 2009年12月号』)

(平成23年11月21日追記)




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