大和田建樹 おおわだ・たてき

安政4年4月29日(1857年5月22日)〜明治43年(1910年)10月1日


独学で国文学を研究し、東京帝国大学・東京高等師範などの教員を勤める。
美文韻文の集成などで名を上げる一方、唱歌の作詞にも力を注ぎ『明治唱歌』『尋常小学帝国唱歌』などの唱歌集を刊行。
明治33年(1900年)に刊行した『地理教育鉄道唱歌』5冊は広く世に知られた。


大和田建樹の生家跡



大和田建樹の生家跡
(愛媛県宇和島市丸之内2丁目)





(平成19年11月6日)

市指定 史跡
大和田建樹の生家跡

「汽笛一声新橋を」と、あまねく世に知られた「鉄道唱歌」の作者大和田建樹おおわだたてきは、安政4年(1857)4月29日、この地で生まれ、明治9年(1876)広島外国語学校入学のため出郷するまでの、学問修業の少年時代をここで送った。
その後、建樹は上京して、さらに国文学を研究し、東京大学古典講習科講師・高等師範学校(東京)教授などになったが、35歳の時、教職を退き、専ら著作に従事した。
著書は「謠曲通解」など国文研究書のほか、文学史・辞典・随筆・紀行・詩歌・唱歌等97種150余冊に及んでいる。
建樹は明治43年(1910)10月1日、54歳で死去した。

昭和38年2月11日
宇和島市教育委員会

(説明板より)


大和田建樹

幼少の頃より藩校に学んだが、学才優れ、14歳の時に藩公に召されて四書を進講するなど、早くも国文学者としての萌芽をあらわしている。
若くして広島に遊学して英学を修め、ついで上京。
さらに研鑽を積んで、ついに東京大学講師、高等師範学校教授等を歴任。
後に職を辞してからは、専らその広範な学識を駆使して多彩な作家活動を始める。
種々の国文学の著作をはじめとし、作歌、作詞、紀行文、謡曲の注解、辞典編纂にまで及び、特に旅を愛して、自然のうつろい、人生のあわれを込めて歌い上げた歌は、実に1300余首となっている。
旅を愛した詩人建樹は、又故郷を懐かしむ望郷の人であった。
生涯たびたび帰郷して、ふるさとの歌を作っている。
明治43年(1910年)10月1日、東京牛込の法身寺で病死した。
行年54歳。

(参考:宇和島文化協会発行 『宇和島の自然と文化(6訂版)』 平成11年)

(平成22年11月30日追記)




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