平成15年5月25日

大石良雄 おおいし・よしお(よしたか)

万治2年(1659年)〜元禄16年2月4日(1703年1月16日)

東京都港区高輪2丁目・泉岳寺でお会いしました。


大石良雄は山鹿素行に軍学を、伊藤仁斎に漢学を学んだとされています。
元禄14年(1701年)藩主・浅野長矩ながのりの切腹、城地没収に際し、家中を統括して浅野家再興を目指しましたが、その可能性を絶たれ、翌年の12月に吉良義央よしなか(よしひさ)を殺害して、喧嘩両成敗のかたちを自力で完遂させました。
幕府の命により熊本藩下屋敷に預けられ、翌年自刃しました。行年45歳。
赤穂事件は赤穂の浪士らが幕府の方針に反した犯罪者か義士かで、当時から論争になりました。


吉良邸跡



吉良邸跡

(東京都墨田区両国3丁目13番・本所松坂町公園)




(平成16年9月28日)
赤穂義士遺蹟吉良邸跡の碑 『赤穂義士遺蹟 吉良邸跡』の碑

本所松坂町公園由来
所在地 墨田区両国3丁目13番9号
面積 97.56平方メートル

この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央よしなかの上屋敷跡です。
その昔、吉良邸は松坂町1、2丁目(現、両国2、3丁目)のうち約8,400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。
昭和9年3月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和25年9月墨田区に移管されました。
周囲の石壁は、江戸時代における家の格式をあらわす海鼠塀なまこべい長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺蹟があり当時をしのばせております。
また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。

墨田区

(説明板より)

吉良邸跡の井戸




本所松坂町公園(吉良邸跡)内・吉良邸跡の井戸


井戸の左の祠には吉良邸で亡くなった「吉良家家臣二十士」の石版が祀られています。



(平成16年9月28日)

吉良家家臣二十士

小林平八郎 清水一学 新貝弥七郎 斎藤清左衛門 牧野春斎
森半右衛門 権十郎 曽右衛門 大須賀次部右衛門 左右田源八郎
小堺源次郎 大河内六郎右衛門 鳥井利右衛門 須藤与一右衛門 鈴木元右衛門
笠原長太郎 榊原平右衛門 鈴木松竹 杉山三左衛門 清水団右衛門

元禄15年12月15日未明旧赤穂藩士が吉良上野介邸を襲撃した際吉良家の犠牲となられた家臣の俗名です

(石版碑文より) 

松坂稲荷 本所松坂町公園(吉良邸跡)内・松坂稲荷

松坂稲荷大明神由来

『松坂稲荷』は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。
「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官され、昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園化開園とともに当所に遷座されました。

墨田区文化観光協会

(説明板より)

地図 現地展示地図


大名検使介錯人名表

場所 細川邸(芝三田7丁目下屋敷
大名 越中守綱利(肥後熊本54万石)
検使 荒木十右衛門(目付1,500石)
久松内記(使番)
徒目付 村山覚右衛門
江口弥一兵衛
黒柳紋衛門
三宅権七
大場源太夫
伊藤杢右衛門
安田勝兵衛
小人目付 小泉半十郎
近藤彦八郎
安藤助八郎
柳川六郎太夫
磯山覚右衛門
原佐五郎
介錯人 安場一平

(泉岳寺「義士銘々傅」より)


平成15年2月8日

茨城県笠間市・笠間城跡「佐白山公園」でお会いしました。

碑文

大石内蔵助良雄を統領とする赤穂浪士の義挙は天下に喧伝されて知らない人はいない。
その主浅野公が父子2代に亘って笠間城を領し、良雄の祖父良欽が家老として此の地に住したことを知る人は寡ない。
而してこの銅像建立の地こそ浅野藩邸を経営した由縁の地である。
義挙の精神の源流は関東に尚武の気風をもって鳴った当地に発することを信じ、浅野家が笠間より赤穂に移って330年の記念すべき年にこの銅像を建てるものである。

昭和47年12月14日
大石内蔵助良雄銅像建立委員会

大石邸跡



史蹟 大石邸跡
(茨城県笠間市・笠間日動美術館そば)





(平成18年1月9日)

碑文

ここは浅野家が笠間を治めたころの 城代家老大石家の邸の一角であり 柏 枝垂櫻は当時より植え継がれたものである

昭和61年4月吉日
笠間義士会

大石邸の柏

元和8年(1622)浅野長重初めて大名となり笠間城を預かりその子浅野長直が正保2年(1645)赤穂転封になる迄の二十余年の間赤穂義士の総帥大石良雄の祖父城代家老大石良欽の旧邸の跡である
この邸跡の柏樹は良欽お手植えのものと伝えられ当時からここにあったが年を経て今の柏は二代目の樹となった
二百四十余年の笠間藩盛衰の跡を見守ってきているが黙して語らずただ藩政時代の昔をしのぶよすがの一つになっている

笠間市
笠間市観光協会

(説明板より)


大石良雄等自刃の地碑



『大石良雄等自刃ノ跡』の碑

(東京都港区高輪1−15・高輪一丁目アパート)

大正6年7月 東京府 建立



(平成18年7月16日)

大石良雄外十六人忠烈の跡




大石良雄外十六人忠烈の跡
(東京都港区高輪1丁目4、6〜16)




(平成18年7月16日)

東京都指定旧跡
大石良雄よしたかほか十六人忠烈の跡

所在地 港区高輪1丁目4,6〜16
指定  大正7年4月

この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら17人が預けられた肥後熊本藩(54万石)細川越中守下屋敷の一部である。
赤穂事件とは、元禄14年(1701)3月14日におこった殿中刃傷事件とその翌年12月14日の夜から15日にかけての吉良邸討ち入り及びその処分など一連の事件をいう。
当時の藩主5代綱利つなとしは、12月15日老中稲葉いなば丹後守たんごのかみ正往まさゆき(下総しもうさ佐倉さくら藩主)から大石内蔵助外16人御預けの命を受けると、総勢875人に17挺の駕籠と予備として5挺の駕籠を用意させ、大目付仙石せんごく伯耆守ほうきのかみ久尚ひさなおの屋敷に送った。
引渡を受けたのは午後10時頃で、この地に到着したのは午前2時過ぎであった。
この様な大部隊を繰出したのは、藩の威武を示すとともに上杉家が親の仇たる四十六士を襲撃するかもしれないとの噂があったためである。
細川綱利は、大藩の威力と識見を以て優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけであった。
元禄16年(1703)2月4日午後2時、上使の御目付荒木十左衛門政羽まさはと御使番久永ひさなが内記ないき信豊のぶとよから切腹を申渡し、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べて御請した。
家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は17人の切腹に17人の介錯人を選定した。
切腹の場所は大書院舞台側わき、大書院上の間の前庭で、背後に池を負った位置である。
切腹の座には畳3枚を敷き並べ(細川家以外は2枚)その上に木綿の大風呂敷を展べ、背後も左右も白の幔幕を張り廻らした。
大石内蔵助は安場やすば一平(子孫は明治維新に功有り男爵を授けられた)の介錯で切腹した。
大石良雄外16人は、浅野家の菩提寺泉岳寺に葬られている。

平成10年3月 建設
東京都教育委員会

(説明板より)

敷地内




敷地内






(平成18年7月16日)

赤穂義士史蹟碑

正義を愛し名節を重んずる者は暫くここに歩を停めよ
此処は徳川時代細川邸の跡
実に赤穂義士の総帥大石良雄等17名が元禄16年2月4日壮烈な死を遂げた現場である。

昭和35年3月20日
財団法人 中央義士会
東京都教育委員会

自刃せる義士左の如し
大石内蔵助良雄 45
吉田忠左衛門兼亮 63
原 惣右衛門元辰 56
片岡源五右衛門高房 37
間瀬久太夫正明 63
小野寺十内秀和 61
間 喜兵衛光延 69
磯貝十郎左衛門正久 25
堀部彌兵衛金丸 77
近松勘六行重 34
富森助右衛門正因 34
潮田又之丞高教 35
早水藤左衛門満堯 40
赤埴源蔵重賢 35
奥田孫太夫重盛 57
矢田五郎右衛門助武 29
大石瀬左衛門信清 27
以上





毛利甲斐守邸跡
(東京都港区六本木6−9・「毛利庭園」)

「六本木ヒルズ」内にあります。



(平成22年9月3日)

東京都指定旧跡
毛利甲斐守もうりかいのかみ邸跡

所在地 港区六本木6丁目9番
指定  昭和18年3月16日

この地は、吉良きら邸討入りに加わった元赤穂藩士47人のうちの10人が預けられた長門長府ながとちょうふ藩毛利家麻布あざぶ日ヶ窪ひがくぼ上屋敷の一部である。
中国地方の戦国大名毛利元就もとなりの孫に当る秀元ひでもとを初代とする毛利家は、現在の山口県下関市に藩庁を置いた外様大名(3万6千200石)である。
赤穂事件当時の3代藩主毛利綱元つなもと(1650〜1709)は、56年間の在任中に家臣団の整備や財政の建て直しを図り、藩政を確立させるとともに、歌集『七石集しきせきしゅう』を著すなど、和漢の学に長じた名君として知られている。
元禄15年(1702)12月15日、藩主毛利綱元は、家臣田代たしろ要人を請取人うけとりにんとして江戸詰つめ藩士300余人を大目付仙石伯耆守せんごくほうきのかみ邸(現在の港区虎ノ門2丁目8)に遣わした。
岡島八十右衛門常樹おかじまやそうえもんつねき、吉田沢右衛門兼貞よしだざわうえもんかねさだ、武林唯七隆重たけばやしただしちたかしげ、倉橋伝助武幸くらはしでんすけたけゆき、間新六光風はざましんろくみつかぜ、村松喜兵衛秀直むらまつきひょうえひでなが、杉野十平次次房すぎのじゅうへいじつぐふさ、勝田新左衛門武尭かつたしんざえもんたけたか、前原伊助宗房まえばらいすけむねふさ、小野寺幸右衛門秀富おのでらこうえもんひでとみの10人の(※HP管理者:「が」ではないかと思う)日ヶ窪の江戸屋敷に収容された。
元禄16年(1703)2月4日、幕府の裁きにより10人は、使番つかいばん斉藤次左衛門利常さいとうじざえもんとしつね(1700石)、目付めつけ鈴木次郎左衛門福一すずきじろうざえもんよしかづ(500石)の立会いのもとに、この屋敷で武士の本懐を遂げた。
この時、本藩である長州ちょうしゅう(萩はぎ)藩からも藩士が派遣されており、長府毛利家は、本来の保護を受ける立場であり、義士預かりに慎重を期したことが伺える。

(説明板より)





大石燈籠
(大分県中津市・大法寺)

伝・大石良雄奉納



(平成23年2月11日)





大法寺
(大分県中津市寺町966)




(平成23年2月11日)

【大法寺だいほうじの由来】

本寺は妙顕寺みょうけんじまつ日蓮宗一致いっち派に属し眞浄山しんじょうざんと号す。
開山は大法院日周にっしゅう上人にして、慶長5年(1600)2月の建立。
庭内に加藤清正公を祀る浄池宮じょうちぐう、婦人病平癒に功徳のある神様として伝えられる秋山堂しゅうざんどうが建立されている。
又、大石良雄奉納と伝う二基の石灯籠、由比正雪ゆいしょうせつが植えたと伝えられる塩釜桜しおがまざくらの大樹あり、一名正雪桜しょうせつざくらとも言い伝えられている。
現在三十五世を継承する古刹であるが、その間名僧も多く輩出している。
特に第三十一世、日良聖人にちりょうしょうにんは文学に秀で俳句をよくし、京都で有栖川宮ありすがわのみやに招かれ「花廼庵はなのあん」の号を賜り生涯の面目とした。
中津に居住してから多くの俳人を育てた。
又、日本で最も早い時期(1849年)に種痘を行った辛島正庵一族の墓を始め、小幡英之助先祖の墓、福沢諭吉の姉(小田部家)お礼の墓などが寺内にある。

中津市
中津の郷土史を語る会

(説明板より)


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