大隈重信銅像 平成12年5月5日

大隈重信 おおくま・しげのぶ

天保9年2月16日(1838年3月11日)〜大正11年(1922年)1月10日

佐賀市水ケ江2丁目の生家跡でお会いしました。


佐賀藩の知行400石取りの上士・大隈与一左衛門信保よいちざえもんのぶやすの長男。
弘化元年(1844年)6歳にして藩校・弘道館に入りますが、『葉隠はがくれ』中心の偏狭な学風に嫌気がさし、安政元年(1854年)国学者・枝吉神陽えだよし・しんよう主宰の勤皇結社『義祭同盟ぎさいどうめい』に加入。
しかし、翌年には藩校の学制改革を唱えて退学を命じられてしまいました。
これを機会に蘭学に転じて藩の蘭学寮に入り、更に長崎に遊学してアメリカ人宣教師・フルベッキのもとで英語を学び、オランダ憲法やアメリカ独立宣言の研究に励みました。
文久元年(1861年)23歳で弘道館の教授となり、藩主鍋島直政にオランダ憲法を進講します。
慶応3年(1867年)、29歳と時に徳川慶喜に大政奉還を勧めるため、副島種臣とともに脱藩して京都に行きますが、藩吏に捕まり佐賀に送り返され1ヶ月の謹慎を命じられました。
明治元年(1868年)、30歳で徴士として政府に召し出され、外国事務局判事となり、イギリス公使パークスと論争して名を上げます。
明治6年(1873年)35歳で大蔵卿に就任し42歳まで務めました。
翌年には国会開設問題で伊藤博文と対立、後に政変によって参議を辞任します。
翌明治15年(1882年)、44歳で立憲改進党を結成、また、東京専門学校(のちの早稲田大学)を開校しました。
明治21年(1888年)50歳のときに外務大臣になりますが、翌年、外相官邸前で玄洋社社員・来島恒喜に爆弾を投げられ右足を失いました。
明治29年(1896年)9月、58歳で再度外務大臣に就任するも翌年12月に辞任します。
明治31年(1898年)6月に憲政党を結成。第一次大隈内閣をつくります。しかし、11月には内閣は解散してしまいました。
明治40年(1907年)、69歳の時に早稲田大学総長に就任します。
大正3年(1914年)、76歳で第二次大隈内閣を組織します。
大正11年(1922年)1月10日死去、1月17日日比谷で国民葬が行われました。

(平成16年8月9日改訂)


大隈重信記念館 大隈記念館

佐賀県佐賀市水ケ江2−11−11

住宅街の中にあり、ちょっと目立ちません。
捜すのに苦労しました。

休館日:月曜日・国民の祝日の翌日・年末年始
入館料:大人300円、小人150円

(平成12年5月5日)

世界的政治家として、また早稲田大学の創設者として有名な大隈重信候の誕生125年を記念して、昭和41年11月、大隈記念館が落成しました。
設計は早稲田大学名誉教授・今井兼次博士の手になるもので、昭和42年10月、建設委員会から佐賀市に寄贈され会館にいたりました。
館内には大隈重信候にまつわる歴史資料が展示され、大隈重信候の生涯をイラストやビデオで解説しています。

(リーフレットより)

大隈重信旧宅



大隈重信旧宅(生家)

大隈重信記念館の敷地内にあります。



(平成12年5月5日)

史跡 大隈重信旧宅

この建物は今から200年ほど前の天明・寛政の頃建てられた禄高300石取りの建物と云われている。
最初は佐賀特有の凹型の屋根をもったクド造りの建物で、藁葺、木造の平屋であった。
大隈家は代々兵法家で、特に父信保は、荻野流砲術家として名声があり、禄高400石の石火野頭人(砲術長)であった。
幕末、長崎警備につき、砲台勤務で活躍した。
天保3年(1832)信保はこの家を買い取り同9年2月16日、この家で重信が誕生した。
重信が6歳のとき藩校弘道館に入学したが、母三井子の考えによって、勉強部屋が2階に増築され、これが今の家の中央部に位置している。
大正10年(1921)大隈重信生家保存会が設立されたとき、生家の管理人を居住させるため、東側のカマヤの部分を増改築して現在の姿になったものである。
昭和40年、明治の元勲大隈重信候の旧宅として、国の史跡として指定を受けた。

(説明板より)


弘道館記念碑



弘道館記念碑
(佐賀県佐賀市・徴古館の脇)





(平成20年11月24日)

藩校 弘道館

佐賀藩の藩校は「弘道館」(学館)といい、8代藩主鍋島治茂が1781(天明元)年に創設したもので、後に水戸・但馬と並んで天下三弘道館の一つと称されました。
松原小路1900坪の敷地に文武稽古場を建て、古賀精里(後の寛政の三博士の一人)を教授に朱子学を中心にした藩士教育を行い、人材の育成に努めました。
9代藩主鍋島斉直の時には、清里の子古賀穀堂が教授になり、「学制管見」を著し、10代藩主になる鍋島直正の侍講も勤めています。
10代鍋島直正は、1839(天保10)年に北堀端の現在地(ここは東端)5400坪に整備拡張し、弘道館・蒙養舎に七局六寮のほか大講堂・武芸場・厨房などを備え、学館予算も大幅に増額し、大規模な学校になりました。
また、藩士の子弟に限らず教育することにし、翌年6月の新築開講にあたり、「文武を励み、国家(藩)の御用に立つ様心掛くべし」と訓示されました。
学課は儒学・和学・漢学・兵学・筆道・習礼・算術・槍術・剣術・柔術・馬術・砲術・水練・蘭学(洋学を含む)、さらに洋式操練も加え、厳しく文武に研鑽を積ませています。
1855(安政2)年に始まる長崎海軍伝習には幕府の人数を上回る最多の48名を参加させ、海外の最新技術を学ばせています。
明治新政府で活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、佐野常民、江藤新平、島義勇などは皆弘道館の出身でした。
弘道館を中心とした徹底した教育による優秀な人材の育成が、幕末の佐賀藩が全国に先駆けて近代化を成し遂げる原動力になったと考えられます。
この記念碑は1923(大正12)年3月の建立で、題字は12代侯爵鍋島直映の揮毫、碑文は文学博士久米邦武の撰、中島雅明の書になるものです。

(説明板より)

弘道館跡



弘道館跡

(佐賀県佐賀市松原2−5−22・徴古館)





(平成20年11月24日)

「佐賀の七賢人」の碑



「佐賀の七賢人」の碑

(佐賀県佐賀市・佐嘉神社)





(平成20年11月24日)

佐賀の七賢人

鍋島直正公(1814〜1871)
肥前佐賀第10代藩主。
文化11年江戸藩邸に生まれ、幼名貞丸、のち斉正、直正という。
号は閑叟。
天保元年家督相続。
藩財政の改革、長崎警備に力をつくし、科学をとりいれ、鋳砲建艦に努力して海軍の基礎をつくった。
公武合体派であったが、幕末の政局では自重し、明治政府内では軍防事務局次官・北海道開拓使長官をつとめた。
明治4年没。
年58。
正二位をおくられ、のち従一位となる。

大隈重信(1838〜1922)
天保9年、佐賀藩士、大隈信保(鉄砲組頭)の子として生まれ、弘道館に学び義祭同盟に参加した。
長崎で英語を学び、明治政府の徴士となって外交・財政に活躍。
のち改進党を組織し、藩閥政府と抗争した。
また早稲田大学の前身、東京専門学校を創立。
のち、外務大臣、農商務大臣、総理大臣などを歴任、政治・文化に功績があった。
大正11年没。
年85。
従一位をおくられた。

江藤新平(1834〜1874)
天保5年生まれ。
名は胤雄、号は南白。
弘道館に学び義祭同盟に参加。
維新時、大木とともに東京遷都を建白。
また明治政府内で、立法・制度において偉大な功績があり、とくに司法卿として司法制度の基礎を作った。
明治6年参議となる。
征韓論争で破れ、佐賀県士族におされて憂国党と組み佐賀の役で戦ったが敗北、逃れて四国で捕われ明治7年非道にも処刑された。
年41。

大木喬任(1832〜1899)
天保3年佐賀藩士大木知喬の長子として生まれ、通称幡六、のち民平と改めた。
弘道館に学び義祭同盟に参加。
明治新政府以後、東京府知事・民部卿・文部卿・司法卿を歴任。
3回にわたる文部大臣として学制・学校令・教育勅語などの教育体制の整備に尽力した。
元老院・枢密院両議長を歴任し、明治国家の確立に努力した。
常に開明的な立場から圧迫をうけながらも終始儒教主義をおしとおした。
明治32年没。
年68。

佐野常民(1822〜1902)
文政5年佐賀藩士下村充武贇の五男に生まれ、11歳で藩医佐野常徴の養子となる。
弘道館で学び、医学を緒方洪庵のもとで研修、のち藩士に物理・化学を教えた。
幕末国産最初の蒸気機関車模型製作や佐賀藩初のアームストロング砲の試作に尽力した。
慶応3年パリ大博覧会に藩命をうけて渡仏、帰国後、海軍創設につくし、大蔵卿・元老院議長・農商務大臣などを歴任した。
明治10年西南戦争のとき博愛社(日本赤十字社)を創設して社長となる。
明治35年没。
年81。

島 義勇(1822〜1874)
文政5年生まれ。
通称団右衛門、字は国華、楽斎と号した。
枝吉神陽に学び、藤田東湖と交友があった。
安政年間から蝦夷・樺太を巡見、明治2年開拓使主席判官として札幌を中心に北海道開拓にのりだした。
のち侍従・秋田県令などをつとめ、征韓論分裂のころ、旧藩の憂国党に推されて領袖となり、征韓党とともに佐賀の役で戦った。
明治7年非道にも処刑された。
年53。

副島種臣(1828〜1905)
文政11年、佐賀藩士枝吉忠左衛門(南濠)の二男として生まれ、副島家の養子となる。
幼名龍種、号は蒼海または一々学人。
父および兄、枝吉神陽の感化をうけ尊攘論に傾く。
弘道館の国学教授をつとめ長崎で英学を学び、開国論に転じた。
参議・外務卿として対支那外交の第一人者。
マリアルーズ号事件を解決、征韓論争で下野し、清国に■■、のち侍講宮中顧問官・内務大臣などを歴任した。
明治38年没。
年78。

(碑文より)

 (石碑の写真より)

佐嘉神社



佐嘉神社
(佐賀県佐賀市松原2−10)





(平成20年11月24日)

明治十四年の政変

明治11年(1878年)5月、大久保利通が暗殺された後、財政方面の知識と経験において政府部内に彼に及ぶものはなく、また民間に大きな勢力を持つ福沢諭吉などと気脈を通じ急進論者として声望が高かった。
大隈は外務・大蔵・司法・農商務の4省を監督し、参議の中でも最も有力な地位を占めていた上、国会開設準備のために設けられた統計院には大隈が総裁になる予定で、各方面から俊才を集めていた。
その後、薩長連合の陰謀により、政府部内で大隈参議排斥問題が表面化し、大隈は退官。
少しでも大隈派と見られたものは一人残らず退陣を余儀なくされた。
この政変は、近代政治史上征韓論における板垣退助西郷隆盛らの退陣に匹敵する大事件とされている。
しかし、大隈の辞職は、大望の国会開設の時期を明示(10年後)するという置き土産を残し、大隈一派は政府が恐れるような策謀も企てなかったので、この政変は政治的意味が大きかった割には平穏であった。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月7日追記)


立憲改進党

立憲改進党は、「明治14年の政変」によって政府を追われた大隈重信を中心に結成された党で、結党当時のメンバーには、矢野文雄(龍渓)、犬養毅、前島密、鳩山和夫、島田三郎らの著名人がいました。

(参考:礫川全次 著 『独学で歴史家になる方法』 日本実業出版社 2018年初版発行)

(令和2年1月13日 追記)


【改進党】

明治15年3月15日、大隈重信を総理とする改進党が結成される。
最高幹部は河野敏鎌・北畠治房・前島密の3名。
その下に、沼田守一・矢野文雄・牟田口元学・青木義彰・小野梓の5名がおり、党の中枢部はこれらの人々に占められた。
更にその下に、藤田茂吉・犬養毅・島田三郎・尾崎行雄らがおり、彼等は第一線の活動の中心となった。
改進党は「郵便報知」を買収し党の機関紙「報知新聞」としたが、政府は集会条例の改定、新聞紙条例の発布、出版条例の改定公布などの弾圧をおこない、報知新聞はしばしば発行停止を命じられ、発行部数が減少した。
このように政府は在野党機関紙に発行停止を命じて、その間にその購読者に御用新聞を配布したため、政党機関紙は凋落していった。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月7日追記)

大隈重信像 平成18年1月25日

東京都新宿区大久保3丁目・早稲田大学大久保キャンパスでお会いしました。

大隈重信像



大隈重信像
(早稲田大学大久保キャンパス)





(平成18年1月25日)

教旨

早稲田大学は学問の獨立を全うし学問の活用を効し模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す
早稲田大学は学問の獨立本旨と為すを以て之か自由討究を主とし常に獨創の研鑽に力め以て世界の学問に裨補せん事を期す
早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て学理を学理として研究すると共に之を實際に應用するの道を講し以て時世の進運に資せん事を期す
早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て個性を尊重し身家を發達し國家社會を利済し併せて廣く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す

(碑文より)


早稲田大学

明治15年(1882年)、大隈重信によって『東京専門学校』として出発。
佐賀藩出身の大隈重信を政治陰謀で失脚させた薩長政府は、東京専門学校を、大隈が政治力挽回のために作った「謀反者養成所」とみなして、ことあるごとに取り潰しを図った。
しかし、大隈はこの学校を政治手段としては用いず、終始一貫「学問の独立」を標榜した。
学問は政府、政党から独立し、学問自身の力で推し進められるべし。
一切の学問は日本語を主とし、外国語を補とすべし。
官学や他の私学(慶応義塾)などが外国語一辺倒の時に、「一身独立、一国独立」を打ち出す。
この考え方は大隈の信奉するところでもあった。
明治35年(1902年)、大学部を置き、このときに『早稲田大学』と改称した。

また、慶応を出て身を持て余していた俊才(犬養毅、尾崎行雄、矢野龍渓ら)を大隈が福沢諭吉から譲り受け、一流の人物に仕立てたという。

『早稲田大学』の名が広く知られるようになると、早大生を騙って下宿代を払わないような輩が出てきた。
この「ニセ早大生」対策として、大隈は馬場下に店を出していた洋服屋の主人を呼び、「ニセ学生がまね出来ないような世界で唯一の帽子を作ってほしい」と注文をつけた。
洋服屋の主人は工夫を重ね、角ばってひさしのついた独特の帽子を作った。
『早稲田の角帽』の起こりは、ニセ早大生と本物の早大生を判別するために作られたのだという。

参考:『歴史街道 2001年5月号』

(平成18年2月17日追記)

大隈重信像 平成18年3月11日

東京都新宿区西早稲田1丁目・早稲田大学構内でお会いしました。

大隈重信銅像



大隈重信銅像
(早稲田大学)





(平成18年3月11日)

新宿区指定有形文化財 彫刻
大隈重信銅像

所在地 新宿区西早稲田1丁目6番地
指定年月日 昭和62年3月12日

早稲田大学の前身東京専門学校の創立者で、早稲田大学の初代総長をつとめた大隈重信(1838〜1922)の銅像である。
早稲田大学創立50周年を記念して、昭和7年(1932)10月に完成したもので、鋳造・彫塑は朝倉文夫(1883〜1964)の作、桜花崗岩製の台石は桐山均一の手になるものである。
像高は2.89メートル、台石の高さは2.12メートルで、角帽にガウンを着た早稲田大学総長の姿をした、晩年の大隈重信を見事に表現している。
なお、朝倉は都合3回(芝公園・大正5年、国会議事堂内中央広場・昭和13年)大隈重信像を製作しており、この早稲田大学の像は、2回目にあたるものである。

平成3年11月
東京都新宿区教育委員会

(説明板より)

旧守衛詰所



旧大隈重信邸・守衛詰所

(早稲田大学構内・大学総合案内所)





(平成18年3月11日)

早稲田大学総合案内

この建物は、戦争によって全焼した旧大隈重信邸(明治35年竣工)の唯一の現存遺構であり、当時は守衛詰所として用いられていたものである。
建物は木造一階建ての簡素な造りであるが、ハーフ・ティンバーの外観、妻飾りのハンマー・ビームやがらり窓等が印象的である。
小規模ながら、旧東京専門学校校舎(グリーンハウス・現在は追分セミナーハウスに移築)と並んで、木造校舎時代の雰囲気を伝える貴重な建築物である。

(説明板より)


隈板わいはん内閣

世間では『憲政内閣』と呼び、我が国最初の政党内閣。
明治31年(1898年)、伊藤内閣と手を切った自由党(板垣退助)と野党の改進党以下民党6派が解党して結成された進歩党(大隈重信)が合同して憲政党(大隈重信)が結成された。
伊藤博文(第3次伊藤内閣)は一大政党の憲政党に対して、自ら政党を組織する以外に政権の維持は出来ないとして政党組織を図ったが、山県有朋らに妨げられ辞表を出し辞職。
大隈、板垣の両名に組閣の大命が下り、明治31年6月30日、大隈が首相兼外相、板垣が内相に就任した。
憲政党では薩長藩閥の打倒という共通目標はあったが、主義主張・政策面では旧自由派・旧進歩派の間に意見の対立があった。
たとえば、旧自由派は鉄道の国営を主張したが、旧進歩派は反対。
旧進歩派は警視庁の廃止を唱えたが、旧自由派はこれに不賛成。

8月14日の第6回総選挙で憲政党は圧倒的勝利を博したが、内部抗争は更に悪化し猟官運動も露骨となった。
特に目立ったのは大隈が兼任していた外相の椅子を狙った旧進歩派の鳩山和夫と旧自由派の星亨の運動。
外相の椅子に座れないと知った星亨は内閣破壊の猛運動をする。
文相の尾崎行雄が「共和演説」問題で辞任。
その後任問題で閣内に激論が起こり、旧自由派は星亨と江原素六を挙げたが、旧進歩派は自派の閣員が辞めたのだから後任は自派から出すとして譲らない。
結局、大隈が後任に犬養を推薦して収めたが、これに対して旧自由派の星亨らは、旧自由派党員のみで解党の強硬手段に訴え、解党、即、新政党を結党して『憲政党』と名付けた。
旧進歩派はこの解党決議を否認して、依然憲政党を名乗ったため一時期憲政党が2つ並立することとなる。
間もなく板垣内相から禁止通告を受け、旧進歩派は『憲政本党』と改称した。
板垣内相、松田正久蔵相、林有造逓相が辞任。
大隈は旧進歩派だけで内閣改造をすることを考えたが、陛下がこれを許さないと悟り10月31日に総辞職した。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月7日追記)


大隈重信の墓



従一位大勲位公爵大隈重信墓
(東京都文京区大塚5丁目 護国寺





(平成15年12月22日)

大隈重信の墓



大隈重信の墓
(佐賀県佐賀市・龍泰寺)





(平成20年11月24日)

大隈重信の墓
(生没年:1838〜1922)

大隈重信は、佐賀藩士大隈信保のぶやすの長男として佐賀城下会所小路かいしょこうじで生まれました。
幼名を八太郎はちたろうといい知的好奇心旺盛な青少年時代を過ごしました。
後に世界に目を開き、長崎で英学を学ぶために致遠館ちえんかんを副島種臣と設けて、アメリカ人宣教師フルベッキに学びました。
明治政府では参議となり、財政、鉄道・電信建設業に尽力しました。
明治14年(1881)には、岩倉具視や伊藤博文、井上馨らと対立し政府を去り、翌年立憲改進党を組織し、国会の早期開設を求めました。
また、東京専門学校(後の早稲田大学)を創設し人材の育成に努めました。
明治21年(1888)には、政界に復帰し外務大臣に就任。
明治31年(1898)と大正3年(1914)には、内閣総理大臣を務めました。
大正11年(1922)逝去せいきょ、国民葬が行われました。
墓はこの龍泰寺りゅうたいじと東京の護国寺にあります。

佐賀市

(説明板より)

大隈重信 (説明板より)

龍泰寺



龍泰寺
(佐賀県佐賀市赤松町2−4)





(平成20年11月24日)



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