大川周明 おおかわ・しゅうめい

明治19年(1886年)12月6日~昭和32年(1957年)12月24日


昭和期の思想家・国家主義者・右翼理論家。
山形県酒田市出身。
東京帝国大学卒。
大正7年(1918年)、満鉄東亜経済調査局に入社し、翌年に編集課長となる。
調査に従事する一方、北一輝らと猶存社を結成、その後も行地社を創立するなど、国家主義運動を率いた。
昭和6年(1931年)、橋本欣五郎らの桜会と共に陸軍主導の内閣樹立を目指した「三月事件」・「十月事件」に参画。
翌年の「5・15事件」で禁錮刑判決。
第二次大戦後、A級戦犯容疑で逮捕されるが、極東国際軍事裁判審理中に精神障害をおこし、免訴となった。

(参考:『日本史人物事典』 山川出版社 2000年5月第1版第1刷発行)





 大川周明博士顕彰碑
 (山形県酒田市・日枝神社)

 題額 酒井忠明
 大川周明顕彰会
 大川周明博士生誕百年祭実行委員会 建之
 昭和61年10月吉日


(平成26年11月23日)

哀輓三章

識見文章 共に絶倫
多年興亜経綸を展
痩躯そうく六尺 英雄漢
睥睨へいげいす 東西古今の人

危言 厄に遭うも道何ぞ窮せん
幾度か身を投ず 囹圖の中
筆は秋霜を挟み 心は烈日
果然頽世たいせい 清風を起す

立言何ぞ遜らん 立朝の勲
時 艱難に際して嗟す
君を喪うを
渺々びょうびょうたる魂兮 招けども返らず
哀歌空しく対す 暮天の雲
              哀輓
大川博士周明君  土屋久泰ゆうたい

昭和33年2月15日、東京青山斎場に
於て行われた葬儀の日、霊前に捧げられた
弔辞。
土屋雨竹久泰先生は、明治20年鶴岡に生
れ、荘内中学校・第二高等学校・東京帝国
大学に学ぶ。漢詩は当代第一。書家として
亦一家をなす。長年大東文化大学々長とし
て東洋文化の振興に寄与す。
昭和33年11月、71歳にて逝去。

(銘板より)

大川周明博士を偲ぶ

鳥海山の秀峰を仰ぎ世界に通ずる日本海に
浴した大川周明博士は此地酒田に生を受け
育ち、第五高等学校、東京帝国大学に学ん
だ。博士は少年期より求道の志固く、その
精進は宗教、学問に及び政治、特に国際政
治に甚大な関心を持たれた。その学問行動
の軌跡は、新井白石 吉田松陰に比適され
るものがある。博士の悲願とされたアジア
諸民族の独立は既に達成され人類は未曾有
の科学文明の時代に突入せんとしている。
先生の霊安らかならん事を祈ると共に後昆
の領導を希ふ所以である。

昭和61年10月
拓殖大学総長
      高瀬侍郎

(銘板より)

アジア植民地解放の父  大川周明の略歴

明治19年酒田西荒瀬村藤塚に生まれた。
荘内中学時代角田俊次の家塾に起居『南洲翁遺訓』に影響を受け、また横井小楠の卓抜なる見識に傾倒した。
熊本五校、東京帝大インド哲学科に学んだ。
ふとした縁でヘンリー・コットンの『新インド』を読んで、イギリス植民地下のインドの悲惨を知り、植民地政策の研究へと人生の転換を志した。
昭和4年時の満鉄総裁山本条太郎を説いて、満鉄から調査局を分離し東亜経済調査局を主宰、理事長となり、アジア、アフリカの政治経済、社会、文化の調査研究の指導に当り、また盟友北一輝と共に「猶存社」を創立。
更に「行地社」「神武会」を主宰、5・15事件に連座、獄中で不朽の名著『近世欧羅巴ヨーロッパ植民史』を著した。
昭和13年4月、東亜経済調査局附属研究所を設立主宰。
日支間の和平、アジア問題に献身し、大東亜戦争では東條に極力開戦阻止を進言したが果さず、戦後A級戦犯容疑者に指名されたが、昭和23年春、不起訴で釈放された。
日本は敗戦したが、アジア、アフリカ諸国は独立し、大川の植民地解放の夢は実現した。
大川著『回教概論』ははイスラム研究の最高水準をいっている。
晩年『古蘭コーラン』の翻訳に没頭し、昭和25年に岩崎書店より刊行している。
昭和32年12月24日神奈川県中津に於て逝去。
71歳。

大川周明顕彰会

(説明板より)






 日枝神社
 (山形県酒田市日吉町1-7-1)





(平成26年11月23日)

先人 ここに街を開き鎮守日吉山王大権現を祀る。
以来490年風砂を除き砂嚢を積み松林を経営して境内とす。
神佛両殿を祀り山王両宮と称せし時代を経て明治に至り日枝神社と改称県社に列せらる。
街の繁栄と社会の安寧を祈りここに祖先の偉業を称う。

平成9年7月
日枝神社

(説明板より)

山王鳥居

神域を表徴する鳥居には極めて多種の様式があるが山王鳥居は明神鳥居の上部に三角形の合掌或は破風の如きものが加わった当社独特の鳥居である。
昭和36年秋強風により従前の木造大鳥居を失ない今回篤志の御奉納いたゞき20年ぶりに再建された。
御神号額は陸軍大将西郷隆盛公御筆明治17年新調のものを再掲した。

昭和56年5月吉日
日枝神社

(説明板より)






 随身門
 (山形県酒田市・日枝神社)





(平成26年11月23日)

随身門

神社の尊厳を境内の警護を願い太玉命ふとたまのみこと、戸屋根命こやねのみことの神像を安置するもの、この門をくぐり参道が曲折しておるのは俗界と聖境を区分し参拝者の精神統一を計ったものである。
天明7年本間光丘建立のものが明治27年10月22日酒田大地震にて全潰、現在の門は8年の歳月をかけて材質を吟味し、工匠の術を集めて明治35年本間光輝が再建したものである。
楼門二層造総欅材で威厳と優美の調和が特徴と云われる、門の中央で拍手を打つとこだまが返るが、天井の微妙なわん曲による反響であり「鳴き天井」は名工の秘術とされ、反響の大小により神意をうかがったとも云う。
「至誠精神」の掲額は東郷平八郎元帥の親筆であり御参拝の本義を示している。

日枝神社

(説明板より)

本殿
(山形県酒田市・日枝神社)

(平成26年11月23日)

日枝神社

人々の幸福と街の繁栄・社会の平和を祈り、お守りいただくために大已貴命おおなむちのみこと・大山咋命おおやまくいのみこと・胸肩仲津姫命むなかたなかつひめのみことの三柱の神をおまつりしております。
最上川の対岸、宮の浦の地から川を渡って今の酒田の街をつくった四百五十年前から産土様うぶすなさまとして深く信仰されて来ました。
本殿・拝殿の建物は、明治27年の酒田大地震後、大修理を加えましたが、天明年間(二百年前)本間光丘翁が造営寄進されたもので、社殿のまわりに土を盛り松林を育て、防災に工夫をこらしております。
神社では、元旦祭から除夜祭まで四季それぞれのお祭りを行い、国の隆昌と世界の共存共栄を祈りますが、年に一度の例大祭は5月20日、酒田山王祭として市民あげての盛大な神事が行われます。

(説明板より)




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