平成20年4月11日
安政4年2月11日(1857年3月6日)〜昭和22年(1947年)1月30日
福井県敦賀市・敦賀市立博物館横でお会いしました。
1857年(安政4)、薬種問屋山本九郎右衛門の次男に生まれる。
幼名は亀次郎。
早くに母に死別、当時の有力商人だった回漕業者大和田荘兵衛しょうべえの養子として育つ。
1878年(明治11)、荘兵衛の姉しげ、婿荘七しょうしち(旧姓伊東)夫妻の娘万寿子と結婚、荘七家の養子に入る。
この後、義父との折合に悩み、しばしば衝突する。
幼少期の境遇やこの間の苦労が、後に辣腕家となる下地を育てたらしい。
1887年(明治20)、二代目荘七を襲名、経営の実権を任された亀次郎は、1892年(明治25)、大和田銀行を創立。
1907年(明治40)には敦賀商業会議所の初代会頭に就任、中央の政官界に通じながら、敦賀港の整備、対外貿易の促進等に奔走し、敦賀経済の発展に尽力した。
1925年(大正14)、敦賀港湾の修築工事をめぐって反対派と対立、町会が二分したため、商業会議所会頭を辞任。
1916年(大正5)には藍綬褒章を受けている。
(『みなとつるが山車会館・別館』の展示資料より)
大和田荘七翁寿像 (福井県敦賀市・敦賀市立博物館横) 昭和7年6月17日銅像建立 昭和27年4月石像再建 平成元年7月移設 台座高190.5、幅3.5、厚83、総高390.5 (平成20年4月11日) |
碑文
二代大和田荘七翁頌徳表/二代大和田荘七翁 風貌温和ニシテ謹厳人格高潔ニシテ恭謙仁徳ノ徳ヲ備フ聡明叡智ニシテ識見ハ時/流ヲ超越シ才気ハ縦横ニ煥發シテ謬ラス蓋シ當代稀ニ見ル士魂商才ノ巨人也 幼ニシテ学ニ志シ長シ/テ實業ヲ以テ身ヲ立テ勤勉力行シテ一家ヲ治メ産業ヲ興シ進ンテ社會公共ノ為ニ竭シ國事ヲ奔走セル/ノミナラス献金寄附賑恤等ノ美事多ク明治二十二年三月二十七日海防費献納ニ付黄綬褒章ヲ賜ヒ尋テ/大正五年三月十九日産業功労者トシテ藍綬褒章ヲ賜ヒ又同八年九月二十二日恩賜財團濟生會ニ寄附シ/功績顕著ナル廉ヲ以テ紺綬褒章ヲ賜ヒテ其ノ善行ヲ表彰セラレタリ翁ハ胸中恒ニ敦賀開發ノ雄圖ヲ抱懐シ夙ニ敦賀築港工事ノ要ヲ力説シテ國論ノ喚起ニ努メ浦塩及北鮮ヘノ直通航路ヲ拓キ海運倉庫業/ヲ経営シテ海外貿易ノ發展ヲ促シ特ニ意ヲ當町商工ノ發達ニ注キ商工會議所ヲ創設シテ初代ノ會頭ニ/選ハレ銀行米穀取引所ヲ特設シテ町勢ノ伸暢ヲ図リ或ハ農事ノ改良を劃策シテ公衆ノ利益ヲ増進セシ/メ又屡々教育産業救災済等ニ義捐シテ社會公益事業ニ盡瘁セル等當町ノ為寄與セラレタル事績枚擧/ニ遑アラス就中築港工事ハ敦賀開發ノ根源ニシテ敦賀ノ盛衰消長ハ懸ツテ此ノ成否ニ在リタリサレハ/翁ハ該事業ヲ以テ畢生ノ事業トシ渾身ノ努力ト確固不動ノ自信ヲ以テ町當局ヲ授ケ東奔西走シテ政府當路者ヲ動カシ幾多ノ辛酸ヲ歴テ索志彌々堅ク此カ為ニハ一身一家ヲ顧ミス如何ナル犠牲モ敢ヘテ意/ニ介スルコトナク専心一意其ノ大成ヲ期シタリ 不撓不屈ノ努力ハ遂ニ功ヲ奏シ大正十一年九月/敦賀港第二期修築工事ノ着手ヲ見爾来十星霜巨額ノ國帑ヲ費シ以テ今日ノ完成ヲ見ル是レ直ニ翁カ終始一貫至誠愛郷ノ結實ニシテ感激深謝惜ク能ハサル所ナリ 仍テ本町ハ町會ノ決議ニ依リ此地ヲ特選/シテ翁ノ銅像ヲ建設シ永遠ニ功績ヲ顕彰シ以テ其ノ偉徳ヲ頌ス/昭和七年壬申六月十七日 敦賀町長陸軍少将従四位勲三等功四級加藤惣次郎記
説明
本像は、昭和7年、敦賀港第二期修築工事が完成したのを機に、本市の産業、金融、港の発展等に大きな功績があった2代大和田荘七翁を顕彰するため、翁が寄付した敦賀町役場(昭和8年竣工)の建設敷地内(元敦賀市役所、現敦賀市民文化センターの敷地)に建立された。
しかし、台座に嵌め込まれた銅板に「昭和十八年六/月従来の銅像/供出の貯め茲/に市政十五周/年を卜し再び/石像として建/立したものである/昭和二十七年四月/敦賀市長/川原與作」とあるように、第二次大戦中、銅像を供出し、戦後石像として再建されたものである。
その後、平成元年、敦賀港開港90周年記念事業として市民文化センター前に大和田翁の銅像が新設されることとなったので、本像を翁ゆかりの元大和田銀行本店である市立博物館敷地に移設したものである。
(敦賀市立博物館発行『1996 郷土の碑文展』より)
敦賀市立博物館(旧大和田銀行本店) (福井県敦賀市相生町7−8) (平成20年4月11日) |
大和田銀行
1892年(明治25)、二代目大和田荘七が、当地(蓬莱町)において創業。
当初は資本金10万円の株式会社として発足したが、翌年より荘七の個人経営となる。
順調に業績を伸ばし、日清戦争後には、大阪、武生、福井、粟田部、金沢等の支店を開設、急速に地歩を固めていった。
1918年(大正7)、取扱高が個人経営の枠を超えたので再び株式会社組織に戻し、やがて資本金も500万円に増資するに至った。
1927年(昭和2)には堂々たる洋風建築の本店(現市立博物館)を新築、1936年には敦賀25銀行を併合し、支店数17を数える中核銀行へと成長する。
しかし、1945年(昭和20)、戦時下の一県一行主義体制により三和銀行に併合され、半世紀に及ぶ歴史に幕を引くことになった。
(『みなとつるが山車会館・別館』の展示資料より)
〔市〕旧大和田銀行本店(現敦賀市立博物館)一棟
指定年月日 平成5・1・12
所在地及び管理者 敦賀市相生町 敦賀市
時代 昭和初期
鉄筋コンクリート造 地上3階 地下1階
軒高17メートル 延面積1,450平方メートル
この建物は、近代敦賀の発展に大きな業績を残した2代大和田荘七が、明治25年に創業した大和田銀行の本店で、設計は永瀬・吉田建築事務所、施工は清水組(現清水建設)京都支店、大正14年に着工し、昭和2年に竣工した。
当時の国際貿易港敦賀を象徴し、北陸地方で最初にエレベーターが設置された近代洋風建造物で、屋内外の各所に高度な技術を駆使した独特の意匠や幾何学模様などを施し、見るべきものが多い。
1階と地階の金庫室は銀行業務用で、2階は貴賓室など迎賓・社交施設に、3階は舞台付の公会堂に、地階はレストラン、屋上はビヤガーデンに利用されていた。
昭和20年7月、国策により三和銀行に吸収合併されて、同行敦賀支店となり、昭和37年に福井銀行港支店に引き継がれたが、昭和52年の同支店廃止にともない敦賀市が寄贈を受けた。
県内を代表する昭和初期の近代建造物として貴重である。
また、隣接するみなとつるが山車会館別館は初代大和田銀行本店の建物である。
敦賀市教育委員会
(説明板より)
大和田荘七(2代目)
荘七は敦賀旭町(現相生町)の薬種商「山本九郎左衛門」の二男として、安政4年(1857)2月11日に生まれ、幼名を亀次郎といい9人兄弟の末っ子であった。
幼少のころは勉強には背を向けていたが、あるとき学問の大切なことを諭され心機一転学に志し、17歳のとき開校したばかりの就将校に入学、8年の課程を1年半で修了した。
特に数学は指導にあたった教師の影響によって、特別に興味を持ち秀でた才能を発揮し、上京して数学の奥義を極め学者になりたいと希望を抱くようになった。
かねて彼の才能を見込んでいた初代大和田荘七が、どうしても養子に欲しいと日参して口説き落とし、明治11年(1878)に大和田家の養子に入った。
彼の活躍についてはいまさら取り立てて述べる必要はないが、敦賀港の基盤確立とこれに関連する事業を私財を投入してまでも推進したことは余りにも有名で、知らない人はいないだろう。
彼は貿易・金融ばかりではなく町づくり・社会奉仕・災害救恤・荒廃防止植林事業等はもとより、教育の推進にも大きな貢献をしていることを忘れてはならない。
最初の教育との関わりは、明治24年(1891)1月に喜多村作平・打它弁次郎の二氏とともに小学校委員に就任したのが最初である。
以後永年にわたって敦賀の教育振興ばかりに留まらず、県内外の教育振興に再三にわたって私財を寄贈している。
敦賀においては校舎の建設に多額の寄付を惜しまず、またピアノがない小学校には購入寄贈し、市立敦賀文庫の開設にあたっては多数の図書の購入に協力している。
町立敦賀商業学校の商議員としては「ロシア語」教育の導入を提唱し、さらに文部省に敦賀商業学校の高等商業学校への昇格を働きかける一方、ロシア語を中心とする「外語学校」の新設を要請するなど、敦賀の将来展望にたった教育の推進に努めた。
敦商の高商昇格や外語学校の新設は実らなかったが、大正7年(1918)4月には県立移管を実現し、同時に中等学校卒業程度の学力を有する者を対象とする「日露貿易専修科」の加設と、校舎内に「対露貿易商品館」の開設実現に活躍した。
さらには幼児教育の重要性にも着目し、大正5年(1916)2月早翠幼稚園の設立に必要な敷地と建設資金を提供した。
また、大正15年(1926)8月には敦賀託児所にも敷地の永久無償貸与を行い、開所資金も提供している。
こうして敦賀の発展のため活躍してきた彼も、晩年は別府に住居を移し、昭和22年(1947)1月30日90歳で永眠した。
彼の敦賀市民に残してくれた偉業と功績を讃え、市立博物館に石像が建てられている。
(敦賀市教育委員会発行『敦賀市教育史・人物編他』より)
訪問記
大和田荘七氏の銅像碑文・経歴・展示資料について『みなとつるが山車会館』並びに『市立博物館』職員の皆さんから資料のご提供をいただきました。
ご協力頂きありがとうございました。
(平成20年4月11日訪問)
平成20年4月11日
福井県敦賀市・敦賀市民文化センターでお会いしました。
大和田荘七翁之像 (福井県敦賀市・敦賀市民文化センター) (平成20年4月11日) |
二代 大和田荘七 翁
安政4年(1857年)敦賀に生まれる
明治 大正 昭和を通じて終始一貫郷土における産業の発展にその永き生涯を捧げる
敦賀を活動の舞台として 海運業をはじめ金融業など各種分野の事業を経営
明治から昭和の初期にかけ 敦賀港の開発振興に尽力され 近代港湾の基礎を築いたその偉大なる功績は永遠不滅である
明治32年敦賀港が世界に門戸を開いて以来 ここに開港90周年を迎えるにあたり銅像を建立し 21世紀に向けての敦賀港発展の礎とする
平成元年7月21日
敦賀市長 高木孝一
(銘板より)
敦賀市民文化センター (福井県敦賀市桜町7−1) (平成20年4月11日) |
この市民文化センターは、市制40周年を記念し、文化の殿堂として、由緒ある旧市庁舎跡地に建設したものであり、総工費10億円余を投じ、昭和51年10月着工 同52年11月竣工いたしました。
旧敦賀市庁舎は昭和8年故大和田荘七翁が、敦賀町庁舎として寄贈されたものであり、昭和12年市制が施かれ、自来市庁舎として、市政の発展と地方自治の振興に大きな役割を果たしてまいりました。
ここに全市民願望の文化センターが、その偉容とともに、文化都市の創建をめざし大いに活用され、馥郁として豊かな郷土の文化芸術の発展向上と市勢の躍進を念願してやみません。
尚 このセンター建設に際し 格別の御厚意を戴いた方々に深甚なる敬意と感謝の意を表します。
昭和52年11月3日
敦賀市長 矢部知恵夫
(説明碑・碑文)
萬象閣跡 (敦賀市民文化センター) (平成20年4月11日) |
萬象閣跡
ここは萬象閣の建っていた跡地です。
萬象閣とは、明治19年(1886)6月から昭和20年(1945)5月まで、迎賓館兼会議場として使われた木造瓦葺2階建(72坪5合)の建物です。
当初有力商人32名が出資し、建設費1,100円で建てられ、明治20年から公営(連合町村役場が管理)となり、連合町村会、各種選挙、徴兵検査、町の行事やその他一般町民の会合などに盛んに利用されました。
明治41年(1908)には、隣に貴賓館が新築され、翌42年の大正天皇(当時皇太子)の行啓以後、皇族の御来敦の際の御休憩または御宿泊に充てられました。
昭和20年(1945)、本土空襲が激化し始めると、建物疎開政策が断行され、隣にあった市庁舎(昭和8年、当時敦賀町役場として竣工)を守るため、同年5月、遂に取り壊され60年に亘る幕を閉じました。
(説明板より)
ありし日の萬象閣 (説明板より) |
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