(別名:八幡山城・八幡城)
滋賀県近江八幡市宮内町
長享元年(1489)頃、六角氏の臣、伊庭氏が拠っていた。
天正13年(1585)豊臣秀次が近江20万石に封じられ、この地に築城。
山上の八幡社を移し、安土に残る城の一部と、城下町を移転させて築いた。
翌14年、秀次は信長が安土に下したと同様の政令を発し、城下の繁栄を図った。
城下町は八幡山下町と呼ばれ、商業政策に基く碁盤目状であった。
鉄砲町、博労町、鍛冶屋町などの町名や、町割りはほぼ当時のまま残っている。
同18年、秀次は小田原征伐の軍功に、尾張一国、北伊勢5郡100万石の太守として清州城に移り、替って京極高次が大溝1万石から2万8千石の領主として入城した。
高次は秀次の政策を継承していたが、文禄4年(1595)大津城に移封され、廃城となり、八幡の町には代官が置かれた。
(参考:大類伸監修『日本城郭辞典』)
平成20年4月14日
八幡城跡
1585年(天正13年)、豊臣秀次によって築城。
標高271.9mの八幡山最頂部に本丸をもうけ、二の丸、西の丸、北の丸、出丸が配置された一大要塞であったと推測されます。
現在は石垣を残すのみですが、本丸跡には、瑞龍寺が建っています。
(八幡山ロープウェーのチラシより)
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西の丸 | 西の丸から見た琵琶湖 |
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北の丸 | 北の丸から安土城跡を見る |
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本丸下の石垣 (平成20年4月14日) |
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村雲御所 瑞龍寺門跡(本丸跡) 昭和36年(1961年)に主要建物は京都から移築された。 |
村雲御所瑞龍寺門跡由緒
村雲御所と称し、日蓮宗唯一の門跡寺院である
後継者は皇族、五攝家、、華族から出て、代々尼宮が住持する慣わしであった
当所は天正13年(1585)関白秀次公が八幡城を築いた要害の地であった
当門跡は関白豊臣秀次公の生母瑞龍寺殿日秀尼公が秀次公の菩提を弔うために文禄5年(1596)正月に創建されたもので御陽成天皇から村雲の地と瑞龍寺の寺号及寺禄1千石を賜わりまた紫衣の着用と菊の御紋章を許されて勅願所となった
暦朝の尊崇も浅からず寺格は黒御所と定められこれによって村雲御所と呼ばれることになった
(説明板より)
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展望館 (二の丸跡) 1階にお土産の販売、2階に資料の展示 (平成20年4月14日) |
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展示資料 |
八幡山城の歴史と環境
八幡山城は、滋賀県近江八幡市北方の八幡山(鶴翼山)に所在する城跡で、当時は、後背から西にかけて津田内湖(昭和46年干拓)、東に西の湖が広がっており、内湖に囲まれた環境にありました。
豊臣政権下の天正13年(1585年)には羽柴秀次に近江43万石が与えられ、この八幡山に八幡山城が築かれました。
築城に際しては、山麓に存在していた願成就寺が八幡山南方にある日杉山の南麓へ移動させられたことが史料に伝えられており、山腹に鎮座していた日牟礼八幡宮の上社も同じく、麓の下社と合祀されたことが伝わっています。
本丸および二の丸、北ノ丸、西ノ丸、出丸の城郭施設は標高283メートルの山頂に位置し、居館群は標高約130メートルの山腹の谷地形に平坦地を設けて造られています。
大手道は、居館群最高所に位置する秀次館から麓に下り、築城時に開削されたと伝えられる八幡堀に至ります。
この大手道両側には雛段状に家臣団の居館群が広がっていて、東側の尾根と西側の尾根と八幡掘がセットで惣構えを構成していると考えられます。
天正18年(1590年)に秀次が尾張清洲に移った後は、京極高次が代わって、2万8000石で城主となり、秀次が自害する文禄4年(1595年)に聚楽第と同じく破却されました。
尚、昭和42年に、山頂本丸部分から山麓にかけて集中豪雨によって土砂崩れが発生しました。
御来訪の皆様に安心して見学していただけるよう近江八幡市では、関係各局と検討を重ね、さらにその検討資料となるように平成12年度より確認調査や測量調査などを行っています。
八幡山城の特徴
織田・豊臣政権下で築城されたいわゆる織豊系城郭は、一般的に防御空間と居住空間が一体になっています。
それに対して八幡山城は防御空間としての山城(詰城)と居住空間としての居館群が分離する構造となっており、織田・豊臣政権以前の戦国期城郭に見られるような時代を逆行した二元的な分離形態をとっています。
これは、八幡山城が築城された天正13年(1585年)が、小牧・長久手の戦いの翌年であり、関東には後北条氏がひかえていることなどから、東方に対しての臨戦態勢のもとで、防御線として近江国が考えられていたことによると考えられます。
山頂城郭部分
山頂の城郭部分は、本丸を中心に二ノ丸、北の丸、西ノ丸、出丸が放射状に配置されており、それぞれが高石垣で構築されています。
現在瑞龍寺の門となっている本丸の虎口は、方形の空間を設けて右に折れてから本丸に至るという内枡型となっており、その全面に虎口受けの小曲輪が付随します。
そこからほぼ90度曲がって下ると二ノ丸に至り、さらに90度曲がると二ノ丸の平虎口に至ります。
このため、この導線には、すべて横方向から弓矢や鉄砲が撃てるようになっており、この隅部分のみに方形に加工した石材を部分的に見ることができ、その他の築石(つきいし)部分は粗割石か、自然石を積んでいます。
また、石垣の傾斜も直線的で反りが見られないなど、天正13年段階の城郭の特徴をよく示しています。
山麓居館部分
八幡山城を特徴づけるのが、山頂城郭部分とは分離して築かれた南山麓の居館群で、谷地形の中央部分、標高約130メートルの地点から雛段上に築かれています。
秀次館跡は、その雛段上の居館部分の最上部に位置します。
ほぼ中央に巨大な内枡型の虎口が設けてあり、その両側は、西側で2段、東側では4段の高石垣を構えています。
(尚、当時の史料や絵図が残っていないことから、それぞれの屋敷地に誰が居を構えていたかというような詳細は判明しておりません。)
これまでの調査の中で秀次館に関連した大型の礎石立建物跡と考えられる礎石列、それに伴う溝、流路状遺構などの遺構を確認することができました。
この際、秀次館の建物に葺かれていたと考えられる金箔瓦を含む瓦類が大量に出土し、その中に秀次の馬印である沢瀉(オモダカ)紋の鬼瓦が確認できたことから、この地点に秀次館本体が存在していたという確証を得ることができました。
大型の礎石立建物は、部分的な発掘によるもので、全体としての規模は判明していませんが、柱間が約2メートルになるもので、礎石の配置状況から書院造りの御殿ではなかったかと考えられます。
(近江八幡市文化政策部文化振興課)
近江戦国年譜 | |
1524年頃 | 浅井氏が京極氏を制圧し、小谷城を築城 湖北地方を支配 |
1527年 (大永7年) |
京都より近江長光寺に逃げた足利義晴、守山にいたり、ついで坂本朽木にいたる |
1568年 (永禄11年) |
織田信長が六角氏を制圧 信長、足利義昭を奉じて入京 |
1570年 (元亀元年) |
信長、姉川の合戦で浅井・朝倉勢を破る |
1571年 (元亀2年) |
信長、比叡山延暦寺を焼きうちする 明智光秀が坂本城を築城 |
1572年 (元亀3年) |
信長、小谷城を攻める |
1573年 (天正元年) |
浅井久政・長政父子、小谷城にて自害 羽柴秀吉が長浜城を築城 信長、浅井長政を攻めて小谷城を焼き払う |
1576年 (天正4年) |
信長、安土城築城 |
1577年 (天正5年) |
信長、安土城下町条規を制定 |
1582年 (天正10年) |
本能寺の変 明智光秀、山崎の合戦 小栗栖で土民の竹槍で死す 6月15日 坂本城秀吉旗下の堀秀政軍により炎上 6月15日同日 安土城の炎上 |
1583年 (天正11年) |
賤ヶ岳の戦い 羽柴秀吉、賤ヶ岳で柴田勝家を破る |
1584年 (天正12年) |
秀吉、山内一豊に長浜城・北郡2万石、秀次に八幡山城20万石、 生駒近親に高島2万3500石を、中村一氏に水口城を与える |
1585年 (天正13年) |
秀吉の甥、秀次は八幡山に築城 安土や近郷の住民を八幡山の麓に移した |
1586年 (天正14年) |
秀次、八幡山下町掟書13ヵ条を発布 |
1590年 (天正18年) |
秀吉、京極高次に八幡山2万8千石を与える |
1594年 (文禄3年) |
秀吉、宿駅制をあらため、大津から柏原まで7駅をもうけ伝馬人足を定める |
1595年 (文禄4年) |
秀次が謀反の罪をきせられて高野山で切腹 八幡山城廃城 城下町の商人は天秤棒を肩に全国へ行商へと出掛ける 石田三成、佐和山城主となる |
1598年 (慶長3年) |
秀吉、伏見城で死去 |
1600年 (慶長5年) |
関ヶ原の戦い 石田三成、京都六条河原で斬殺される 徳川家康、井伊直政に佐和山城を与える |
(展望館展示パネルより)
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秀次館の石垣 (滋賀県近江八幡市・八幡公園) (平成20年4月14日) |
八幡公園案内図
八幡公園案内図
八幡山はちまんやまと八幡公園
八幡山は、市街地の北に位置し、東西約1km、南北約3kmの山地で、標高283.8mです。
鶴が翼を広げて飛ぶさまに似ていることから鶴翼山かくよくさんとも呼ばれ親しまれています。
八幡公園は、その八幡山の南側の麓ふもとに位置しております。
周辺には八幡山城跡、八幡堀、日牟礼ひむれ八幡宮等の史跡や観光施設、公園内には市立図書館も併設されており、歴史的、位置的にも市のシンボルとして、また桜の名所として市民から広く親しまれています。
概要
天正13年(1585年)に羽柴秀次によって、この八幡山(鶴翼山)に八幡山城が築かれました。
八幡山城は山頂の城郭と南山麓の屋敷群に分かれており、赤線(―)で表した大手道は、秀次館跡の出入り口から家臣屋敷群のほぼ中央を直線的に走っています。
大手道の両側には雛段状の家臣団屋敷群が広がっています。
また、その屋敷群を囲む尾根には、石垣を伴った曲輪と呼ばれる遺構が残っています。
この曲輪と築城時に開削されたと伝わる八幡堀が城の総構えを形成していたと考えられます。
天正18年(1590年)に、秀次が尾張清州に移った後は、京極高次が代わって城主となります。
その5年後、秀次が謀反の疑いをかけられて高野山で自刃させられた文禄4年(1595年)には京都の聚楽第と同様に八幡山城は廃城されました。
(案内図より)
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八幡公園内の石垣 (平成20年4月14日) |
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此の掘割は天正13年(西暦1585)豊臣秀次が八幡城を築城、それと同時に構築されたもので東は北之庄の沢より西は南津田長命寺湖岸近く外湖を結ぶ全長約5km、その全体を「八幡浦」と称した。
今日では八幡堀といわれているが、八幡の城下町と琵琶湖を結ぶ一大運河であり大津・堅田とならんで琵琶湖の三大港の一つにかぞえられていた。
湖上を往来する北陸と関西の物資を満載したすべての船はこの八幡浦に寄港し大いに賑わい、今も残る堀沿いの土蔵・倉庫群は往時の繁栄を物語っており、その重要性は近江商人の活躍を絶対的なものにしたのである。
この掘割こそが、近江商人の代表八幡商人を生み出した源流である。
(説明板より)
近江八幡城遠景
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