大原重徳 おおはら・しげとみ

享和元年10月16日(1801年11月21日)〜明治12年(1879年)4月1日


大原重尹しげのぶの五男。
母は唐橋在家の女。
文化2年(1805年)兄・重成しげなりの養子となり、天保2年(1831年)従三位、天保9年(1838年)家督を相続。
文久2年(1862年)左衛門督に任官、幕政改革・攘夷督促の勅使として江戸に赴いた。
同年国事御用掛。
文久3年(1863年)2月勅定の改竄を理由に落飾・閉門に処されるが、8月に赦免される。
慶応2年(1866年)朝政改革を主張する列参運動を主導し再び閉門となる。
翌年、赦免。
王政復古で参与となる。
明治元年(1668年)議定・集議院長官などを歴任。
明治3年(1870年)辞官し麝香間じゃこうのま祇候。


大原重徳の墓



贈正二位大原重徳墓
(東京都台東区谷中・谷中霊園)





(平成19年12月28日)
勅撰神道碑



勅撰神道碑
(大原重徳墓の脇)





(平成19年12月28日)

東京都指定旧跡
大原重徳墓

所在地 台東区谷中7丁目 谷中霊園
指定   昭和15年2月

幕末・明治維新期の公卿くぎょうで、大原重尹しげのぶの五男として享和元年(1801)10月16日京都に生まれた。
天保2年(1831)従三位右近衛権中将じゅさんみうこんえのごんちゅうじょう
天保9年(1838)兄重成しげなりの死去により大原家6代の当主となった。
嘉永6年(1853)ペリー来航以来攘夷論を主張し、安政5年(1858)日米修好通商条約の勅許ちょっきょに反対して、水戸藩前藩主徳川斉昭の許に赴こうと密かに出京したが失敗した。
文久2年(1862)左衛門督さえもんのかみに任ぜられて、勅使として江戸に下り、辰たつの口くち伝奏屋敷でんそうやしきから江戸城に臨み、将軍家茂に幕政を改革し攘夷の方策を整うべしとの勅諭ちょくゆを伝達した。
これによって一橋慶喜の将軍後見職こうけんしょく松平慶永まつだいらよしなが(春岳しゅんがく)の政事総裁せいじそうさい職就任が実現した。
王政復古派の公卿の一人として活躍し、慶応3年(1867)12月9日の夜小御所こごしょで開かれた御前会議(小御所会議)では、山内豊信やまうちとよしげ(容堂ようどう)、松平慶永ら公儀政体派と論争し、この会議で徳川慶喜の辞官(内大臣の辞退)、納地(所領の返上)が決定した。
維新後に刑法官知事、議定ぎじょう、集議院長官等に任ぜられたが、明治3年(1970)官を退き、麝香間祇候じゃこうのましこう(非職となった重臣に与えられた称号)を命ぜられた。
明治6年家督を重実しげみに譲り、同年11月麝香間祇候会議の発足にあたり、その発起人のひとりとなった。
明治12年(1879)4月1日79歳で死去した。
贈正二位。
墓域左手に閑院宮載仁親王かんいんのみやことひとしんのうの篆額てんがくによる勅撰神道碑ちょくせんしんとうひがある。

平成10年3月 建設
東京都教育委員会

(説明板より)

大原重徳の墓所



大原重徳墓所

(東京都台東区谷中7丁目・谷中霊園)





(平成19年12月28日)


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