大阪城 おおさかじょう

大阪府大阪市中央区大阪城1番1号


大阪城天守閣 平成20年6月17日

大阪城の歴史

織田信長に抗していた大坂(石山)本願寺の跡地を手に入れた豊臣秀吉は、全国統一の本拠地をこの地大坂と定め、天正11年(1583)、雄大極まりない大坂城の建築に着手した。
完成に約15年を要したその規模は、面積が現在の4〜5倍という広大なもので、本丸中央には金色に輝く天守がそびえていた。
しかし、慶長20年(1615)、大坂夏の陣で豊臣家滅亡とともに大坂城はすべて焼失してしまった。
江戸時代に入って元和6年(1620)、徳川幕府は大坂城の再建にのり出した。
10年の歳月と幕府の威信をかけて再建された大坂城は、全域にわたる大規模な盛土と石垣の積み上げ、堀の掘り下げが行われ、天守閣も15m高くなるなど、豊臣秀吉が建築したものとは全く異なったものとなった。
しかし、この天守閣も寛文5年(1665)の落雷で焼失したまま再建されず、その他建物も、大手門や多聞櫓などの一部を残して明治維新(1868)の際の動乱で焼失してしまった。
昭和6年(1931)、当時の市長関一せきはじめの提案と市民の募金により天守閣の再建が行われた。
太平洋戦争の空襲によりいくつかの建物が焼失し、天守閣も一部被害を受けたが、戦後の全域の公園化と、昭和28年から44年にかけて行われた櫓・蔵などの修復、そして昭和6年当時の天守閣の姿をよみがえらせるために平成7〜9年に行われた「平成の大改修」により今日みられるような姿となったのである。

(大阪市ゆとりとみどりの振興局『大阪城の櫓・蔵』パンフレットより)

大手門と千貫櫓 大手門・多聞櫓・千貫櫓

大手門




大手門






(平成20年6月17日)

重要文化財 大手門

城の入口は表側を大手口、裏側を搦手口という。
大坂城には大手口に大手門(幕末まで追手門とも称した)、搦手口は東に玉造門、西北に京橋門、北に青屋門を備えていた。
創建は元和6年(1620年)で天明3年(1783年)に落雷によって破損し、現在のものは嘉永元年(1848年)に大掛りな補修をしたものである。
門を入った溜り場を枡形という。

■構造形式/高麗門、本瓦葺、柱真々5.26m
■昭和42年解体修理

(説明板より)

大手門枡形の巨石




大手門枡形の巨石





(平成20年6月17日)

大手門枡形の巨石

大手門枡形は、大坂城の正門の防御施設として、特に立派な石垣で築かれている。
大手門正面の見付石は表面積およそ29畳敷(48u)、推定重量108tもあり城内第4位の巨石である。
また、左手の巨石はおよそ23畳敷(38u)、85tで第5位にあたる。
これらの巨石はいずれも、豊臣時代のものではなく、徳川時代の大坂城再築の時に、瀬戸内海の島々から運ばれてきたものである。
担当大名は、最初は熊本藩主加藤忠広でのちに久留米藩主有馬豊氏が築き直した。

(説明板より)

多聞櫓




多聞櫓





(平成20年6月17日)

重要文化財 多聞櫓たもんやぐら

大手門枡形の石垣の上に建ち、二の丸への出入り口となる大門を組み込んだ構造をしている。
この櫓は頭上に槍落としの装置があり、出窓を構え、矩折に続櫓が附設されている。
多聞櫓の名称の由来については諸説があるが、一般には松永久秀が大和国(今の奈良県)多聞城で初めて築いた様式とされ、塁上に築く長屋状の櫓をさす。
この櫓は現存する櫓中、最大の遺構である。
寛永5年(1628年)に創建され、天明3年(1783年)に落雷で焼失し、嘉永元年(1848年)に再建された。

■構造形式/矩折一重一部楼門構え本瓦葺
■面積 600.45u
■昭和44年解体修理

(説明板より)

太鼓櫓跡




太鼓櫓跡





(平成20年6月17日)

太鼓櫓跡

ここは、もと二の丸南部への出入口にあたり、左右の石垣の間に南仕切門と呼ばれる城門があった。
右側の石垣の上に太鼓を蔵する小さな二層櫓があり太鼓櫓と呼ばれていた。
創建は寛永5年(1628年)である。
この太鼓は平時には時刻を知らせ、戦時には将士の召集や出陣の合図に打ち鳴らされた。
明治元年(1868年)の城中大火で焼失した。

(説明板より)

石山本願寺推定地




石山本願寺推定地





(平成20年6月17日)

石山本願寺推定地

明応5年(1496)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。
これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現れる初例である。
『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。
その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。
この造営が現在の大阪の町並の原形となったと考えられる。
その後十一世蓮如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。
この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。
さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。
このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。

大阪市教育委員会

(説明板より)

六番櫓

重要文化財 六番櫓

二の丸南側を固める隅櫓の一つである六番櫓は一番櫓と構造形式がほとんど等しく濠側に石落しを2ヶ所設け窓腰狭間、石狭間も多く開いて堅固な構えをなし、窓の内側には障子を建てて内室を画し、居住構えが完備している。
創建は寛永5年(1628年)で、天保年間(1830年代)に大修理を経て今に残ったものである。

■構造形式/二重二階本瓦葺
■面積/一階217.21u 二階138.68u 延355.89u
■昭和41年解体修理

(説明板より)

一番櫓

重要文化財 一番櫓

南外堀に面して二の丸南面隅櫓7棟のうち一番東に位置しているのでこの名がある。
玉造門を側面から防御する役目をもつ。
もとは乾櫓と同様の総二階造りであったらしいが、寛文8年(1668)大改造され現在の姿となった。
昭和40年(1965)解体修理。

(大阪市ゆとりとみどりの振興局『大阪城の櫓・蔵』パンフレットより)

青屋門




青屋門





(平成20年6月17日)

青屋門

大坂城の非常口とも言うべき門で、徳川時代の元和6年(1620年)頃創建され、算盤橋と称する引橋(押出し、引入れ自在の装置)が架かっていた。
この門は、昭和20年(1945年)8月に大空襲の被害にあい大破したが、昭和45年(1970年)に大阪市が残材をもって現状のものに復元した。
青屋門の名称の由来は大坂本願寺時代、この門外付近に青屋町があったことによるものと推定されている。

(説明板より)

極楽橋 極楽橋

極楽橋

山里丸と二の丸をむすぶ橋で、もとは幅3mの木造橋であった。
徳川時代の寛永3年(1626年)に創建されたが、明治維新の城中大火(1868年)の際焼け落ち、そのままになっていた。
その後昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート造りで復興された。
この橋の名称の由来は、大坂本願寺時代(16世紀)にまでさかのぼると推定されており、「豊臣時代大坂城本丸図」にもこのあたりに木造橋が描かれている。
昭和58年(1983年)、橋の高欄と橋面修理が行われた。

(説明板より)

伏見櫓跡




伏見櫓跡





(平成20年6月17日)

伏見櫓跡

徳川大坂城の二の丸に建っていた櫓の内、唯一3階だった櫓で(他の櫓は全て2層)、伏見城からの移築と伝える。
付近の街道からのぞむ優美な姿が江戸時代以来親しまれ、明治維新の大火でも類焼をまぬがれたが、昭和20年(1945)の空襲で全焼した。

(説明板より)

京橋口




京橋口





(平成20年6月17日)

京橋口

大阪城の西北の出入口。
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた。
戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、枡形ますがたには大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した。

(説明板より)

京橋口枡形の巨石




京橋口枡形の巨石






(平成20年6月17日)

京橋口枡形の巨石

京橋口枡形の内、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷(54.17平方メートル)にもなる城内第2の巨石「肥後石」である。
築城の名手加藤肥後守清正ひごのかみきよまさが運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。
肥後石の左手が京橋口二番石で、表面積が畳22畳敷(36.00平方メートル)の、城内第7位の巨石である。

(説明板より)

 平成20年6月17日

桜門




桜門





(平成20年6月17日)

重要文化財 桜門さくらもん

豊臣時代にも本丸の正門は桜門と呼ばれていた。
桜の馬場という地名も知られている。
おそらく、この付近に桜の並木があったと思われる。
桜門は、徳川時代の本丸再築の寛永3年(1626年)に築かれたが、明治維新の城中大火(1868年)で焼失した。
現在のものはその後明治20年(1887年)に再築されたものである。
なお、門の両側の塀は明治維新のとき焼失したままになっていたものを、昭和44年(1969年)の桜門修理の際、復元されたものである。

■構造形式/高麗門本瓦葺、柱真々5.15m
■昭和44年解体修理

(説明板より)

空掘




空掘





(平成20年6月17日)

空堀からほり

本丸を囲む内堀は、東から北、さらに西にかけて水堀となっているのに対し、南とそれに続く西にかけては水のない空堀となっている。
ここは寛永元年(1624)、徳川幕府による大坂城再築工事の際に築かれたもので、当初から空堀であった。
これに先立つ豊臣秀吉築造の大坂城でも本丸の南は空堀となっており、大坂の陣で徳川方が埋めたわけではない。
なぜここだけ空堀にしたのかは不明である。

(説明板より)

桜門枡形の巨石




桜門枡形の巨石





(平成20年6月17日)

桜門枡形の巨石

本丸の正門を守る重要な枡形で、特に立派な巨石が用いられている。
桜門枡形にも大手口と同様、多聞櫓があったが、明治元年(1868年)の城中大火の際に焼失してしまった。
この枡形の築造は寛永元年(1624年)岡山藩主池田忠雄(姫路の池田輝政の三男)が担当したもので、備前(岡山県)産の良質花崗岩が用いられている。
正面の石は蛸石と呼ばれる城内第1位の巨石で、およそ36畳敷(60u)推定重量130tもあり、左側のは振袖石といい、およそ33畳敷(54u)120tで城内第3位の巨石である。

(説明板より)

銀明水井戸の井筒




銀明水井戸の井筒





(平成20年6月17日)

銀明水ぎんめいすい井戸の井筒

この井筒は、現在の市立博物館裏北隅にあたる、本丸御殿下台所裏にあった銀明水井戸の井筒を昭和6年(1931年)の天守閣再建にあたって、敷石とともにそのままこの地に移して飲料水井筒としたもので、水は水道水を使用している。
名前の由来ははっきりしないが、本丸内の金明水に対してこの名がつけられたものと推定されている。

(説明板より)

金蔵




金蔵





(平成20年6月17日)

重要文化財 金蔵きんぞう

金蔵は『かなぐら』とも呼び、普通は御金蔵といわれている。
徳川時代、幕府の金貨、銀貨を保管した土蔵で、大金庫の役割を果たした。
寛永3年(1626年)に創建されたが、当初二階建てであったものが、天保14年(1843年)に現在の一階建てに改造された。
内部は板張りで大小2室からなっている。
火災と盗難防止に特に工夫がこらされ、床板の下は厚い石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造、小さな窓は土戸と鉄格子、床下の換気窓も鉄の二重戸となっている。

■構造形式/土蔵造一重寄棟造本瓦葺
■面積 81.14u
■昭和35年解体修理

(説明板より)

本丸御殿跡

本丸御殿跡

城の中心部を本丸といい、大坂城の本丸には天守のほか、政治を行うための御殿があった。
豊臣時代の本丸御殿は大坂の陣で焼失し、その後、徳川幕府によって本丸に盛土をほどこし再び築かれた。
幕末には14代将軍徳川家茂いえもちが長州戦争の指揮をとるなど、重要な歴史の舞台にもなっている。
慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の動乱の中で全焼し、明治18年、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移されたが(紀州御殿)、これも昭和22年(1947)に焼失した。
ここは江戸時代の本丸御殿の玄関付近にあたる。

(説明板より)

天守閣

天守閣

現在の天守閣は、昭和6年(1931年)に大阪市民多数の浄財をもとに、「大坂夏の陣図屏風」の豊臣時代天守閣図をモデルに、鉄筋コンクリート造りで復興されたもので、わが国の天守閣復興の第1号である。
最初の大坂城天守閣は、天正11年(1583年)に豊臣秀吉によって創建されたが、大坂夏の陣(1615年)で焼失した。
二代目は寛永3年(1626年)に徳川幕府によって現在の天守台の位地に築かれた。
しかしこれも寛文5年(1665年)に落雷で焼失し、その後長らく大坂城には天守閣がなかった。
現在のものは史上3代目にあたるものである。

(説明板より)

残念石




残念石





(平成20年6月17日)

残念石

両脇に鎮座しているこの石は元和6年(1620年)から始まる大坂城修復の時、天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石としての念願かなわず、今なお数多く残されていることから「残念石」と呼ばれている。
この大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。
これらの石を、小豆島青年会議所が創立10周年記念事業として、「島は一つ」の社会活動の実践に、大阪青年会議所は商都大阪の復権を願い「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共同事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものである。

昭和56年7月19日
(社)大阪青年会議所
(社)小豆島青年会議所

(碑文より)

金明水井戸屋形




金明水井戸屋形





(平成20年6月17日)

重要文化財 金明水井戸屋形きんめいすいいどやかた

この井戸は水面まで約33mの深さがあり、井戸枠は一箇のくりぬき石で、外部の水流しは4枚の大石を組み合わせて敷き詰めている。
伝説では豊臣秀吉が、井戸水の毒気を抜くために黄金数枚を水に沈めたと言われていたが、近年の調査によってこの井戸は豊臣時代のものではなく、寛永元年(1624年)に掘られ、井戸屋形は同3年(1626年)に建てられたものと判明した。
なお、この井戸はもとは黄金水と呼ばれていた。

(説明板より)

号砲




号砲






(平成20年6月17日)

号砲

この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。
1863年、幕府の命令により、美作みまさか津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎くだらせいじろうらが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。
明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午ひるのドン」の名で市民に親しまれた。
火薬節約その他の理由により大正12〜3年(1923〜24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。

(説明板より)


市正いちのかみ曲輪
天守閣から見た市正曲輪 市正曲輪から見た天守閣

市正曲輪いちのかみくるわ

現在の大阪城梅林の地は、豊臣秀頼の後見人として重要な地位を占めた片桐東市正且元ひがしいちのかみかつもとの屋敷がここにあったと伝えることから「市正曲輪」とよばれる。
江戸時代には、大坂城を守衛する役職の内、青屋口加番かばん・中小屋加番・雁木坂がんぎざか加番の小屋(公舎)が北から順に置かれていた。

(説明板より)


隠し曲輪

隠し曲輪

大坂城の本丸に唯一築かれた帯曲輪おびくるわで、江戸幕府による大坂城再築時のものである。
出入口が狭くて気付かれにくく、兵士を隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれた。
一時期幕府の焔硝蔵えんしょうぐら(火薬庫)が置かれたこともあり、立ち入りが厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれた。
なおここでは、石垣の築造を担当した加藤家(伊予大洲藩)、小出家(丹波園部藩・但馬出石いずし藩)の刻印を間近に見ることができる。

(説明板より)


山里丸やまざとまる

山里丸やまざとまる

ここから下がった広場一帯を山里丸と呼ぶ。
豊臣時代には、山里の風情を保つ松林や、桜、藤などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っていた。
豊臣秀吉や、その家族が茶会や花見を楽しむくつろぎの場所で、秀吉の生母、大政所の居館もこの中にあったと伝えられている。
大坂夏の陣(1615年)で落城の際、淀殿、秀頼母子が自刃したのも山里丸と伝えられている。
徳川時代、寛永元年(1624年)の再築後は構造も建物もすっかり変わり、山里加番(城役人)の建物が建ちならんでいた。

(説明板より)

豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地



豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地
(大阪城・山里丸)





(平成20年6月17日)

碑文

慶長20年(1615)5月8日 大坂城主豊臣秀頼とその母淀殿をはじめとする主従約30名は 落城直後の大坂城内で自刃した
その場所については諸説あるが ここ山里曲輪の一角にあった矢倉の中とする説が有力である。

秀頼・淀殿ら自刃の地

慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓やぐらにひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。

(説明板より)


西の丸庭園

西の丸庭園

古く豊臣時代の西の丸には多くの御殿が建ち並び、秀吉没後、慶長4年(1599年)には秀吉の正室「北の政所」が一時住み、その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦まで、徳川家康が移り住んだことが知られています。
徳川時代に入り、元和5年(1619年)、内藤信正が初代の「大阪城代」となり、翌元和6年(1620年)すっかり築き直しました。
その後、明治維新(1868年)まで、70代の城代が交代で城の管理にあたりました。
明治以降は軍用施設として使用されていましたが、徳川時代の「西の丸」跡地と、その南側に続いていた「城代屋敷」跡地などを一つにまとめ、昭和40年(1965年)西の丸庭園として開園しました。

(説明板より)

千貫櫓

重要文化財 千貫せんかん

大坂城の大手口を守る重要な隅櫓の一つで、元和6年(1620年)に創建されたもので、昭和36年(1961年)の解体修理の際、土台の木材から「元和六年九月十三日御柱立つ」の墨書が見つかり、この建物の棟上げ式の日がはっきりした。
現存の城内古建築物の中で乾櫓とともに最も古いものである。
名称の由来については織田信長軍の石山本願寺攻めの時、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、あの櫓さえ落とせるなら銭千貫文与えても惜しくはないと話し合ったというエピソードが伝えられている。

■構造形式/二重二階本瓦葺
■面積/一階199u 二階143.32u 延342.32u
■昭和36年解体修理

(説明板より)

乾櫓

重要文化財 乾櫓

西の丸の乾(戌亥)すなわち西北の方角に建つ隅櫓で、L字形、総二階造り(一階と二階の床面積が同じ)という非常に珍しい構造をもっており、昔は「三方正面の櫓」とも呼ばれた。
徳川幕府による大阪城再築工事の初期、元和6年(1620年)に小堀遠州の総指揮のもとに建てられたもので、千貫櫓とともに、現存最古の建造物である。

■構造形式/矩折二重二階本瓦葺
■面積/一階、二階とも170.68u 延341.36u
■昭和34年解体修理

(説明板より)

焔硝蔵




焔硝蔵





(平成20年6月17日)

重要文化財 焔硝蔵えんしょうぐら

徳川時代の火薬庫で、この中に大量の黒色火薬が保管されていた。
創建は元和6年から8年(1620年〜1622年)頃で当初は土蔵造りであったが、青屋口内の焔硝蔵が万治3年(1660年)に落雷で大爆発をおこしたため、のちに工夫がこらされ、貞享2年(1685年)に現在の石造りの焔硝蔵が築造された。
床、壁、天井、梁などすべて花崗岩で構築され、壁の厚さは約2mもあり屋根は寄棟造りの本瓦葺き、屋根の下は土を積み固めている。
石造りの火薬庫はわが国では他に例のない貴重な遺構である。

■構造形式/石造一重寄棟造本瓦葺
■面積 175.56u
■昭和35年解体修理

(説明板より)

西の丸




西の丸





(平成20年6月17日)

西の丸

大坂城二の丸の内、本丸の西に広がるこの一帯を特に「西の丸」と呼び、本丸に次ぐ要地であった。
豊臣秀吉の弟秀長の屋敷がここに置かれたと推定され、秀吉没後には正室の北政所きたのまんどころ(おね)が一時住み、続いて徳川家康が伏見からここに移って本丸の天守に対抗する天守を築いた。
大坂の陣後、徳川幕府によって大坂城が再築されると、ここには幕府の蔵が立ち並び、これらの蔵は鍵の数から「いろは四十八蔵」とも呼ばれた。

(説明板より)

大坂城代屋敷跡




大坂城代屋敷跡





(平成20年6月17日)

大坂城代屋敷跡

現在の西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城の防衛や維持管理の最高責任者である大坂城代の屋敷(官邸)があった。
東向きの玄関は唐破風からはふ造りで、公務を行う広間や書院だけでなく、城代の妻子が居住する建物も備えており、本丸御殿に次ぐ規模の御殿であった。
明治維新の際の火災で焼失。
ここは城代屋敷の表門付近にあたる。

(説明板より)


生国魂神社お旅所跡




生国魂神社お旅所跡





(平成20年6月17日)

生国魂神社お旅所跡
生国魂神社と大阪城

生国魂神社の歴史を文献史料でたどると、「日本書紀」孝徳天皇即位前紀(645)に「生国魂神社の樹をきりたまふ・・・」とあるのが初出であり、これは難波宮造営のためと考えられている。
また「天文日記」(1436〜54)の記載からも、大坂(石山)本願寺に接して生国魂神社のあったことがわかる。
難波宮や大坂本願寺はここ大阪城の近くにあったことが知られており、生国魂神社が古くよりこの辺りに祀られていたことがわかる。
その後豊臣秀吉は、大坂城の築城に際して天王寺区生玉町の現在地に移築した。
当時大坂城大手門は、生玉門と呼ばれたという。
この「お旅所」は昭和7年(1932)に新築されたものであり、夏祭の御渡祭に用いられた。

大阪市教育委員会

(説明板より)

豊国神社




豊国神社





(平成20年6月17日)

豊國神社の由来

当豊國神社は「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」を奉祀する神社である。
明治元年、明治天皇が大阪に行幸になった砌、国家の為に大勲労のあった豊太閤を、この大阪の清浄な地に奉祀する様にと仰せ出されたので、種々熟議の結果、明治6年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営、大阪には別格官幣社豊國神社の別社として中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に、明治12年11月に創立されたのである。
大正元年府立図書館の西方の公園内に移転し大正10年に別社から独立して府社に列せられたが、昭和20年終戦と共に社格が廃止されたので、現在宗教法人となって神社本庁所属の神社となる。
昭和10年頃より大阪市の発展に伴い市庁舎増築に必要の為、隣接する当神社の移転の議が起こったが、太平洋戦争に突入した為、移転の件は一時沙汰止みとなった。
その後昭和31年大阪市より神社移転の要望が再開されたので、祭神に縁のある大阪城内を移転地と決定、昭和36年1月中之島より奉遷したのが現在の神域である。
ここ大阪城跡は、かの有名な石山合戦で石山本願寺の宗徒が織田信長の鋭鋒に抗して前後11年の長きに亘り、さすがの信長も朝廷の斡旋により和睦をとり結ぶのやむなきに至ったほどの要害堅固な土地である。
因って後年秀吉が天下を平定し、己が居城を築くにあたりこの石山の地を要所と選び、天正11年に築城を始め、天正15年に築き終えた曽ての名城も、元和元年大阪夏の陣に破れ、僅か2代で32年のはかない存在であったが、御祭神には最も因縁の深い所で、奉祀するのに最適の神域である。

(『参拝のしおり』より)


【大阪城】

大坂城が位置する一帯は、上町うえまち台地という。
ここは昔、瀬戸内海と大和川・淀川の河口からなる広大な水面に突き出た岬のような形状をしていた。
そのため、海や河川が主要な交通ルートであった往時、この地は西国と大和(奈良県)・山城(京都府)を結ぶ政治・経済上の極め付きの要地だった。

このような大坂の重要性を最初に見抜いたの戦国武将は織田信長だった。
信長はどうにかして大坂に城を築きたいと願ったが、すでに石山本願寺が居座っていた。
はじめに上町台地に本願寺関係の建物を営んだのは、八世蓮如で、京都山科やましなと堺を往来している間に、上町台地の景勝に魅かれて、明応5年(1498年)に隠居所として別院を建立した。
ところが、それから36年経った天文元年(1532年)、山科本願寺が日蓮宗徒らに焼き討ちされたため、十世証如しょうにょは、やむを得ず石山に退いたのである。
証如と門徒は、石山に移ると早速、寺の要害化に取り掛かった。
本願寺が支配していた加賀国(石川県)から城造りを呼び寄せ、石山本願寺は周囲に深い堀や塀を巡らし、51の出城でじろを備えるという大城塞じょうさいと化した。

信長が大坂に着眼したのは、ちょうど石山本願寺が最強を誇っていた時期だった。
信長は武力をちらつかせ、そこを明け渡せと脅したが、石山本願寺側はにべもなく断った。
そこで起こったのが信長の石山本願寺攻めで、10年も続いた。

天正8年(1580年)8月、降伏のやむなきに至った本願寺は、建物のすべてに火を放って退去し、信長は待望の石山をようやく獲得したが、天正10年6月、信長は本能寺に横死し、自身の手で大坂城を築くことができなかった。
そこで、豊臣秀吉が、亡君の遺志を継ぎ、大坂城に取り掛かることになった。
秀吉が本格的に築城に着手したのは、信長の一周忌を済ませた天正11年8月のことである。

秀吉は、縄張にあたり、石山本願寺の曲輪くるわをそのまま使ったようで、堀の水は淀川から引いた。
動員した労務者は当初は3万人、最盛時は10万人を数えたという。
堺港は各地から石垣用の石を運び込む船を1日に200艘から1000艘も迎えて溢れかえった。
こうして出来上がった城の本丸には、平面積み4600坪という途方もない大きな本丸御殿と五層八階(一説には七階)の大天守が並び建ち、大天守の雄姿は京都の高台からもはるかに望めたという。

だが、慶長3年(1598年)、秀吉が没すると、大坂城はにわかに暗い翳りに包まれる。
関ヶ原の合戦、徳川家康の征夷大将軍就任、江戸幕府の開創と続くうちに、慶長19年に至って、ついに大坂冬の陣が勃発したのである。
戦いは12月4日に始まり、兵力に勝る徳川軍は9日から大坂城に攻めかかった。
城攻めが得意だった秀吉の縄張による大坂城が、そう簡単に落城するわけがない。
攻めあぐねた家康は和議を申し入れ、19日、徳川方が大坂城総構を取り払い、豊臣方が三の丸と二の丸の塀と柵を撤去するという条件で和議が整った。
しかし、これは家康の罠で、徳川方は総構を取り払う一方、三の丸にも侵入して堀を埋め、石垣を崩し、さらに二の丸の堀まで埋めてしまった。
そのため大坂城は本丸だけを残す裸城はだかじろになってしまい、秀吉苦心の縄張は、この時に半ば消滅した。

大坂城が完全に地上から消え去ったのは、翌慶長20年の大坂夏の陣においてである。
裸城同然の大阪城は、もはや徳川軍の猛攻に抗しきれず、5月7日、大天守以下の建物が次々に焼け落ち、翌8日には淀君・秀頼母子も自害し、豊臣家の血筋まで絶えてしまう。

その後、徳川氏は家康の外孫・松平忠明に10万石を与えて大坂を守らせた。
元和5年(1619年)、大坂を直轄領として、徳川秀忠・家光二代の間に、三度の大改修を加え、大坂城を復活させた。
この工事の際、幕府は旧大坂城の敷地の上に約10メートルの土を積み上げて埋めてしまい、全く新たな縄張をしたようである。
昭和34年、天守南部の地下10メートルの地点から「野面積み」の石垣が発見され、また昭和54年には、旧三の丸にあたる大阪市野外音楽堂の建設工事現場で、秀吉築城時のものと確認できる石垣が発見されている。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月12日 追記)




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