大庭雪斎 おおば・せっさい

文化2年(1805年)〜明治6年(1873年)3月28日


大庭雪斎の墓



大庭雪斎之墓
(佐賀県佐賀市・天徳寺)

大正10年8月建設



(平成20年11月24日)

大庭雪斎の墓

名は景徳、あるいは文心ともいう。(1805〜1873)
18歳頃佐賀蘭学の始祖島本良順に医学、蘭学の手ほどきを受けた。
文政8年長崎で、シーボルトに就き、39歳頃大阪で、緒方洪庵に就いた。
佐賀に帰ってから、安政元年(1854)弘道館の教導となった。
同3年「訳和蘭文語」の前編、翌年後編を出版した。
次いで文久2年(1862)「民間格知問答」を出版。
両著とも口語文で記述し、西洋の進歩した科学を究明する学問が重要であると唱えた。
嘉永4年(1851)蘭学寮が創設されると教導となった。
医学寮が好生館と改称されたあとも、教導方頭取の要職にあった。
また、長男景龍は、佐賀で初めてキリスト教会を設立したことでも知られている。

(説明板より)

天徳寺



天徳寺

(佐賀県佐賀市伊勢町6−32)





(平成20年11月24日)

弘道館記念碑



弘道館記念碑
(佐賀県佐賀市・徴古館の脇)





(平成20年11月24日)

藩校 弘道館

佐賀藩の藩校は「弘道館」(学館)といい、8代藩主鍋島治茂が1781(天明元)年に創設したもので、後に水戸・但馬と並んで天下三弘道館の一つと称されました。
松原小路1900坪の敷地に文武稽古場を建て、古賀精里(後の寛政の三博士の一人)を教授に朱子学を中心にした藩士教育を行い、人材の育成に努めました。
9代藩主鍋島斉直の時には、清里の子古賀穀堂が教授になり、「学制管見」を著し、10代藩主になる鍋島直正の侍講も勤めています。
10代鍋島直正は、1839(天保10)年に北堀端の現在地(ここは東端)5400坪に整備拡張し、弘道館・蒙養舎に七局六寮のほか大講堂・武芸場・厨房などを備え、学館予算も大幅に増額し、大規模な学校になりました。
また、藩士の子弟に限らず教育することにし、翌年6月の新築開講にあたり、「文武を励み、国家(藩)の御用に立つ様心掛くべし」と訓示されました。
学課は儒学・和学・漢学・兵学・筆道・習礼・算術・槍術・剣術・柔術・馬術・砲術・水練・蘭学(洋学を含む)、さらに洋式操練も加え、厳しく文武に研鑽を積ませています。
1855(安政2)年に始まる長崎海軍伝習には幕府の人数を上回る最多の48名を参加させ、海外の最新技術を学ばせています。
明治新政府で活躍した副島種臣大木喬任大隈重信佐野常民江藤新平島義勇などは皆弘道館の出身でした。
弘道館を中心とした徹底した教育による優秀な人材の育成が、幕末の佐賀藩が全国に先駆けて近代化を成し遂げる原動力になったと考えられます。
この記念碑は1923(大正12)年3月の建立で、題字は12代侯爵鍋島直映の揮毫、碑文は文学博士久米邦武の撰、中島雅明の書になるものです。

(説明板より)

弘道館跡



弘道館跡

(佐賀県佐賀市松原2−5−22・徴古館)





(平成20年11月24日)


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