大野伴睦 おおの・ばんぼく

明治23年(1890年)9月20日〜昭和39年(1964年)5月29日


岐阜県出身。
明治大学中退。
昭和5年(1930年)衆議院に初当選。
太平洋戦争中、翼賛議員団に反対し、昭和17年(1942年)翼賛選挙に非推薦で立候補するが落選。
戦後の昭和21年(1946年)4月、衆議院議員に復帰。
昭和23年(1948年)9月、昭和電工事件で逮捕される。
昭和30年(1955年)11月の自民党結党には民主党の三木武吉と中心的役割を果たし、共に総裁代行委員となる。
昭和37年(1962年)池田勇人はやと首相の親書を携え訪韓し、日韓国交回復に尽力した。
昭和39年(1964年)73歳で没す。


句碑

大野伴睦の句碑
(岐阜県・岐阜護国神社



(平成19年4月3日)

大野伴睦先生略歴

先生は明治23年岐阜県山県郡谷合村に生まれ 生来豪放闊達 大志をいだいて上京し 後の首相原敬 鳩山一郎両先生の知遇を得 政界に進出することとなり 後に衆議院議長 国務大臣 自由民主党副総裁などを歴任し 政界の重鎮となった
永年の政治活動においては常に指導的役割を演じ その間 新時代の要請たる保守党の大同団結を実現されたことは日本政治史上特筆すべきである
青年時代から侠気と情熱にあふれ 義理人情に厚く 他面ユーモアを解し 囲碁 俳句をよくし 虎に関する収集などいずれも政界の第一人者として知られている
特に第二次大戦の犠牲者たる軍人遺族の援護については諸種の悪条件を克服し その実績をあげるために全力を傾注されている
下記両団体は先生の多年のご偉業に報いるため 句碑をたて 永く記念することとした

昭和38年3月     岐阜県知事 松野幸泰 撰文
財団法人日本遺族会 岐阜県遺族連合会建之

(銘板より)


大野万木句碑


大野万木句碑
(神奈川県鎌倉市・長谷寺)

『観音の慈顔尊し春の雨』



(平成18年9月24日)

大野万木句碑

大政治家・衆議院議長・国務大臣
大野伴睦は俳句作家万木でもあり慈悲の権化観世音菩薩の敬虔な信者
没後信者有志により境内に選句し句碑を建立

(説明板より)

長谷寺



長谷寺
(神奈川県鎌倉市長谷3−11−2)




(平成18年9月24日)

由緒

当山は正式な名称を「海光山慈照院長谷寺」と号し、伝来する縁起に曰く、その開創は聖武天皇の御代にあたる天平8年(736)という鎌倉でも有数の古刹であります。
開山徳道上人。
開基は藤原鎌足の孫にあたる藤原房前。
本尊である十一面観世音菩薩は、養老5年(721)に徳道上人の本願によって、1本の楠の霊木から刻出された2体の観音像のうちの一つといわれ(残る1体は大和の長谷寺の本尊となる)、開眼供養の導師を務めた行基菩薩によって衆生済度の願が込められ海中に投じられたといいます。
その後、相州長井浦に流れ着いた尊像は鎌倉に遷座され、当山創建の礎となったということです。
古来より坂東三十三観音の第4番霊場として民衆の信仰をあつめ、「長谷観音」の通称で親しまれる尊像は総高9.18米あり、本邦でも最大級の木造観音といわれます。

■開門時間
夏時間(3月〜9月) 午前8時〜午後5時半
冬時間(10月〜2月) 午前8時〜午後4時半
■宝物館
月曜休館(祝祭日は開館)
■交通案内
江ノ電・長谷駅下車、徒歩5分
■駐車場あり

■入山料:大人 300円

(入山券の説明文より)


昭和電工疑獄事件

大野伴睦の容疑は昭電幹部から「当社にやましい点はないから、そのことを各方面に徹底させて欲しい」と頼まれ20万円をもらった、というものだった。
大野は京都の旅館の奥座敷で入口にふとんを高く積み上げて隠れていたところを踏み込んできた捜査官に逮捕された。

(参考:山本祐司著『東京地検特捜部〜日本最強の捜査機関・その光と影』現代評論社・1980年初版)

(平成21年1月23日追記)


総裁選

“60年安保騒動”(1960年6月)が混乱のうちに終結し、岸信介きしのぶすけ首相が退陣を表明。
昭和35年(1960年)7月13日、サンケイ・ホールで自民党の次期総裁を決める総裁選挙が行われることになっていた。
後継の総裁候補として池田勇人いけだはやと、大野伴睦、石井光次郎いしいみつじろうの三者が名乗りをあげ、候補一本化の話し合いが持たれたが不調に終った。
さらに松村謙三まつむらけんぞう、藤山愛一郎ふじやまあいいちろうが立候補を表明、党内情勢混乱のまま総裁選に突入するという雲行きであった。
もっとも優勢だったのは池田勇人。
池田派、佐藤派と岸派の大半を味方につけたといわれ、官僚派の代表として出馬した格好。
一方、党の副総裁であった大野伴睦は、官僚政治打破、党人派の糾合を標榜し、幹事長の川島正次郎かわしましょうじろうを「党人派連合」の総参謀に据えて票集めの作戦を練っていた。
7月12日夜11時に赤坂のホテルニュージャパンの大野事務所で行われた記者会見では、伴睦は「決して戦えば断じて勝つということじゃ」と赤い鼻をこすり上げて上機嫌、天下取り目前の表情だった。
ところが、翌13日朝6時、「大野が立候補を取りやめたらしい」という情報が流れる。
大野派作戦本部の部屋から大野と水田三喜男みずたみきおら大野派の幹部といわれる人々が「オイオイ」と声をあげ、泣きながら出てきた。
ついで、河野一郎こうのいちろう(大野の盟友)、永田雅一ながたまさいち(大映社長)、萩原吉太郎はぎわらきちたろう(北海道炭礦汽船社長)が出てきた。
河野は、なにやらブツブツわめきながら怒っていた。
最後に川島幹事長が姿を現した。
「何か異変でも・・・」の問いに「連合戦線異状ありってとこかなあ」とニヤッと笑い、ヒョウヒョウと口笛を吹いた。

このあと、大野伴睦が記者会見し経緯を明らかにした。
「昨夜までは、第1回投票で池田、大野、石井の順、いずれも票数は過半数割れで、池田、大野の1位、2位決戦となり、大野・石井連合の勝利という票読みだった。ところが、13日未明、石井派から連絡が入り、衆議院の石井派が池田派に切り崩され、池田、大野の決戦となったとき、石井派で大野支持にまとめられるのは、せいぜい25票程度。党人派2位、3位連合の勝利はおぼつかないといってきた。川島君に来てもらって党人派勝利の作戦を練り直した。私が立候補をやめて、党人派を石井で一本化する以外にないという結論になった。“志士仁人ししじんじんは身を殺して仁をなす”、立候補断念は、究極、次善の判断じゃった」
さらに伴睦は、ここまでに立候補した背景として、“岸首相のお墨付き”と政界で騒がれていた内幕の真相を、テレビ生放送のカメラの放列の場で暴露した。
「昭和34年1月、警職法改正問題が行き詰って、池田、三木、灘尾の三閣僚が辞任し、岸内閣は“野たれ死に”寸前の窮地に立った。同月のある夜、帝国ホテル新館『光琳の間』に、岸、大野、河野、岸の実弟・佐藤栄作さとうえいさく、それに、岸、河野の仲の良い友人ということで永田雅一、萩原吉太郎、児玉誉士夫こだまよしおの三君が加わって会談した。岸は、両手をついて頭を下げ、『大野さん、岸内閣を救ってくれ。安保改定が終ったら退陣します。後継には大野さんを推します。力を貸して下さい』と、自ら筆をとって大野総理実現の誓約書をしたためた。この文書には、岸、大野、河野、佐藤の4人が連署し、北炭の萩原君が保管している。しかし、今回、岸は大野支持に岸派をまとめてくれなかった。空手形だったわけじゃ。“政権移譲”という岸の甘言に幻惑されて、ガラにもない総裁選立候補を思い立ったワシが愚かじゃった」
政界ナンバーツー、天下の副総裁が公開の場で、声を上げて号泣した。
権謀術数の坩堝るつぼといわれる政界の中枢部に、天衣無縫てんいむほう、天真爛漫てんしんらんまんの老人がいた。

誓約書問題
萩原吉太郎の著書『一財界人、書き留め置き候』(講談社)によれば・・・・
「この誓約書は岸さんが自ら筆をとって『誓約書、昭和34年1月16日、萩原、永田、児玉、三君立会の下に於いて申合わせたる件については協力一致実現を期すること。右誓約する』と書き、その証文の筆頭に署名し、以下大野さん、河野さん、佐藤さんの順序で連署した。4氏が相談して、この誓約書を私が保管することとなった。文面では何を申し合わせたか判らぬように書かれているが、『安保改定まで岸内閣を支持してくれ』と岸さんと佐藤さんが懇請し、『安保改定後は自分は直ちに引退する。その時は大野さんの総理実現に協力する』との話であった」

(参考:楠田實 編著 『産経新聞政治部秘史』 20001年第一刷 講談社)

(平成24年1月6日追記)


【米国による大野伴睦の評価】

大野伴睦は、衆議院議長や自民党副総裁を務めた大物政治家。
明治大学を中退し、政友会の「院外団」に所属し、鳩山一郎の直系として、東京市議から衆院議員に当選。
戦前戦後を合わせて当選計13回を数えた。
戦後、日本自由党の創設に参加。
昭和電工事件で収賄罪に問われたが、最高裁で無罪が確定した。
「警職法」をめぐり自民党内が混乱した1959年(昭和34年)1月、右翼の児玉誉士夫らの調停で、岸信介首相と「次期首相は大野」と暗に申し合わせた誓約書を交わしたが、結局、この約束は反故にされた。

連合国軍総司令部(GHQ)参謀第2部(G2)の大野評はきわめて手厳しい。
1952年4月3日付の「大野ファイル」は、「院外団」出身の大野について、「長い政治的経歴で、主として国会での乱闘騒ぎで武勇伝があり、党指導部に忠実な、信頼できるメンバーとして知られている」と紹介している。
コメントの項では、「インテリが見下げるタイプの人物。実際、それほど聡明ではないとみられる。いくつかのスキャンダルでも名前が出た。昭和電工事件以外には裁判にかけられたことはないが、人的関係がルーズなので、こうしたうわさが出る」と手厳しい。
さらに、性格的にも、「非常に感情的で、すぐ興奮するので敵をつくりやすい。現農相の広川弘禅ひろかわこうぜんとの長い対立関係は有名だ。大野はまた、犬養健いぬかいたける法相を感情的に嫌っている」と指摘。
一方、「個人としては非常に温かい心の持ち主。面倒見がよく、子分は必要なら大野のために死んでもよいと思うほどだという。後援者にはきわめて忠実で、鳩山一郎への献身ぶりでは並ぶ者がいない」と誉めてもいる。
G2は、こうした冷徹な大野評価をしながら、その大野を情報源に、自由党の内部情報を入手してる。

(参考:春名幹男 著 『秘密のファイル(下)−CIAの対日工作』 2000年第1刷 共同通信社)

(平成27年7月4日・追記)


【その死】

日韓国交正常化が成る1年前の1964年5月29日、大野伴睦は心筋梗塞で急死した。

(参考:有馬哲夫 著 『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』 文春新書 2013年2月 第1刷発行)

(令和2年5月2日 追記)


大野伴睦の墓

大野伴睦の墓

(東京都大田区池上1−1−1・池上本門寺)



(平成20年5月19日)



トップへ トップページに戻る  戻る 人物と史跡のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送