太田道灌像 平成17年12月11日

太田道灌 おおた・どうかん

永享4年(1432年)〜文明18年7月26日(1486年8月25日)

埼玉県川越市川越市役所前でお会いしました。


扇谷おうぎがやつ上杉氏の家宰。
康正2年(1456年)江戸築城を開始、岩槻・河越にも築城するなど武蔵・相模の有力者になります。
文明8年(1467年)山内上杉氏の長尾景春が上杉氏に背くと、以後数年にわたり関東各地で景春方と戦いました。
これにより、扇谷上杉家を山内上杉家に匹敵するまで成長させましたが、相模国糟屋かすや(現:神奈川県伊勢原市)の主家・上杉定正邸に誘い出されて殺害されました。
これは、扇谷家の内部対立と扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言われています。


太田道灌公像



太田道灌公像

(川越市役所前)





(平成17年12月11日)

太田道灌公像

川越は、古代から、この地方の文化の中心であった。
長禄元年(西暦1457年)に太田氏が川越城を築き、更に江戸城を築いて川越の文化を江戸に移したので、川越は江戸の母と呼ばれた。
明治以降も引き続き埼玉県第一の都府として、大正11年他に魁けて市制を施行した。
ここに市制50周年を迎えるに当たり市庁舎を新築し川越市開府の始祖とも仰ぐ太田道灌公の銅像を建て、古き歴史を偲びつつ新しき未来を開こうとするものである。

昭和47年9月吉日
川越市長

(銅像銘板より)

川越市役所



川越市役所
(川越城大手門跡)





(平成17年12月11日)

 平成15年6月26日

東京都 JR日暮里駅前でお会いしました。


JR日暮里駅前の太田道灌像


JR日暮里駅前の太田道灌の騎馬像






(平成15年6月26日)

太田道灌銅像 平成16年1月27日

東京都千代田区丸の内 東京国際フォーラム内でお会いしました。

太田道灌銅像 太田道灌銅像
(東京国際フォーラム)

開都五百年記念
昭和31年10月1日
太田道灌像
昭和33年2月除幕
朝倉文夫作

(平成16年1月27日)

碑文

室町時代中期の武将太田道灌(1432年〜1486年)は、江戸城を築き江戸、東京にゆかりの深い人物として知られています。
この像は、ここに都庁舎があった昭和33年、当地に設置され、長らく都庁のシンボルの一つとして親しまれてきました。
都庁の移転後、ここが東京国際フォーラムとして新たに生まれ変わったことに伴い、平成8年5月、ゆかりの深いこの地に復帰することになり、以前と同様に、居城であった旧江戸城(皇居)を望んでいます。
製作者の彫刻家朝倉文夫氏は、第2次大戦中に旧東京市庁舎から撤去、供出された太田道灌像の作者渡辺長男氏の実弟です。

東京国際フォーラム

大小7つのホールと、数多くの会議室、展示ホール、ギャラリーなどを備えた、東京で初めてのコンベンション&アートセンター。
音楽、演劇、舞踊、映画、美術、商業イベント、国際会議などに使われています。


太田道灌邸舊蹟の碑



『太田道灌邸舊蹟』の碑

(神奈川県鎌倉市・英勝寺)





(平成18年9月24日)

太田道灌邸舊蹟

此ノ地ハ武略文藻兼ネ備ヘ忝クモ武藏野は菅原の野と聞きしかとかかる言葉の花もあるかなテフ叡感ニサヘ預リタル道灌太田持資ガ江戸築城前ノ邸址ナリ
寛永11年令ノ英勝寺ト為ル其ノ創立者水戸藩祖頼房ノ准母英勝院ハ道灌ノ嫡流太田康資ノ女ナルヨリ晩年将軍家光ヨリ特ニ此ノ地ヲ授リテ之ニ住スルニ至レルナリ
孤鞍雨ヲ衝イテ芽茨ヲ叩ク少女為ニ遺ル花一枝ノ詩趣アル逸話ハ道灌ガ壯年猶此ニ在リシ日ニ於テ演ゼラレシ所ノモノナリ

大正10年3月建之
鎌倉町青年會

(石碑・碑文より)

英勝寺



英勝寺

(神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1−16−3)





(平成18年9月24日)

英勝寺

東光山英勝寺は、現在鎌倉では唯一の尼寺である。
寺域は太田道灌公の旧跡であり、鎌倉市扇ガ谷に在る。
当寺は、水戸中納言頼房卿の准母である英勝院尼の創建で、寺域は広く風致極めて幽静といわれ、寶珠殿と呼ばれる仏殿には徳川三代将軍家光公寄進による運慶作の阿弥陀三尊如来像を安置している。
仏殿・鐘楼・祠堂などの建築様式は、他の鎌倉諸山とは異なり、それは室町末期桃山系統を象徴する江戸初期の名建築であり、中でも十二支を刻む蟇股をめぐらした仏殿、袴付きの鐘楼や石仏の来迎三尊仏を背景に彩色をほどこした祠堂は文化財として後世に残す価値が大いにある。
大正12年の大震災に遭い、庫裡・蔵などは倒潰し、今は往時のおもかげをなかば損ねてはいるものの、仏殿・鐘楼・唐門・祠堂(廟・水戸光圀建立)などは県指定文化財として異色を呈している。
英勝院尼はあ、太田道灌四代康資の息女で徳川家康に仕え、お勝かつの方(戦では必ず勝利をもたらしたので)といわれたが、その性質は聡明にして温雅貞淑ということであった。
その後、家康公の命によって頼房の准母となり、家康公薨去後寛永11年落飾(薙髪出家)し、家光公より父祖旧縁の地、道灌公の故地を賜って、この地に英勝寺を創建したのである。
そして、尼公は自身の菩提のために念仏道場を創め、頼房卿の息女小良姫さらひめを7歳の時に玉峯清因と名づけ得度出家させ開山第一祖とした。
玉峯清因尼は90歳で入寂し、その間に英勝寺は寺領に三浦郡池子村に420石の朱印地を与えられ、寺領にそえて源義家東夷征伐の時に旗を立てたと伝えられる旗立山通称源氏山を賜っている。
山腹には道灌公の首塚があり、境内には『十六夜日記』を著した阿仏尼あぶつにの卵塔、智岸寺稲荷などがあり史蹟に富んでいる。
英勝院尼は、寛永19年8月23日65歳で寂し、法号は「英勝院殿長誉清春」と諡する。
その後は代々水戸家の姫君が往持として入山していたが、嘉永6年六代清吟尼入寂後は水戸家よりの往持は絶え、その後は徳川家の支援によって維持され、明治28年より松平家より住職を迎え、大正8年入寂以後は東京青山善光寺から住職を招請して今日に及んでいる。

(英勝寺の『しおり』より)


扇谷上杉管領屋敷迹の碑



『扇谷上杉管領屋敷迹』の碑
(神奈川県鎌倉市扇ガ谷2−3)





(平成18年9月24日)

扇谷上杉管領屋敷迹

内大臣藤原藤十三代ノ裔ニ重房アリ
宗尊親王ニ従ヒテ鎌倉ニ下リ食邑ヲ丹波國上杉莊ニ賜リテ始メテ上杉氏ヲ稱セルカ其ノ曾孫憲顯管領基氏ノ執事ト為リテヨリ一族勢力ヲ關東に占ム
門葉數家重房五世ノ孫顯定扇谷家ヲ創ム文明ノ交扇谷家六代ノ主定正賢臣太田道灌ヲ用ヒテ家聲ヲ揚クルヤ世ニ宗家山内ト共ニ両上杉又ハ両管領ト稱ス
此ノ地即チ其ノ邸址ナリ

大正11年3月建
鎌倉町青年團

(石碑・碑文)

扇谷上杉管領屋敷跡



扇谷上杉管領屋敷跡
(神奈川県鎌倉市扇ガ谷2−3)





(平成18年9月24日)

太田道灌供養塔


太田道灌公五輪供養塔
(東京都墨田区太平1丁目・法恩寺)





(平成15年11月8日)

太田道灌の墓
所在:墨田区太平1丁目26番16号 法恩寺内

室町時代の武将、永享4年(1432)相模に生まれる。
関東管領扇ヶ谷おおぎがやつ上杉氏の執事資清の子で歌人としても知られている。
幼名を鶴千代麿、源六郎と称し、成人してからは、持資もちすけ、資長すけながと改め、備中守正五位下までのぼり、剃髪ていはつして道灌と号した。
道灌は扇ヶ谷上杉定正に仕え、文武両道を修め、康正2年江戸城を築きここに住んだ。
彼は、築城にかけても名手で、さらに川越、岩槻の二城を築いた。
また毎年兵を用い、豊島氏をはじめ多くの城を攻め破り数々の武功をおさめた。
道灌軍法のうち、特に足軽軍法はすぐれていた。
文明18年(1486)主君定正は、道灌の盛名をねたんだ他の家臣たちにそそのかされて、相模糟谷の道灌の館を襲い謀殺した。
年五十五。
この法恩寺はもと江戸平河町にあって、道灌が江戸城築城のとき建立したものといわれ、道灌とゆかりが深いのでここに追慕の墓がある。

昭和45年11月3日 建設
墨田区

法恩寺


法恩寺
(東京都墨田区太平1−26−16)





(平成15年11月8日)

日蓮宗平河山法恩寺縁起

開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公である。
道灌公長禄2年(1458年)江戸城築城に当り丑寅の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、次いで資康、資高城主となり資高の代、本住院を法恩寺と改称したのである。
山号を平河山と称するのは、当時この附近を平河村と称したによるものである。
当山には秀吉家康共に小憩され、又、朱印地も与えられた。
家康江戸城に入り城内拡大に当って当山は神田柳原、谷中清水町にと移され、元禄8年現在の地に移されたのである。
当時塔中二十ヶ寺、末寺十一ヶ寺、関東の触頭として威勢を誇った。
当地を太平町と称するのは開基太田道灌公の太と山号平河山の頭文字をとって名付けられた。
当山は関東大震災、昭和20年3月の戦災に遭遇するも壇信徒並地元の外護により再建され昭和29年10月現在の本堂落成をみたのである。
経石塔(三重塔)は昭和7年宗祖650年遠忌記念として建立、天平風鉄筋造、当時新様式鐘楼として名高いものである。

(説明板より)

道灌公記念碑


道灌公記念碑

(法恩寺境内)

江戸築城500年記念として建立された記念碑です。



(平成15年11月8日)

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