恩田民親 おんだ・たみちか

享保2年(1717年)〜宝暦12年1月6日(1762年1月30日)


恩田杢もくまたは恩田木工もくとして知られる。
松代藩家老。
延享3年(1746年)家老、宝暦7年(1757年)勝手方となり、扶持米不払いによる足軽不勤や増徴反対一揆に動揺していた松代藩で宝暦の改革を主導した。
幕府から拝借金1万両を得て水害後の村落復興に尽くし、年貢の月割上納制(金納)を定着させた。
倹約策や役務日記の引き継ぎ制度、財政帳簿の継続的作成など文書行政の整備を行う。
『日暮硯ひぐらしすずり』に彼の政治が理想化され語り継がれた。


恩田木工民親の墓



市指定史跡
恩田木工民親の墓
(長野県長野市松代・長国寺)




(平成20年10月27日)
長国寺



長國寺
(長野県長野市松代町松代1015−1)





(平成20年10月27日)

長國寺は、天文16年(1547)、真田幸隆公(1513〜1574)が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺を建立し、伝為晃運禅師(1573歿)を開山第一世に招請して、真田家の菩提寺となった。
永禄7年(1564)松尾城外に移され、本格的な禅刹として諸施設が整ったが、元和8年(1622)、上田藩主だった真田信之公(1566〜1658)の松代移封によって現在地に移転し、寺号も長國寺と改められた。
現在、曹洞宗の専門道場として認可されている。

(リーフレットより)


経世家・恩田民親

家老職の子として生まれた彼は、父の死により19歳で家督を継ぎ、家老の末席に名を連ねた。
39歳の時、13歳で6代藩主真田幸弘に見出されて家老職勝手掛を命ぜられ、藩財政の回復と経世済民に取り組む。
自ら、私曲を慎み、信義を重んじ、公平慈愛の心で政治にあたり、財政立て直しには節約しかないとして、まず自分の家族と一門にこれを守らせた。
しかるのち、役人から領民に至るまで、日常生活全般での節約の実行を求めた。
役人には租税の不法な取り立てや賄賂を禁じ、領民には租税の滞納を整理して納祖しやすい月割り納税とし、山野荒地の開墾や養蚕などの殖産興業に力を注いだ。
また、目安箱を設けて民衆の意見を聞くなどの善政に努めた。
彼の事跡を詳記した『日暮硯』は、二宮尊徳の『報徳紀』に並ぶ経世の書として現在も読み継がれている。

(参考:松代文化財ボランティアの会 著『城下町 松代』)




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