大垣城 おおがきじょう

岐阜県大垣市郭町2−52


大垣城 平成19年4月2日

大垣市指定史跡
大垣城跡

大垣城は、牛屋川を天然の外濠にとりいれた要害堅固な平城で、天文4年(1535)宮川安定みやがわやすさだによって創建されたと伝えられている。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦では、西軍の本拠となり壮絶な攻防戦が繰り広げられたが、戸田家が入城してからは、歴代藩主と共に天下泰平の世を謳歌した。
先の戦災で惜しくも天守閣を焼失したが、現在城跡一帯は市民の憩いの場として親しまれている。

大垣市教育委員会

(説明板より)

天守閣



天守閣

昭和34年に外観復元された四重天守




(平成19年4月2日)

大垣城由来

大垣城は古く応仁年間(15世紀)には東大寺城と呼び、当時の城主は大井荘のうち石包名いわかねみょうという地域の代官職をしていた大垣氏であったようです。
そこでこの城を大垣城というようになりました。
その後天文4年宮川安定が城郭を築き、永禄2年大垣城主氏家卜全が城郭の建築工事をほどこしました。
天正13年(1585年)9月豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として天守閣の造営を命じました。
この工事は天正16年7月になって完成し、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四階建て総塗りごめ様式でたいへん優美な城として歴史のうえからも貴重なものでした。
昭和11年(1936年)国宝に指定され、郷土の博物館として親しまれてきましたが、昭和20年の戦災で惜しくも焼失しました。
その後お城再建の気運が高まり昭和33年5月着工翌34年4月昔そのままの姿で竣工したのがこの天守閣です。
なお江戸時代の城主は下記のとおりです。

石川康通やすみち 慶長6年2月〜慶長12年7月
石川家成いえなり 慶長12年7月〜慶長14年10月
石川忠総ただふさ 慶長14年12月〜元和2年9月
松平忠良ただよし 元和2年9月〜寛永元年5月
松平憲良のりよし 寛永元年5月〜寛永元年9月
岡部長盛ながもり 寛永元年12月〜寛永9年11月
岡部宜勝のりかつ 寛永9年11月〜寛永10年3月
松平定綱さだつな 寛永10年3月〜寛永12年7月
戸田氏鉄うじかね 寛永12年7月〜慶安4年11月
戸田氏信うじのぶ 慶安4年11月〜寛文11年7月
戸田氏西うじあき 寛文11年7月〜貞享元年8月
戸田氏定うじさだ 貞享元年8月〜享保8年4月
戸田氏長うじなが 享保8年4月〜享保20年8月
戸田氏英うじひで 享保20年9月〜明和5年4月
戸田氏教うじのり 明和5年6月〜文化3年4月
戸田氏庸うじつね 文化3年6月〜天保12年5月
戸田氏正うじただ 天保12年5月〜安政3年10月
戸田氏彬うじあきら 安政3年10月〜慶応元年8月
戸田氏共うじたか 慶応元年10月〜明治2年6月

(説明板より)

絵図

江戸時代初期(寛永15年頃) 島原の乱当時の大垣城絵図(写)  (説明板より)

東門


東門


大小姓多門跡
旧柳口門移設
(説明板より)



(平成19年7月2日)
丑寅櫓




丑寅櫓






(平成19年7月2日)
大垣藩歴代藩主

【藩祖】 戸田一西かずあき
生没:天文10年(1541)〜慶長8年(1603)
三河国に生まれ、徳川家に仕えて数々の戦功をあげ、鯨井五千石から、関ヶ原の役の功績などにより膳所三万石の城主となり大名に列した。
まさに戸田家の礎を築いた人である。

【初代】 戸田氏鉄うじかね
生没:天正4年(1576)〜明暦元年(1655)
在封:寛永12年(1635)〜慶安4年(1651)
武勇の誉れ高く、膳所三万石から尼崎五万石を経て、寛永12年大垣藩十万石の藩主となる。
以後、新田開発、治山治水、殖産及び学問の振興等に力を注ぎ藩政の確固たる基礎を築いた。

【二代】 戸田氏信うじのぶ
生没:慶長4年(1599)〜元和元年(1681)
在封:慶安4年(1651)〜寛文11年(1671)
父氏鉄を助けよく活躍した。
藩主となったのは遅く52歳の時であるが、藩政に努め、治水に力を入れた。
川口村の水門工事を立派に完成させ、“水門川”の名を今日に残している。

【三代】 戸田氏西うじあき
生没:寛永4年(1627)〜貞享元年(1684)
在封:寛文11年(1671)〜貞享元年(1684)
学問に親しみ、山鹿素行の高弟となり、自らの姿勢を律し民政の安定と新田開発、治水事業に努めた。
新規川の開掘や“延宝の大暇おおいとまい”、藩札の発行など行財政の建て直しを行っている。

【四代】 戸田氏定うじさだ
生没:明暦3年(1657)〜享保18年(1733)
在封:貞享元年(1684)〜享保8年(1723)
徳川家綱以降五代にわたる将軍に仕え、その信任あつく日光代拜や飛騨国の検地を始め将軍家の私的な事柄にも重要な役割を果した。
また、赤穂無血開城には公私共に尽力している。

【五代】 戸田氏長うじなが
生没:貞享4年(1686)〜享保20年(1735)
在封:享保8年(1723)〜享保20年(1735)
博愛の情に厚く、質素倹約を心構えとして藩政に尽した。
また、幕府が倹約令を出している時代にもかかわらず荻生徂徠おぎゅうそらいの高弟守屋峨眉らを高禄で招き、藩学振興に力を注いだ。

【六代】 戸田氏英うじひで
生没:享保14年(1729)〜明和5年(1768)
在封:享保20年(1735)〜明和5年(1768)
7歳で父のあとを継ぎ藩主となる。
世にいう“延享の永暇ながのいとま”に取組んだり百姓一揆にも誠意をもって温情ある対処をしている。
一方、幕府の信頼厚く奏者番などの大役も立派に果した。

【七代】 戸田氏教うじのり
生没:宝暦5年(1755)〜文化3年(1806)
在封:明和5年(1768)〜文化3年(1806)
館林松平家より養嗣子として迎えられ、14歳で藩主となる。

【八代】 戸田氏庸うじつね
生没:天明3年(1783)〜天保12年(1841)
在封:文化3年(1806)〜天保12年(1841)
23歳で藩主となる。
学問文化を奨励し、自ら絵を嗜み多くの作品を残した。
1837年学問所を創設し、のち致道館、敬教堂などと名を改めた全国有数の藩学校の基礎を築いた。

【九代】 戸田氏正うじただ
生没:文化10年(1813)〜明治9年(1876)
在封:天保12年(1841)〜安政3年(1856)
28歳で襲封、幕末の多事多難な中で、すぐれた先見性をもって、小原鉄心らを登用し藩政の刷新に努めた。
在封16年にして隠居、その後も明治維新の誕生までよく指導力を発揮した。

【十代】 戸田氏彬うじあきら
生没:天保2年(1831)〜慶応元年(1865)
在封:安政3年(1856)〜慶応元年(1865)
父の譲りを受け在封10年。
幕末騒然たる時代によく対応。
黒船の再来、和宮降嫁、京都警固などに藩兵を動員し大いに活躍したが、長州征討の折、35歳の若さで陣中に病没した。

【十一代】 戸田氏共うじたか
生没:嘉永7年(1854)〜昭和11年(1936)
在封:慶応元年(1865)〜明治4年(1871)
兄のあとを継ぎ12歳で藩主となる。
在封6年、幕末の転換期を乗切って明治維新を迎える。
版籍奉還後米国に留学、以後伯爵となり公使などを勤めた後、式部長官など宮中の顕職を歴任した。

(大垣市郷土館展示品説明パネルより)


常葉神社



常葉神社
(岐阜県大垣市郭町1丁目・大垣公園内)





(平成19年4月2日)

常葉ときわ神社沿革史

御祭神
戸田一西命 氏鉄命 氏信命 氏西命 氏定命 氏長命 氏英命 氏教命 氏庸命 氏正命 氏彬命 氏共命

戸田一西公は大垣藩の藩祖である。
三河国・田原城主 戸田宗光の第六世で、徳川広忠・家康公に仕えて戦に従い、勇名を馳せた。
天正18年戦功により武蔵国鯨井城主となり、次いで近江国大津城を経て、同国膳所城に転じた。
戸田氏鉄公は、一西公の子で、膳所城主より尼が崎城主に移り、寛永12年(1635)大垣十万石の城主となった。
嘉永5年(1852)5月、藩祖一西公二百五十年忌に当り第9代藩主氏正公は、藩祖追悼の意を表す為に祠廟を大垣城内松の丸庭内に創建して公の神霊を奉祀し、伊勢神宮の祭主大中臣教忠卿に請り、常葉明神の神号を受けた。
廃藩置県の後、城地返上となり松の丸館も取り払われ霊社も明治6年8月、八幡神社の境内に遷座再営された。
明治24年濃尾大地震で八幡神社と共に社殿は倒壊した。
明治35年5月、藩祖一西公三百年忌を記し、旧藩士・民有志より旧藩主に請い、再建計画を興し、旧大垣城内天守閣西の現在地に社殿を新築することになり、同年10月23日遷宮式を行なった。
大正5年、初代藩主氏鉄公の神霊を合祀し社格も県社となったが、昭和20年7月29日夜米空軍の空襲を受け大垣城と共に焼失した。
戦後の昭和25年、漸く復興の気盛り上がり、社殿の再建となり、昭和26年神社本庁管轄、宗教法人 常葉神社となった。
昭和41年、藩主2代目氏信から11代氏共命まで10柱を合祀することとなった。
これは大垣市の発展の基は、270年に渉る、戸田家歴代藩主の恩恵に依るところが大きいと言う氏子の要望に基ずいたものである。

(説明板より)

大垣公園



大垣公園
(岐阜県大垣市)





(平成19年4月2日)

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