大塩平八郎 おおしお・へいはちろう

寛政5年1月22日(1793年3月4日)〜天保8年3月27日(1837年5月1日)


父・敬高の没後、家職の与力を継ぎ、のちに大坂町奉行高井山城守実徳に重用され吟味役となる。
在任中は手腕をふるい名声を高めたが、高井の辞職に際し自らも辞職をする。
文武両道に秀で、学問では陽明学を修め、私塾・洗心洞せんしんどう大坂の与力・同心や近隣の豪農とその子弟などに教授した。
天保7年(1836年)の大飢饉のとき、東町奉行・跡部良弼よしすけに窮民の救済を上申したが聞き入れられず、翌年、近隣の農村に檄を飛ばし挙兵するが、失敗し逃亡。
約40日後に市中に潜伏しているところを発見され自刃する。


【大塩平八郎】

陽明学の著名な学者で、大坂東町奉行所の元与力であった大塩平八郎は、天保の大飢饉に苦しむ民に対して、奉行所に救援を頼んだが却下され、自らの蔵書を大量に売りさばいて民を助けていた。
そして役人の汚職や不正、豪商の米の買い占めなどに非常な怒りを覚え、自宅で開いていた漢学塾「洗心洞」で門弟達に軍事訓練を行い、大砲などの武器を買い入れ、ついに武装蜂起に至った。
奉行所の兵により半日で鎮圧されたが、大坂という重要な直轄地での動乱は幕府の存在そのものを揺るがすきっかけになった。

(参考:『一個人 2013年1月号』 KKベストセラーズ)

(平成26年5月8日 追記)


大塩平八郎終焉の地碑



「大塩平八郎終焉の地」碑
(大阪市・天理教飾大分教会)





(平成20年6月18日)

碑文

大塩平八郎中斎(1793〜1837)は、江戸時代後期大坂町奉行所の与力で、陽明学者としても知られ、世を治める者の政治姿勢を問い、民衆の師父と慕われた。
天保8年(1837)2月19日飢饉にあえぐ無告の民を救い、政治腐敗の根源を断とうとして、門人の武士・農民等を率いて決起した。
乱後大塩平八郎・格之助父子は、この地に隣接した靱油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏したが、同年3月27日幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。
民衆に呼びかけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。
大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている。
決起160年に当たり、全国の篤志を仰いでここに建碑する。

1997年9月
大塩事件研究会

大塩平八郎終焉の地

大塩平八郎・格之助父子は天保8年(1837)乱後靱油掛町の手拭地仕入職美吉屋五郎兵衛宅に潜伏し最期をとげた。
その地はここ天理教飾大分教会と背割水道を隔てて北に隣接する付近にあたる。

(説明板より)

 (説明板より)

天理教飾大分教会



天理教飾大分教会

(大阪市西区靱本町1−18−12)





(平成20年6月18日)



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