太田錦城 おおた・きんじょう

明和2年(1765)~文政8年4月23日(1825年6月9日)


江戸中期の折衷学者。
名は元貞、字は公幹・才佐、錦城は号。
加賀国大聖寺藩医・樫田玄覚の七男として生まれたが、医を業とせず、学を志す。
皆川淇園さえん・山本北山に学ぶが、意に満たず独学。
幕府医官・多紀桂山の後援で世に知られ、三河国吉田藩・加賀国金沢藩に禄仕した。
経学に長じ考証もよくした。
市井の儒者・文人として人気を博したが、寛政期には異端視された。






錦城大田先生之墓
(東京都台東区・一乗寺)




(平成23年3月10日)

東京都指定旧跡
太田錦城墓

所在地 台東区谷中1丁目6番1号 一乗寺内
指定   昭和3年3月

太田錦城(1765~1825)は江戸時代中期の儒学者で、名は元貞、字は公幹、才佐と称し、錦城は号である。
加賀国大聖寺に生まれ、当時の大儒であった皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、一家の学を建てた。
晩年にいたり、一時京畿に遊び、三河国吉田藩に仕えたが、加賀国金沢藩から賓師として招かれ、3百石を給せられた。
文政8年4月23日、61歳で没した。
著書には『九経談』『春草堂詩集』『鳳鳴集』など非常に多くの著述があり、長男は加賀侯に仕え、三男は吉田侯に儒学をもって仕えた。

平成20年12月 設置
東京都教育委員会

(説明板より)





一乗寺
(東京都台東区谷中1-6-1)




(平成23年3月10日)



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