大久保利通像 平成12年3月26日

大久保利通 おおくぼ・としみち

文政13年8月10日(1830年9月26日)〜明治11年(1878年)5月14日

鹿児島県鹿児島市 JR鹿児島中央駅から徒歩で5分の高見橋のたもとでお会いしました。


大久保利通は天保元年(1830年)に小姓組・大久保次右衛門利世じえもんとしよの長男として生まれました。
弘化3年(1846年)、16歳で藩に出仕しましたが、4年後に次期藩主をめぐるお家騒動に父親が連座したため罷免されました。
その後、復職して藩内若手改革派『誠忠組せいちゅうぐみ』のリーダーとなります。
藩主・島津斉彬の没後、一時脱藩を企てましたが断念。
藩主・島津久光のもとで公武合体策実現のため奔走し藩政の改革にも手腕を振るいました。
文久3年(1863年)、朝廷より将軍・家茂いえもちに上洛の命が降りるや、久光の命を受けて将軍上洛阻止を図り、松平春嶽や山内容堂に入説にゅうぜいを試みましたが、この工作は失敗。
しかし、利通の名声は藩の内外に知れ渡りました。
同年8月18日の政変後、京都で一橋慶喜と有力諸大名による参与会議が開催されましたが、政策をめぐって久光と慶喜は対立。
これ以降、利通は慶喜に不信感をつのらせ、公武合体路線に見切りをつけました。
幕府は勅命をかりて長州征伐を正当化しようとしますが、「非義の勅命は勅命に非あらず」として、二度にわたる長州征伐発令に対して反対の立場をとりました。
幕府の長州征伐失敗後、西郷隆盛とともに倒幕運動を推進し、慶応3年(1867年)岩倉具視いわくら・ともみらと連携して王政復古の政変を実現しました。
明治維新政府が成立した時は37歳。
政界の中心人物として、版籍奉還、廃藩置県の実現に努め、大蔵卿時代は地租改正の建議を行いました。
欧米視察後、内務省を設立し、事実上の首相というべき内務卿を兼務しました。
しかし、西郷隆盛の朝鮮派遣(征韓論)に反対して対立が始まり、1877年西郷を擁する鹿児島士族の反乱(西南戦争)の鎮圧にあたり、竹馬の友を失ってしまいます。
明治11年(1878年)不平士族に出勤途中を襲われ殺害されてしまいました。
この時、ロンドンタイムスは「大久保利通氏の死は日本国の不幸である」と報じました。

(平成16年8月1日改訂)


大久保利通像 平成19年3月30日再訪問

大久保利通像



大久保利通像
(鹿児島市西千石町・高見橋)





(平成19年3月30日再訪問)

碑文

大久保利通は 幕末動乱の際 西郷隆盛と共に倒幕運動の中心となって 王政復古を実現
ついで新政府に入り版籍奉還 廃藩置県を断行 欧米巡遊の後 参議内務卿として地租改正 殖産興業政策等を推進 近代日本の基礎を確立した
新生日本の激動時代に 進んで難局に当たってたじろがず 事を処するに公平清廉で「為政清明」の語はよくその信念を物語る

昭和54年9月26日
大久保甲東百年記念顕彰会

題字 鎌田要人
制作 中村晋也

(銘板より)

大久保利通像



大久保利通像
(鹿児島市西千石町・高見橋)





(平成19年3月30日再訪問)

大久保利通銅像

〜藩閥意識を超えて新生日本の近代化に尽くす〜

大久保利通は明治草創期の指導的政治家です。
1830年(天保元)に生まれ、幼名は正袈裟しょうけさ、通称は一蔵、号を甲東こうとうと称しました。
幕末期、薩摩藩下級武士のリーダーとして藩論を尊皇にまとめる一方、最後の藩主島津忠義の父久光の信頼を得て、藩政の改革にも手腕をふるいました。
薩英戦争後はイギリスとの講和をまとめ開国に目覚めるとともに、沖永良部おきのえらぶから西郷隆盛を呼び戻し、歴史的な名コンビとして倒幕に奔走。
薩長同盟の締結をみて、ついに1867年(慶応3)明治維新が達成されたのです。
新政府樹立後は政界の中心人物として、版籍奉還はんせきほうかん、廃藩置県はいはんちけんの実現につとめ、大蔵卿時代は地租改正の建議を行いました。
また、欧米諸国を視察し、帰国後は内務省を設立し事実上の首相ともいうべき内務卿を兼務しました。
ところがこの頃から西郷隆盛と対立、西南戦争によって竹馬の友を失ったのです。
その大久保もまた、1878年(明治11)出勤途中を襲われ急死。
ロンドンタイムスは、「氏の死は日本全国の不幸である」と報じました。

(説明板より)


大久保利通生い立ちの地




「大久保利通生い立ちの地」


鹿児島市「維新ふるさと館」の裏手にあります。


(平成12年3月26日)
大久保利通君誕生地の碑



『大久保利通君誕生之地』の碑

(鹿児島県鹿児島市・『大久保利通生い立ちの地』)





(平成19年3月30日再訪問)
生い立ちの地



大久保利通生い立ちの地
(鹿児島県鹿児島市加治屋町23)





(平成19年3月30日再訪問)

大久保利通

〜近代国家建設に命をかけた大久保の苦悩〜

大久保内務卿が庁舎に入ると、雑談はやみ、あたりは水を打ったように静まり返った・・・・・・・
子ぼんのうな私生活とは裏腹に、政治家としての大久保利通は厳格さにも凄味すごみがあったといわれています。
幕末激動期に西郷との絶妙のコンビで明治維新を成し遂げ、新政府樹立後は天才的な政治手腕で近代国家の建設に着手。
親友西郷と真向から対立しても、その信念を貫き通しました。
大久保は、1830年(天保元)下級役人ながら琉球館付役を勤め、学識豊かな利世としよ(子老)を父として高麗こうらい町で生まれ、まもなくこの下加治屋町したかじやまちに移りました。
3つ年上の西郷とは薩摩独特の郷中教育の中で、兄弟以上の信頼で結ばれていました。
15歳で記録所書役助かきやくすけとして出仕。
お由羅ゆら騒動では、父が遠島、利通も謹慎きんしんとなりどん底の暮らしを体験します。
その後、島津斉彬が藩主となり復活。
斉彬亡きあとも、藩の実権を握った久光に信頼され、精忠組のリーダーとして薩摩藩を倒幕の中心勢力に育て上げたのです。
西郷を嫌った久光を説得し、流刑るけい地から呼び戻したのも大久保の力だといわれています。

(説明板より)


贈右大臣大久保公哀悼碑



贈右大臣大久保公哀悼碑

(東京都千代田区紀尾井町・清水谷公園)





(平成18年2月25日)

千代田区指定有形文化財(歴史資料)
「贈右大臣ぞううだいじん大久保公哀悼あいとう碑」

指定 平成4年4月

明治11年(1878)5月14日朝、麹町こうじまち清水谷しみずだににおいて、赤坂御所ごしょへ出仕しゅっしする途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。
現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂きおいざかの変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三にしむらすてぞう・金井之恭かねいゆきやす・奈良原繁ならはらしげるら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治21年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。
「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27メートルにもなります。
石碑の材質は緑泥片岩りょくでいへんがん、台座の材質は、硬砂岩こうさがんと思われます。
「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一段面いちだんめんを後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇たたずんでいます。

平成5年3月
千代田区教育委員会

(説明板より)

大久保公記念碑の裏面碑文内容の説明

ここは、大久保利通公が命を落とされた場所です、大久保公は天下の重大事に身を投じ天皇陛下の信頼を得て重きをなした元勲げんくんです。
突然の暗殺という悲運に会い命を落としました。
昔から忠臣ちゅうしんや烈士れっしといわれる人々が犠牲の死に会うのは悲しいことですが、乱世や騒乱の常です。
大久保公は明治維新の功績で名を挙げ、国がこれから栄え平和を迎える時に、この災いに会ったのです。
大久保公の死は、都みやこの人達は勿論のこと天皇陛下も深く悲しまれました。
大久保公を知る人で、悲しまない人はありませんでした。
大久保公の悲しい凶変きょうへんから7年の年月が流れましたが、この地を通る人々は、今でも嘆なげき悲しみ頭こうべを垂れて行きつ戻りつ立ち去ろうとしません。
ここに、仕事で働く仲間達が皆で相談して、碑を建て大久保利通公への哀悼の意を示すことにしました。

(説明板より)

清水谷公園



清水谷公園
(東京都千代田区紀尾井町)





(平成18年2月25日)

清水谷公園の由来

清水谷公園のあるこの辺りは、江戸時代の紀伊家、井伊家の屋敷境にあり、この境が谷であったことと、紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、清水谷と呼ばれていました。
「清水谷公園」の名は、この地名から名付けられました。
清水谷公園は麹町区清水谷の景勝地に建てられていた大久保利通遭難記念敷地一帯が、同碑建設発起人から寄贈されたのを受け、東京市が、明治22年5月、都市計画決定し、明治23年3月に開園しました。
開園された当時は、自然の地形を残した背景と、藤、桜、松、楓などの四季折々の風情があり、花見の時期は賑わったようです。
現在の公園も緑豊かな木々があり、中央には、大久保公の追悼碑が配置され、この公園の歴史の尊さを感じさせるものになっています。
園内には、江戸時代の水道に使われていた玉川上水石枡が展示され、水にゆかりの深いところだったことを証明しています。
自然を色濃く残した清水谷公園は、周辺の業務・商業施設の安らぎの場として、また、緑豊かな都会のオアシスとして貴重なオープンスペースとなっています。

(説明板より)

説明板 (説明板より)

説明板 (説明板より)

紀尾井町きおいちょう

江戸時代の初期から、この界隈には大名屋敷が置かれていました。
安政3年(1856)の絵図にも見られるとおり、紀伊きい和歌山藩徳川家上屋敷かみやしき、尾張おわり名古屋藩徳川家中屋敷なかやしき、近江彦根おうみひこね藩井伊いい家中屋敷がありました。
紀尾井町の名前は、伊徳川・張徳川、彦根伊の三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられたものです。
また、紀尾井坂より南、弁慶べんけい橋あたりまでの低地は、清水がわき出ることから「清水谷しみずだに」と呼ばれていました。
これらの大名屋敷は、明治5年(1872)、新たに麹町こうじまち紀尾井町に生まれ変わり、明治11年(1878)、麹町区に所属します。
明治以降の紀尾井町は、政府用地、北白川宮きたしらかわのみや邸(のちの李王りおう邸、現・赤坂プリンスホテル)や伏見宮ふしみのみや邸(現・ホテルニューオータニ)、行政裁判所(現・城西大学)、尾張徳川邸(現・上智大学)などになりました。
明治7年(1874)、赤坂喰違くいちがい付近で岩倉具視いわくらともみが襲われ、同11年(1878)には清水谷前の道で、時の内務卿大久保利通が暗殺されました。
事件後、現場近くの地に大久保利通の哀悼碑が設置され、のちに整備されて清水谷公園となりました。
明治44年(1911)、町名変更により紀尾井町と改め、昭和9年(1934)、区画整理により北側の一部が麹町5丁目、麹町6丁目に編入されました。
江戸時代は大名の、昭和初期までは宮家の閑静な邸宅地であった紀尾井町は、現在、高級ホテルやオフィスビルが立ち並び、皇居、政治の中心地である永田町ながたちょう、外国使臣を迎える迎賓館げいひんかんなどに囲まれ、都心の中の憩いの場を提供しています。

(説明板より)


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