平成24年4月19日
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回天記念館 (山口県周南市大津島1960) (平成24年4月19日) |
大津島回天碑及び回天記念館沿革
1 昭和20年11月10日 最初の回天記念碑建立
終戦時、当回天基地内務長であった吉田忠太郎氏が奔走し、民家より大型庭石の寄贈を受け、之を礎石とし、地区住民協力の下に現碑の近くへ運び建立した。
2 昭和30年11月8日 戦後第1回慰霊祭
戦後10年目を迎え元隊員有志が回天碑前に集合したが、碑石は何者かにより破砕埋没され既に無く、残った台石上に供物を捧げ、第1回の慰霊供養を行い、以後毎年行うことを約し実行されている。
3 昭和35年11月20日 回天碑再建
回天碑の忘失に心を痛めた徳山郷友会会長梅田利一氏他地元有志は協議の上、碑再建を計画。
募金(目標300万円)を全国的に行い、回天発案者黒木博司氏の遺書中より回天の文字を選んで黒髪石の碑面に刻し再建した。
4 昭和37年7月20日 回天顕彰会発足
昭和37年3月東京都に於て関係者会合時、長井満氏の発議により協議決定し、諸準備の後発足した。
当初本部 東京都 初代会長 清水光美氏
5 昭和43年11月20日 回天記念館完成
回天顕彰会発足により烈士の遺品収集と展示維持する記念館の建設を急ぐことになり、前者は既に徳山市毛利勝郎氏が自主的に実施しており、これを支援、後者は小冊子「回天」を作成し、これを趣意書と共に有償頒布し、その益金を充当することで準備を行い、昭和40年10月頒布活動を開始した。
しかし、なお建設資金の充当に困難であったため、徳山を本拠とし回天記念館建設賛助会を昭和43年1月設立。
渡辺久氏、原田耕作氏等の献身的努力によって全国より浄財1,962万円が寄せられこれを基に記念館は完成した。
建設に際しては徳山市・防衛庁・大津島馬島地区民の絶大な理解と協力があり、完成後これらは徳山市に寄贈され、以後徳山市で維持管理されている。
6 昭和43年12月1日 大津島社会教育振興会発足
徳山市から委託された回天記念館の管理運営組織として発足し、高松工氏を会長に、島のあらゆる団体の代表者で構成され、以来、島を挙げて記念館の善良な維持管理と、島に遺された歴史遺産の保存・継承に努め、もって地域の発展向上に尽力した。
平成10年3月31日、記念館の徳山市教育委員会直営化に伴い、その使命を終え、解散した。
7 昭和63年11月20日 回天記念館の拡張・改修・整備完成
当初の記念館では尚遺品の展示場所が不足しており、且つ永久保存対策、更に烈士銘碑等周辺問題等もあって顕彰会会長兄部勇次氏、副会長吉本信夫氏他理事はこれらの改善のための全国募金を行い、4,733万円の浄財を集め徳山市に寄付。
市により設備工事が行われた。
8 平成3年11月20日 回天搭載戦没潜水艦乗員顕彰碑完成
回天攻撃を実施するため出撃し戦没した潜水艦乗員の慰霊もあわせて実施すべきと千治松彌太郎氏の発議があり、顕彰会会長山本昌巳氏他理事は募金を行い、浄財401万円を得て回天碑左に側碑の形で建碑した。
9 平成7年7月 回天(基地)を保存する会結成
太平洋戦争終結50年の年に当たり、山口県・徳山市は回天基地跡の整備計画を実施されることとなり、その資金の一部を補うため、内山實氏を代表とする有志十数名は回天(基地)を保存する会を設立し、同年10月より募金活動を開始した。
平成10年8月15日までに4,138万円の浄財を広く全国より集め、次の事案を実施した。
一、回天発射訓練基地跡の案内設備及び隧道内パネル設置
一、回天記念館資料の保存支援(黒木博司氏嘆願血書レプリカ作製等)
一、説明内容等の映像化事業
尚、この整備事業並びに募金残額は平成10年11月8日、徳山市に寄贈した。
10 平成10年11月8日 回天記念館の拡張・改修・整備完成
回天(基地)を保存する会による整備事業とあわせ、市は収蔵庫の増築、研修室の整備など大幅な館の拡張・改修を行った。
また展示場を全面改修し、展示構成を一新。
運営の徳山市教育委員会直営化とあわせ、世界の恒久平和を願う施設として整備した。
平成10年11月8日
回天顕彰会
(説明石碑・銘板より)
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回天碑 (山口県周南市大津島・回天記念館) (平成24年4月19日) |
側碑・碑文
大東亜戦争 年ヲカサネテ苛烈ヲ加ヘ 物量漸ク乏シキヲ告ゲ 前途暗澹タリシ時 愛国ノ至誠 弱冠ニシテ早クモ危急ヲ豫感シ 忠孝ノ純情 一身ヲ献ジテ 狂瀾ヲ既倒ニ回サントシ 前代未聞ノ兵器 必死必勝ノ戦法ヲ創案シテ 従容自ラ之ヲ操縦遂行セシモノ 即チ是レ回天ノ有志ナリ 惜シイ哉時既ニオソク 戦勢ヲ一転セシムルニ至ラザリシト雖モ 事敵ノ意表ニ出デテ其心膽ヲ寒カラシメ ヨク皇国ノ命脈ヲ危殆ノ中ニ護持セシモノ 其ノ功偉ナリト言フベシ ココニ回天献身ノ勇士ノ氏名ヲ録シ 以テ芳ヲ千秋ニ傳フ
黒木博司 | 松尾正男 | 矢代 清 | 釜野義則 |
樋口 孝 | 秦 隆造 | 土井秀夫 | 梅下政男 |
上別府宜紀 | 川津芳吉 | 亥角泰彦 | 坂本 茂 |
村上克巴 | 川崎順二 | 館脇孝治 | 高澤喜一郎 |
宇都宮秀一 | 石田敏雄 | 菅原彦五 | 藤原 昇 |
近藤和彦 | 難波 進 | 十川 一 | 池淵信夫 |
今西太一 | 磯部武雄 | 八木悌二 | 久家 稔 |
仁科関夫 | 芝崎昭七 | 安部英雄 | 柳谷秀正 |
福田 斉 | 岡山 至 | 松田光雄 | 山本 孟 |
佐藤 章 | 市川尊継 | 海老原清三郎 | 水知創一 |
渡辺幸三 | 田中二郎 | 柿崎 實 | 北村十二郎 |
時田久美 | 浦佐登一 | 古川七郎 | 勝山 淳 |
土井完治 | 熊田孝一 | 山口重雄 | 和田 稔 |
前原 酉 | 黒川丈夫 | 熊野義隆 | 伴 修二 |
栗本 晃 | 浜本安雄 | 谷村昌寿 | 小森一之 |
川久保輝夫 | 関 儀政 | 桑原竹二 | 川尻 勉 |
原 敦郎 | 重松正市 | 澤井滝夫 | 阿部福平 |
村松 實 | 岩橋繁行 | 遠坂末喜 | 恵美須忠吉 |
佐藤勝美 | 菅原今朝松 | 物部信一郎 | 小林好久 |
加賀谷 武 | 亀田武雄 | 西山 隆 | 関 豊興 |
都所静世 | 森 正夫 | 赤星敏夫 | 荒川正弘 |
本井文哉 | 荒木七五三一 | 伊藤二三男 | 水井淑夫 |
福本百合満 | 寺西 亨 | 野口藤太郎 | 中井 昭 |
久住 宏 | 矢崎美仁 | 前田 肇 | 成瀬謙治 |
伊東 修 | 三好 守 | 入江雷太 | 上西徳英 |
有森文吉 | 河合不死男 | 坂本豊治 | 佐野 元 |
石川誠三 | 堀田耕之祐 | 楢原武男 | 林 義明 |
工藤義彦 | 猪熊房蔵 | 北村鉄郎 | 橋口 寛 |
森 稔 | 赤近忠三 | 千葉三郎 | 松尾秀輔 |
三枝 直 | 伊東祐之 | 小野正明 | 田中金之助 |
中島健太郎 | 阪本宣道 | 島田 昌 | 新野守夫 |
宮澤一信 | 福島誠二 | 小林富三雄 | 吉田 洸 |
吉本健太郎 | 八木 寛 | 金井行雄 | 河田直好 |
豊住和寿 | 川浪由勝 | 斉藤達雄 | 樽井辰雄 |
塚本太郎 | 石直新五郎 | 田辺 晋 | 井手篭 博 |
井芹勝美 | 宮崎和夫 | 岩崎静也 | 夏堀 昭 |
荒井貞雄 |
建碑記
曩ニ 回天隊員ニヨッテ建設サレタ回天碑ガ 何者ニカ破壊サレタコトハ 洵ニ痛恨ノ極ミデアッタ
昭和三十二年春 徳山郷友会ガコノ再建ヲ発起シ 回天隊生存者代表ト協議ノ上郷友会内ニ世話人会ヲ設ケ 全国有志ノ協賛ヲ仰ギ �壹萬五千九百五名ノ浄財ト協力トニヨリ 茲ニ再建シタノデアル
昭和三十五年十一月八日
徳山郷友会
世話人代表 梅田利一
他五十一名
右ノ如ク 回天碑及ビソノ側碑ガ建立サレタガ 当時尚戦時ノ状況 確認不十分ノ点ガアリ 烈士氏名ノ誤字 脱落ガ認メラレタタメ 今般回天記念館ノ整備ト共ニ側碑 碑面ノ改修ヲ行ッタモノデアル
昭和六十三年十月一日
回天記念館施設整備募金委員会
委員長 兄部勇次
揮毫者 宇山栖霞
側碑・碑文
必死必中の特攻兵器「回天」を搭載して南溟の敵中深く泊地を奇襲し、あるいは航行する艦船に対して回天戦を挑み、米海軍の心胆を寒からしめた回天作戦において、敵の攻撃をうけて帰らざる潜水艦は8隻、その乗員は811柱を数える。
劣悪な艦内環境に耐え、戦勢を挽回すべく憂国の至情に燃えて戦い、回天烈士とともに散華した勇士は、いまも艦とともに海底深く沈んでそのまま其の戦場にあり、民族の急を救うべく戦った犠牲の精神は永えに活きている。
われらいま、回天の聖地にその事績を刻み弔魂の誠を捧げる。
艦名 | 出撃地 | 出撃日 | 戦没地 | 艦長以下乗員数 |
伊号第 37潜水艦 | 大津島 | 昭和19年11月 8日 | パラオ | 神本信雄以下112名 |
伊号第 48潜水艦 | 大津島 | 昭和20年 1月 9日 | ウルシー | 当山全信以下118名 |
伊号第368潜水艦 | 大津島 | 昭和20年 2月20日 | 硫黄島 | 入沢三輝以下 80名 |
伊号第370潜水艦 | 光 | 昭和20年 2月21日 | 硫黄島 | 藤川 進以下 79名 |
伊号第 56潜水艦 | 大津島 | 昭和20年 3月31日 | 沖縄 | 正田啓治以下116名 |
伊号第 44潜水艦 | 大津島 | 昭和20年 4月 3日 | 沖縄 | 増沢清司以下126名 |
伊号第361潜水艦 | 光 | 昭和20年 5月23日 | 沖縄 | 松浦正治以下 76名 |
伊号第165潜水艦 | 光 | 昭和20年 6月15日 | マリアナ東方 | 大野保四以下104名 |
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人間魚雷「回天」 (山口県周南市大津島・回天記念館) (平成24年4月19日) |
回天記念館 | |
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大津島基地の模型
大津島基地跡
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魚雷見張り所跡へ向かう山道 | 魚雷発射見張り所 |
魚雷発射見張り所
回天基地が建設される前、すでに大津島では九三式酸素魚雷の試験発射場や整備工場が整備されていました。
この魚雷見張り所跡は発射試験場から発射されたものを見張るために造られたものです。
大津島観光協会
(説明板より)
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回天記念館 無料休憩所「養浩館」 (山口県周南市大津島1960) (平成24年4月19日) |
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菊水隊 | 千早隊 |
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多々良隊 | 金剛隊 |
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轟隊 | 多聞隊 |
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トンネル (平成24年4月19日) |
このトンネルは海へ抜ける。
整備された回天はトロッコで発射場まで運ばれ、搭乗員も又、トンネルを抜けて回天に乗り込んだ。
(説明板より)
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回天発射場跡
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回天発射場跡
人間魚雷「回天」は太平洋戦争末期、戦局の劣勢を挽回しようと空からの「神風特別攻撃隊」とほぼ同じ時期に戦場に登場した。
この発射場は、93式魚雷試験発射のためのもので昭和12年に開設された。
それ以前の試験発射は呉市大入だいにゅうの発射場で行っていたが、大遠距離射線を備えたこの発射場が完成し、以後ここから発射した。
昭和19年9月1日、この地に回天基地が開設され回天の操縦訓練が開始された。
回天の訓練は、ここから発射場横の海面に運ばれ、熟練度に従って直線往復、島の半周、一周、停泊艦襲撃、航行艦襲撃等と搭乗員は猛訓練に明け暮れたのである。
その訓練は終戦の日、昭和20年8月15日まで続けられた。
(説明板より)
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回天発射訓練基地跡
この回天発射訓練基地跡は、昭和14年(1939)に建設された「九三式酸素魚雷」の発射試験場を、人間魚雷回天の発射訓練に活用したものです。
「九三式酸素魚雷」は、昭和8年(当時の日本暦二五九三)に製作されたもので、長さ8.5m、直径61cmで、速力は50ノット(おおよそ90km)で、世界で最も優れた兵器のひとつでした。
この魚雷の発射試験は、魚雷を調整工場(現大津島小学校地)からトロッコに乗せて、トンネル(隧道)を通って、ケーソン(鉄やコンクリート製の箱)で構築された発射台まで運び、天井クレーンで台の穴から海面に降ろして行われていました。
昭和19年9月5日から、この施設を利用して回天の発射訓練に使用することになりましたが、「九三式酸素魚雷」を改良して人が乗れるようにした回天は、長さ14.75m、直径1mあり従来の穴から降ろせないので、別にクレーン(起重機)を設置して、突堤から海面に降ろしました。(今もクレーンの支柱跡が残っています。)
ここを起点として発射訓練が行われ、馬島回りのコースや大津島回りのコースなどがありました。
なおトンネルは当時のもので、長さ247m、入口の幅3.5m、高さ4mで、中央部の複線で広くなっている所には、当時を回想する7枚の大きな写真がが展示されています。
周南市都市整備課
(説明板より)
【大津島基地】
昭和19年(1944年)9月1日付けで、大津島に「回天」の訓練基地(第1特別基地隊、第2部隊)が開設された。
ここには呉工廠水雷部の魚雷発射試験場のほか、それに附属した魚雷調整工場も整備されていて、「回天」の訓練には好都合だった。
全水雷科員の中から九三式魚雷に経験のある有用な人材が、組立・調整要員として送り込まれた。
基地開設の決定から開隊まで、わずかな日数しかなく、居住施設は突貫工事でようやく間に合った。
本部宿舎1階の、海に近い広い一室が士官室とされ、本部から一段上に造成された平地には、第13期甲種飛行予科練習生出身の下士官搭乗員たちが居住する宿舎があった。
建物は木造で、多い時には150人ほどが入居していたという。
昭和19年11月、大津島「回天」基地で「回天」の訓練が始まってか2ヶ月後、ウルシー泊地とパラオ攻撃のために「菊水隊」が編成されて出撃。
その後、手狭になったことから、他にも訓練基地を開設することになった。
(参考:『人間魚雷回天~命の尊さを語りかける、南溟の海に散った若者たちの真実~』 ザメデシアジョン 2006年第3刷発行)
【大津島基地を出撃した回天特別攻撃隊】
出撃年月日 | 隊名 | 搭載潜水艦 | 「回天」数 | 戦没搭乗員数 | 記事 |
昭19.11. 8 | 菊水隊 | 伊47 | 4 | 4 | ウルシー方面 |
昭19.11. 8 | 菊水隊 | 伊36 | 4 | 1 | ウルシー方面 |
昭19.11. 8 | 菊水隊 | 伊37 | 4 | 4 | パラオ方面(未帰還) |
昭19.12.21 | 金剛隊 | 伊56 | 4 | 0 | 敵の警戒厳重 回天発進不能・帰投 |
昭19.12.25 | 金剛隊 | 伊47 | 4 | 4 | ホーランディア方面 |
昭19.12.30 | 金剛隊 | 伊36 | 4 | 4 | ウルシー |
昭19.12.30 | 金剛隊 | 伊53 | 4 | 3 | パラオ方面 |
昭19.12.30 | 金剛隊 | 伊58 | 4 | 4 | グアム島 |
昭20. 1. 9 | 金剛隊 | 伊48 | 4 | 4 | ウルシー方面(未帰還) |
昭20. 2.20 | 千早隊 | 伊368 | 5 | 5 | 硫黄島方面(未帰還) |
昭20. 2.23 | 千早隊 | 伊44 | 4 | 0 | 敵の警戒厳重 回天発進不能・帰投 |
昭20. 3. 2 | 神武隊 | 伊36 | 4 | 0 | 作戦変更により帰投 |
昭20. 3.31 | 多々良隊 | 伊56 | 6 | 6 | 沖縄方面(未帰還) |
昭20. 4. 3 | 多々良隊 | 伊44 | 4 | 4 | 沖縄方面(未帰還) |
昭20. 5. 5 | 振武隊 | 伊367 | 5 | 2 | 沖縄方面 |
昭20. 7.14 | 多聞隊 | 伊53 | 5 | 4 | 西太平洋上 |
昭20. 7.19 | 多聞隊 | 伊367 | 5 | 0 | 敵の警戒厳重 回天発進不能・帰投 |
菊水隊・伊47 (19年11月8日出撃)
昭和19年11月7日午後、回天特別攻撃隊として初めての出撃となる菊水隊員への短刀伝達式が大津島基地で壮大に執り行われた。
翌8日午前9時、伊36、37、47潜水艦の3隻を母艦として、各艦に4基ずつ搭載された「回天」計12基の搭乗員12人が、ウルシー環礁およびパラオのコッソル水道に在泊する敵艦船攻撃のために大津島基地を出撃した。
伊47(艦長:折田善次少佐)に搭乗した隊員は以下の4名。
仁科関夫(中尉)=長野出身・海軍兵学校71期・21歳・没後少佐
福田斉(中尉)=福岡出身・海軍機関学校53期・22歳・没後少佐
佐藤章(少尉)=山形出身・予備学生3期(九州大)・26歳・没後大尉
渡辺幸三(少尉)=東京出身・予備学生3期(慶応大)・22歳・没後大尉
11月19日夕刻、ウルシー環礁に到着し、泊地から30カイリほどの海面で待機、夜になって浮上航行しながらウルシー湾口に向かう。
11月20日午前0時30分、回天3号艇に佐藤少尉を、4号艇に渡辺少尉を乗り込ませて、伊47は潜航進撃を開始。
午前3時、仁科中尉は大津島沖で訓練中に殉職した黒木博司少佐の遺骨の入った小箱を首に吊るして、電動機室から交通筒を通って1号艇へ乗艇。
福田中尉は機械室から交通筒を通って2号艇に乗艇した。
午前3時28分、1号艇(仁科中尉)発進。
仁科中尉は自ら発案・開発した「人間魚雷」に乗り込み、先陣を切って米艦船群に突入。
その5分後に3号艇(佐藤少尉)が発進し、さらにその5分後に4号艇(渡辺少尉が発進。
午前3時42分、残る2号艇(福田中尉)が発進した。
午前5時47分、ウルシー泊地に大火柱と轟音が響いた。
撃沈したのは米油送艦「ミシシネワ」。
そのほかの戦果は不明。
その後、伊47は伊36と共に11月30日に呉に帰還した。
菊水隊・伊36 (19年11月8日出撃)
伊47と共にウルシー泊地を攻撃。
伊36(艦長:板倉光馬少佐)の「回天」搭乗員は以下の4名。
吉本健太郎(中尉)=故障のため発進せず。
豊住和寿(中尉)=故障のため発進せず。
工藤義彦(少尉)=故障のため発進せず。
今西太一(少尉)=京都出身・予備学生3期(慶応大)・25歳・没後大尉
攻撃発進地点に到着し、11月20日午前4時54分、今西艇(今西少尉)が発進。
吉本中尉、豊住中尉の回天は交通筒に固着したため離れず発進できず、工藤少尉の乗った回天は発進直前に操縦室に大量に浸水したため発進できなかった。
伊36は今西少尉の乗った回天1基のみの発進となった。(伊47と合わせて回天5基が出撃)
午前5時47分、ウルシー泊地に大火柱と轟音が響いた。
撃沈したのは米油送艦「ミシシネワ」。
そのほかの戦果は不明。
その後、伊36は伊47と共に11月30日に呉に帰還した。
菊水隊・伊37 (19年11月8日出撃)
伊37(神本信雄艦長)はパラオのコッソル水道に在泊する敵艦船攻撃のために大津島基地を出撃した。
「回天」搭乗員は以下の4名。
上別府宜紀(大尉)=鹿児島出身・海軍兵学校70期・23歳・没後中佐
村上克巳(中尉)=山口出身・海軍機関学校53期・20歳・没後少佐
宇都宮秀一(少尉)=石川出身・予備学生3期(東京大)・23歳・没後大尉
近藤和彦(少尉)=愛知出身・予備学生3期(名古屋高工)・21歳・没後大尉
11月19日午前8時58分、パラオ諸島コッソル水道の西口で浮上したところを米設網艦に発見され、午後から駆逐艦2隻による爆雷攻撃を受け沈没する。
金剛隊・伊56 (19年12月21日出撃)
菊水隊に続いて、昭和19年の暮れに回天特別攻撃隊「金剛隊」が編成された。
参戦する潜水艦は、伊36、47、48、53、56、58の6隻。
各艦ごとに回天4基が搭載された。
昭和19年12月21日、伊56(艦長:森永正彦少佐)が出撃の先陣を切って、アドミラルティ諸島マヌス島のセアドラー港を目指して出撃。
回天搭乗員は以下の4名。
柿崎実(中尉)
前田肇(中尉)
古川七郎(上曹)
山口重雄(一曹)
昭和20年1月11日、セアドラー港の湾口の手前35カイリに到着したが、米機や哨戒艇による警戒が厳しく、突入予定の翌日も同様の状況のため、艦長は突入の一時中止を決断。
11月14日夜に突入を企てたが、哨戒機や警戒艦艇の出動に遭い、潜水艦内の空気量も限界に迫っていたため回天の発進を断念した。
その後、第6艦隊より「耐久試験の見地から、回天を搭載したまま帰投するよう」との命令を受け、2月3日、大津島基地に帰還した。
金剛隊・伊47 (19年12月25日出撃)
昭和19年12月25日、伊47(艦長:折田善次少佐)が大津島基地を出撃。
回天搭乗員は以下の4名。
川久保輝夫(中尉)=鹿児島出身・海軍兵学校72期・21歳・没後少佐
原敦郎(中尉)=長崎出身・予備学生3期(早稲田大)・25歳・没後少佐
村松実(上曹)=静岡出身・海軍水雷学校・23歳・没後少尉
佐藤勝美(一曹)=福島出身・海軍水雷学校・23歳・没後少尉
12月30日早朝、グアム島の西方約300カイリの洋上で、ドラム缶の筏に乗って漂流していた8人の日本兵を発見。
川久保中尉の懇願で、この8人の日本兵を救助した。
彼らは追い詰められたグアム島から脱出した兵で、漂流32日目だったという。
昭和20年の元旦、ウルシーとヤップ島の中間を潜航しながら通過。
1月8日、ホーランディア泊地の飛行偵察報告「巡洋艦、駆逐艦、大小輸送船約50隻が密集停泊中」が入電。
1月11日午前11時、ホーランディア北方約3カイリに進入した。
1月12日午前1時、村松、佐藤を乗艇させたのち、伊47は潜航進入に移り、午前3時に川久保、原を乗艇させ発進地点に到着。
午前3時16分、1号艇(川久保中尉)発進、続いて3号艇(村松上曹)、4号艇(佐藤一曹)が発進。
午前3時26分に最後の2号艇(原中尉)が発進した。
伊47は、「回天」各艇の走行状況を聴音で確かめた後、急速浮上して発進地点から離脱した。
戦果は不明。
金剛隊・伊36 (19年12月30日出撃)
伊号第36潜水艦(艦長:寺本巌少佐)は菊水隊のときと同様、ウルシー泊地を目指して出撃。
「回天」搭乗員は以下の4名。
加賀谷武(大尉)=樺太出身・海軍兵学校71期・24歳・没後中佐
都所静世(中尉)=群馬出身・海軍機関学校53期・20歳・没後少佐
本井文哉(少尉)=新潟出身・海軍機関学校54期・19歳・没後大尉
福本百合満(上曹)=山口出身・海軍水雷学校・24歳・没後少尉
昭和20年1月11日、潜航したままヤウ島に座礁したが、翌日の午前2時、かろうじて離礁に成功。
1月12日午前3時42分、加賀谷艇が発進し、続いて本井艇、都所艇が発進。
福本艇は高圧空気が漏れ、苦しい状態だったが、3時57分に発進していった。
4基の「回天」を発進後、伊36はすぐに深々度潜航を行ったが、午前4時1分に哨戒艇の爆雷攻撃を受ける。
ウルシー泊地内では弾薬輸送艦「マザマ」の40ヤード離れた場所で爆発が起こった。
同艦は沈没には至らなかったが、回天の司令塔が艦艇に突き刺さっていたことから、この攻撃は回天のものと推測された。
同日早朝、揚陸艦が回天の攻撃で沈没。
伊36は、午前5時57分、6時、6時10分、6時13分と立て続けに爆発音を遠くに聞いた後、帰還した。
金剛隊・伊53 (19年12月30日出撃)
「回天」の搭乗員は以下の4名。
久住宏(中尉)=埼玉出身・海軍兵学校72期・22歳・没後少佐
久家稔(少尉)=失神により発進せず。
伊藤修(少尉)=鹿児島出身・海軍機関学校54期・20歳・没後大尉
有森文吉(上曹)=佐賀出身・海軍水雷学校・26歳・没後少尉
昭和20年1月12日午前0時頃、、コッソル水道に接近し、1号艇(久住中尉)を発進させたが、潜水艦を離れ、機関を発動した直後、機械室から突如出火。
1号艇は伊53から200mのところで5分後に沈没。
2号艇の久家少尉は、悪性のガスを吸い失神してしまい発進できなかった。
艦長は5分の発射間隔を3分に短縮して伊東艇、有森艇を発進させる。
その後、帰投命令により、1月26日、呉に帰還した。
金剛隊・伊58 (19年12月30日出撃)
伊58(艦長:橋本以行少佐)の「回天」搭乗員は以下の4名。
石川誠三(中尉)=茨城出身・海軍兵学校72期・21歳・没後少佐
工藤義彦(中尉)=大分出身・予備学生3期(大分高商)・21歳・没後少佐
森稔(二飛曹)=北海道出身・甲種予科練13期(道立滝川中)・18歳・没後少尉
三枝直(二飛曹)=山梨出身・甲種予科練13期(県立甲府中)・18歳・没後少尉
昭和20年1月12日、グアム島西海岸のアプラ港の湾口まで32kmに接近し、すぐさま潜航して発進地点に向かう。
午前2時4分、石川中尉、工藤中尉が回天に乗艇して発進準備を完了。
午前3時10分、発進地点到着と同時に石川艇が発進。
続いて3時16分に森艇、同24分に工藤艇、同27分に三枝艇が発進した。
森稔二飛曹と三枝直二飛曹は、18歳そこそこの予科練出身者最初の回天搭乗員。
突入の日が近づいても、2人は底抜けの明るさで無邪気に笑いあっており、それを垣間見る潜水艦乗員たちは、いたたまれない気持であったという。
伊58は離脱しながら明るくなるのを待って観測したところ、アプラ港にわずかに黒煙を確認。
しかし、確かな戦果を確認できないまま待避し、1月22日に呉に帰還した。
金剛隊・伊48 (20年1月9日出撃)
伊48(艦長:当山全信少佐)はウルシー泊地へ出撃。
「回天」搭乗員は、菊水隊として出撃したが発進できず引き返した吉本中尉と豊住中尉を含む以下の4名。
吉本健太郎(中尉)=山口出身・海軍兵学校72期・20歳・没後少佐
豊住和寿(中尉)=熊本出身・海軍機関学校53期・21歳・没後少佐
塚本太郎(少尉)=茨城出身・予備学生4期(慶応大)・21歳・没後大尉
井芹勝見(ニ曹)=熊本出身・海軍水雷学校・22歳・没後少尉
伊48は大津島基地を出撃してからは一切連絡がなく、そのまま消息不明となった。
塚本太郎少尉は兵科4期予備学生のトップを切って出陣。
当初、長男であるため志願を断られたが、「弟がいますからかまいません」と血書を書いて嘆願した。
1月31日、第6艦隊が呉への帰投命令を出したが、応答はなかった。
千早隊・伊368 (20年2月20日出撃)
昭和20年2月19日の米軍による硫黄島への上陸開始を受け、第6艦隊は急遽、伊368、370、44の3隻による回天特別攻撃隊「千早隊」を編成した。
攻撃目標は「硫黄島付近を航行中の敵有力艦船」。
これまでの菊水隊や金剛隊が行った泊地内の停泊艦への奇襲攻撃よりもはるかに厳重な警戒をかいくぐりながら、浮上充電や搭乗員乗艇を行い、さらには「回天」発進後は、「回天」が交戦している水域の中で更なる敵艦探索および突入を行うため、より困難で危険なことは明らかだった。
伊368(入沢艦長)の「回天」搭乗員は以下の5名。
川崎順二(中尉)=鹿児島出身・海軍機関学校53期・22歳・没後少佐
石田敏雄(少尉)=山口出身・予備学生4期(拓殖大)・24歳・没後大尉
難波進(少尉)=東京出身・予備学生4期(中央大)・23歳・没後大尉
磯部武雄(二飛曹)=東京出身・甲飛予科練13期(麻布中)・17歳・没後少尉
芝崎昭七(二飛曹)=北海道出身・甲飛予科練13期(旭川商)・18歳・没後少尉
伊368は伊370(光基地から出撃)と共に硫黄島へ向かったが、攻撃決行の予定期日を過ぎても両潜水艦からの連絡は一切なかった。
3月6日、第6艦隊は作戦中止、帰還を命じたが、2隻とも帰らなかった。
千早隊・伊44 (20年2月23日出撃)
伊44(川口源平衛艦長)の「回天」搭乗員は以下の4名。
土井秀夫(中尉)
亥角泰彦(少尉)
館脇孝治(少尉)
菅原彦五(二飛曹)
昭和20年2月25日夜、計画通りに硫黄島南西約50カイリの海域に到着。
敵駆潜艇の音源が接近してきたことから、深々度に潜航。
翌日になると敵捜索艦艇の音源が増え、いつ爆雷攻撃が始まってもおかしくない状況となる。
2月27日朝、潜航時間はすでに30時間を超過し、艦内の酸素は少なくなり、炭酸ガス濃度は大気の200倍になり、呼吸すら苦しい状況となる。
川口艦長は、米軍泊地への接近は難しいと判断。
水中低速で脱出を図り、午後10時に浮上。
実に連続潜航47時間の末、無事に離脱に成功した。
その後、「回天」突入の機会を得ず帰還する。
神武隊・伊36 (20年3月2日出撃)
米軍大部隊による硫黄島への上陸開始を受けて「千早隊」が出撃したが、思うような戦果は上げられなかった。
そこで第6艦隊は伊36、56による回天特別攻撃隊「神武隊」を編成し、硫黄島方面への出撃を命じた。
伊36(艦長:菅昌徹昭少佐)の「回天」搭乗員は以下の4名。
柿崎実(中尉)
前田肇(中尉)
古川七郎(上曹)
山口重雄(一曹)
彼らは金剛隊の伊56でアドミラルティ諸島の攻撃向かったが、発進叶わず帰還した組である。
しかし、3月6日、今回も第6艦隊からの帰投命令を受け、9日に大津島基地に戻り、回天と搭乗員を艦から降ろし、翌10日に呉に帰還した。
多々良隊・伊56 (20年3月31日)
昭和20年3月23日、沖縄戦の火蓋が切られ、沖縄周辺の米軍艦船を攻撃するために、伊47、56、44、58の4隻で「多々良隊」が編成された。
伊56(艦長:正田啓二少佐)の「回天」搭乗員は以下の6名。
福島誠二(中尉)=和歌山出身・海軍兵学校72期・21歳・没後少佐
八木寛(少尉)=山口出身・予備学生4期(関西大)・23歳・没後大尉
川浪由勝(二飛曹)=北海道出身・甲飛予科練13期(留萌中)・18歳・没後少尉
石直新五郎(二飛曹)=岩手出身・甲飛予科練13期(県立遠野中)・18歳・没後少尉
宮崎和夫(二飛曹)=北海道出身・甲飛予科練13期(市立夕張中)・18歳・没後少尉
矢代清(二飛曹)=東京出身・甲飛予科練13期(高輪工業高)・19歳・没後少尉
伊56は、昭和20年3月31日に大津島基地を出撃したが、そのまま行方不明となった。
多々良隊・伊44 (昭和20年4月3日出撃)
伊44(艦長:増沢誠司少佐)の「回天」搭乗員は以下の4名。
土井秀夫(中尉)=大阪出身・海軍兵学校72期・22歳・没後少佐
亥角泰彦(少尉)=京都出身・予備学生4期(東京大)・22歳・没後大尉
館脇孝治(少尉)=福島出身・予備学生4期(中央大)・23歳・没後大尉
菅原彦五(二飛曹)=宮崎出身・甲飛予科練13期(電通工)・18歳・没後少尉
彼らは「千早隊」で出撃して帰還した組である。
出撃以来、伊44からの連絡がなかったが、第6艦隊は4月14日に沖縄とマリアナ諸島を結ぶ線上に進出して、洋上航行中の米艦船を攻撃するよう命じた。
その後、4月21日に帰投を命じたが、帰還しなかった。
米軍の記録によると、4月17日に伊44を撃沈したとされている。
振武隊・伊367 (昭和20年5月5日出撃)
米軍の艦艇停泊地では、回天突入に対する警戒が強化されたため、回天戦は停泊艦攻撃から航行中の輸送船団を攻撃する戦法へと転換された。
その先駆けとして「天武隊」が編成されたが、この成果を高く評価した第6艦隊は、「回天」による特攻を拡大、継続する方針を決定。
伊366、367の2隻で回天特別攻撃隊「振武隊」を編成した。
しかし、伊367は、光基地での試験潜航中にB29の投下した磁気機雷に触れてしまい、沈没は免れたものの出撃不能となった。
このため「振武隊」は伊号第367潜水艦だけでの展開となった。
伊367(艦長:武富邦夫少佐)の「回天」搭乗員は以下の5名。
藤田克己(中尉)=故障のため発進せず。
小野正明(一飛曹)=青森出身・甲飛予科練13期(昭和中)・18歳・没後少尉
千葉三郎(一飛曹)=岩手出身・甲飛予科練13期(県立黒沢尻工業)・19歳・没後少尉
岡田純(一飛曹)=故障のため発進せず。
吉留文吉(一飛曹)=故障のため発進せず。
昭和20年5月5日午前10時、短波マストに大きな鯉のぼりを翻しながら大津島基地を出撃し、沖縄とサイパンを結ぶ米軍補給航路の中間水域へ向かった。
サイパンから北西約450カイリの沖縄を結ぶ線上を航行中、水中聴音と輸送船団の電波を探知。
「回天戦用意」の号令が3度発令されたが、いずれも距離が遠すぎたことから発進には至らなかった。
洋上行動の日数が20日以上経つと「回天」の故障が多発するという戦訓からか、5月26日に第6艦隊から帰投命令が下った。
しかし、艦長は搭乗員から1日の猶予の願いを受け、50カイリ移動し敵を待つことにした。
翌朝午前3時30分、搭乗員たちの予感が的中し、北方約4万mの遠距離に船団を発見。
午前4時、潜航を開始し、長時間にわたって接近しようとしたが、近寄ることが出来ず、午前7時15分、「回天戦用意」の号令が下った。
米船団は護衛の駆逐艦を従え沖縄方面へ向かう十数隻の輸送船。
午前9時、前甲板に搭載していた1号艇(藤田中尉)、2号艇(吉留一飛曹)に発進命令が下ったが、両艇とも発進直前に電動縦舵機が故障し発進を中止。
午前9時13分、後甲板から3号艇(千葉一飛曹)が発進し、続いて5号艇(小野一飛曹)も発進。
小野艇は気蓄器の高圧酸素が漏れ、航続力が低下していたが、次々と「回天」が故障する中、艦長はためらいながら、あえて発進を命じたという。
4号艇(岡田一飛曹)は発動桿を押したが“熱走”せず、高圧酸素の圧力計の針がどんどん下がり始めた。(“冷走”という)
このため、最後の固定バンドを外す直前に発進を中止させた。
無事に発進した3号艇と5号艇の推進器音はやがて遠くに消え、午前9時51分頃、爆発音が2回、潜水艦内の乗員に聞こえた。
距離は約2万m先、「両艇命中」と判断されたが、伊367は「回天」を発進させた後、深く潜航し、そのまま北方へ待避を続けたため爆発の状況を確認することはできなかった。
5月27日夜9時まで潜航した後に浮上、5月28日から帰途につき、6月4日午後に大津島基地に帰還。
その後、光基地に回航し、「回天」3基を降ろして、翌5日に呉に帰還した。
多聞隊・伊53 (20年7月14日出撃)
敗戦が色濃くなった昭和19年7月中旬、回天特別攻撃隊「多聞隊」が潜水艦6隻により編成された。
先陣を切って出撃したのは伊号第53潜水艦(艦長:大場佐一少佐)で、沖縄とフィリピンの中間海域を目指した。
「回天」搭乗員は以下の6名。
勝山淳(中尉)=茨城出身・海軍兵学校73期・20歳・没後少佐
関豊興(少尉)=秋田出身・予備生徒1期(明治学院大)・22歳・没後大尉
荒川正弘(一飛曹)=山形出身・甲種予科練13期(法政大)・21歳・没後少尉
川尻勉(一飛曹)=北海道出身・甲飛予科練13期(北見中)・17歳・没後少尉
坂本雅刀(一飛曹)=故障のため発進せず。
高橋博(一飛曹)=故障のため発進せず。
7月20日頃、バシー海峡東方海域に到着。
7月24日午後2時過ぎ、米輸送船団を発見したが、戦闘態勢が整ったときには方位角が攻撃には無理な態勢だった。
艦長は攻撃を断念しようとしたが「回天」搭乗員からの強い要請で、午後2時25分頃、1号艇(勝山中尉)を発進させ、後続の「回天」発進は中止した。
約40分後に目標方向で爆発音。
午後3時15分頃、炎上する米駆逐艦「アンダーヒル」を潜望鏡で確認。(のちに同艦は真っ二つに割れて沈没したという)
これは、誰が乗った「回天」が戦果を挙げたのかが確定できた唯一の戦闘である。
その後、伊53は引き続きバシー海峡東方海域で敵を待った。
7月27日午後1時頃、伊53は南下中の数十隻もの大輸送船団のど真ん中にいることを確認。
一旦、船団の後方に離脱して攻撃態勢を整えたが、船団は遠くに離れすぎ、魚雷攻撃は無理な状況となる。
しかし、「回天」搭乗員の強い要請を受け、艦長は2号艇(川尻一飛曹)だけを発進させ、その約1時間後に大音響が轟いた。
その後、8月4日午前0時30分頃、元の配備水域に戻ったところ、米駆逐艦に捕捉され爆雷攻撃を受ける。
休みなく爆雷攻撃は続き、主蓄電池が破損すると、一切の動力が停止し、電灯も消えた。
「回天」搭乗員たちは発進を催促。
艦長は母潜がいつまで耐えられるか疑問に思い、全艇の「回天戦用意」を命令。
訓練では経験しなかった深度40mからの発進である。
午前2時30分頃、5号艇(関少尉)が発進し、約20分後に大音響、探知すると周囲の対潜艦艇が1隻減っていた。
続いて3号艇(荒川一飛曹)が発進し、午前3時32分に大爆発音が響き、敵の推進器音が2隻に減り、しばらくして推進器音は聞こえなくなった。
4号艇(高橋一飛曹)、6号艇(坂本一飛曹)は至近距離での爆雷の衝撃により機器が故障、艇内で意識を失った2人は潜水艦内に収容された。
かろうじて危機を脱した伊53は、8月7日頃に帰投命令を受信。
8月12日に大津島基地に到着し、翌13日に呉に帰還した。
多聞隊・伊367 (20年7月19日出撃)
伊367(艦長:今西三郎大尉)は、「振武隊」に続く2回目の出撃。
作戦海域は沖縄南東方約400カイリで、沖縄とグアム間の米軍輸送路への攻撃が任務。
「回天」搭乗員は、「振武隊」の時の帰還者3名を含む以下の5名。
藤田克己(中尉)
岡田純(一飛曹)
吉留文夫(一飛曹)
安西信夫(少尉)
井上恒樹(一飛曹)
7月27日頃に3万mほど先に集団音を聴音。
8月7日頃の夜、潜航中に敵駆逐艦らしき2隻が頭上を通過。
しかし闇夜の中での魚雷攻撃、回天攻撃は困難だった。
8月9日、突然、第6艦隊司令部から帰投命令を受信。
「私は帰れなません」という藤田中尉の言葉に、艦長は「回天」搭乗員の心情を思い、もう1日索敵を続けた。
しかし、その日も重ねて帰投命令が入電したたため、帰途についた。
豊後水道を過ぎ、8月15日正午、玉音放送を聴いたが、雑音がひどく殆ど聞き取れなかった。
その1時間後に玉音放送の内容を伝える機密電報が入ったが、艦長は乗員の動揺を考慮し、そのまま航行を続行し、大津島基地に到着後、甲板に集まった乗員全員に戦争終結を伝えた。
(参考:『人間魚雷回天~命の尊さを語りかける、南溟の海に散った若者たちの真実~』 ザメデシアジョン 2006年第3刷発行)
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