平成19年3月31日
明治31年(1898年)2月5日〜昭和39年(1964年)2月19日
愛知県幡豆郡吉良町・尾崎記念館でお会いしました。
早稲田大学在学中から社会主義運動に関わるが、やがて運動の偽善性を鋭く批判して離脱。
昭和8年(1933年)、『人生劇場』を発表。
青成瓢吉あおなりひょうきちを主人公とする同作はベストセラーとなり、映画・演劇で上演された。
尾崎士郎像 (愛知県幡豆郡吉良町・尾崎士郎記念館) (平成19年3月31日) |
私は乾坤一布衣であります
尾崎士郎
これは士郎さんの原稿の一部です。
乾坤(けんこん) 天地のこと
布衣(ほい) 粗末な衣を着た庶民のこと
私は天下の一浪人ほどの意味でしょうか。
まさに恥ずかしがり屋、照れ屋尾崎士郎の真骨頂です。
(説明板より)
書斎 (尾崎士郎記念館併設) (平成19年3月31日) |
士郎さんの書斎
士郎さんは昭和29年から亡くなられる昭和39年までをこの書斎で過ごされました。
長い放浪 寄宿 転居の果ての最後の安住の地になりました。
この書斎から生まれた作品の主なものはつぎの通りです。
伊勢新九郎 | 去年の雪 | 浅間大噴火 |
雷電 | 桐野利秋 | 中村遊郭 |
私学校壊滅 | 小説石橋湛山 | うそ八萬騎 |
厭世立志伝 | ボタ餅と鮨 | 俵的の嘆き |
戦国兵談 | 人生劇場(蕩子篇) | 小説国技館 |
新人生劇場 | 今夜の月 | 山河幾月 |
小説四十六年 | 反骨中野正剛 | 雲と残月 |
関ヶ原夜明け | わが青春の町 | 悲劇の将軍本間雅晴 |
銀座の夜と昼 | 雲井龍雄 | 一文士の告白 |
その後この書斎は遺族のご好意により、東京大田区大森山王より昭和62年3月に移築したものです。
(説明板より)
士郎さんの紹介 |
明治31年(1898)2月5日、幡豆郡横須賀村(吉良町)に繭の仲買い業を営む尾崎嘉三郎の三男として生まれ、6歳の時、母の実兄宅へ養子に出たが離籍され、横須賀尋常小学校へ通学する。
その後愛知県立第二中学校(岡崎高校)に学び、大正5年早稲田大学高等予科へ入学、3年後月謝滞納等で放校処分された。
この頃から堺利彦の売文社へ入社、大正10年「獄中小説」が懸賞小説の第二席で当選し小説家を目指すことになる。
昭和8年都新聞へ「人生劇場(青春篇)」を連載、2年後発刊された単行本が川端康成から絶賛され、一躍大ベストセラー作家となる。
その後も傑作を発刊、昭和13年からペン部隊として徴用され、戦記物も著し、戦時中、家族の疎開先静岡県伊東市で、雑誌「篝火」を発刊した。
昭和22年、30年振りに帰郷し郷里の歓待に感激、たびたび帰郷して講演活動などを行い、横須賀村には講演会「瓢山会」が組織された。
「人生劇場」は青春篇に続いて愛欲篇、残侠篇など全8篇、昭和34年に完結。
大正末期以来多くの人々と交流、酒と将棋と相撲を愛したが、再発した腸癌で39年(1964)2月19日、享年66歳、帰らぬ人となった。
(リーフレットより)
尾崎士郎記念館 (愛知県幡豆郡吉良町大字荻原字大道通14−1) 町立図書館の裏・旧糟谷邸内文化施設の一つ (平成19年3月31日) |
【開館時間】
火曜から日曜までの午前9時から午後5時まで
【休館日】
月曜日(但し、祝日に該当する日は開館します)
年末年始(12月29日〜31日、1月1日〜1月3日)
【入館料】
(旧糟谷邸、尾崎士郎記念館、書斎と併せて)
高校生以上一人300円(中学生以下は無料)
早稲田騒動 |
早稲田騒動とは、早稲田大学の次期学長の座をめぐって初代学長の高田早苗と二代目学長の天野為之が激しく争い、それぞれを支持する学生たちを巻き込んで世間を騒がせた事件である。
早稲田騒動に参加した尾崎士郎はこの事件を舞台にして出世作の『人生劇場』を書いた。
(参考:佐野眞一著『甘粕正彦 乱心の曠野』・新潮社・2008年発行)
(平成21年1月19日追記)
【陸軍報道班員として徴用・フィリピンへ】
出征の時、尾崎は扁桃腺で首に白い包帯をぐるぐる巻き、胃腸もひどく悪いとかで、その顔色は青白く、疲労困憊はおおうべくもなかった。
そして歯を食いしばるようにして、長剣にしがみつき、その長剣を1本の杖のような役目にして、からくも、その肉体を支えているように見られた。
そして、この出発当初からの体の最悪のコンディションは、戦場から故国日本の土地を、再び踏むまで、執拗に尾崎士郎につきまとって離れなかった。
尾崎士郎の昭和17年元旦の日記の一節・・・
「快晴。昨夜の戦闘は味方の快勝に終わったという通報が入った。そんなことはわかりきっていたが、やっぱり気持ちにはずみがついてくる。午前、川にて水浴。どうしても正月という気にはなれぬ。予は今年より45歳なり・・・」
昭和17年2月22日頃より、コレヒドール島への攻撃が開始され、同時に、報道部内にも、班長の勝屋福茂中佐を中心にして、「バタアン総攻撃」に参加する「宣伝部隊」の編成が、おもむろに討議され始めた。
当時の尾崎士郎は、胃腸の具合も悪く、つねに下痢したり、夕方になると微熱が出て、実際には、前線生活をするには無理な体のコンディションだったが、徴用員の長老格だった尾崎士郎だけを、一人、マニラに残しておくことは、全体の微妙な空気(特別扱いをしているという陰口)からして、好ましくないので、前線に出てもらうことになり、数日後、「戦闘司令部」配置となった。
昭和17年4月3日、総攻撃の日。
報道班員の主力をあげて、最前線に進発し、我々のいる北野兵団戦闘指令所附近にも、敵の砲弾が随所に落下し始めた。
しかし、遮蔽を十分にしてあるので、その炸裂した砲弾は、我々には命中することなく無事であった。
この時である。
尾崎士郎が、突然、顔をしかめて、なんとなくウロウロし始めたのだ。
もしや腹でも痛くなったのではないかと思い訊いてみたが、二尺と離れぬ壕の中だが、彼我の凄まじい砲声にさえぎられて、お互いの会話が通じない。
やっとのことで、私の質問がわかると、尾崎士郎は、例の童顔を心持ほころばせながら、小さな紙片に万年筆を走らせた。
紙片には、こう書いてある。
『わが糞のひりどころなし山の陣』
この一句には、おもわず笑ってしまった。
その後、尾崎士郎はデング熱にやられたらしく、勝屋班長の勧告で、マニラに帰ることになった。
尾崎士郎は“道オンチ”で有名で、誰か側についておらないと、すぐに“迷子”になる妙な癖があった。
マニラでは、ことに“迷子”になって心配させられたり、笑い話を多く作った。
たとえば、エスコルタという、東京でいえば銀座通りにあたる街は、宿舎のベビュー・ホテルから、ルネタ公園を横切り、橋を渡るとすぐに行かれる、きわめて近い距離にある処だが、ちょっと横丁に入って散歩していると、まるで子供のように道がわからなくなるらしく、電話をかけてくるのである。
「また帰る道がわからなくなって、弱っているんだよ。すまんが、呉クン(運転手の呉金燦君)を寄こしてくれませんか・・・」という、お定まりの文句である。
呉運転手も、たびたびのことであるし、捜すのは慣れたもので、すぐ尾崎士郎の姿を発見して連れ帰るのだ。
呉が迎えに来たとなると、いつも照れくさそうに「すまんね、すまんね、アハハハ・・・・」と、頭を掻きながら挨拶するそうだ。
そんなときの尾崎の様子は、まるで、十代の学生のように、あどけない表情をして謝ると、呉が楽しそうに私に報告した。
あんなにも繊細な、あんなにも闊達な文章を書く作家が、どうして、こんな他愛もなく、子供のように道に迷うのか、まったく見当もつかぬことだった。
それも、見知らぬ道か迷路なら、いざ知らず、幾度も通っているエスコルタ街のすぐ近くで、こんな仕末になるのだから、その“道オンチ”も徹底的なものと言える。
昭和17年9月23日、尾崎はマニラの平岡兵站病院の田中軍医から第2回目の診察を受けた。
田中軍医が私にそっと告げることには・・・・
「尾崎さんの健康も限界点にきていますよ。なんとかして一日も早く内地帰還させたほうが良いのだが、軍隊というところはシャバと違って、このぐらいでは重患と認められず、結局、もっと最悪になってからでなくては、なかなか帰還が認められません。せめて、台湾まで後送させれば、また内地にも帰れることになるのですがね・・・。なんとか、あなたからも報道部長に頼んであげてくださいよ。私も、尾崎さんのような人物を、ここで死なせるのは惜しいと思いますから、診断の結果は率直に最悪の事を報告します」と親切に話してくれた。
この田中軍医は、九州帝大医科の教授で医学博士だったが、やはり応召をうけて軍医注意だった人である。
さっそく勝屋中佐に報告して、なんとかして、尾崎だけは、我々よりも一日も早く、一足先に内地に帰還させるように取り計らってもらうよう頼んだところ、勝屋中佐も快諾してくれた。
けれども、そこは部内の問題もあるので、すぐさま、それを発表することはできなかった。
というのは、誰しも帰りたいと希望する者からすれば、尾崎士郎のみが、何か特権的に帰還させられるということは、相当の問題と抵抗が部内に起きることが予想されるからである。
また、その手続きも勝屋班長だけの“独断”と“命令”で帰還させるということにも問題があるので、和知鷹二参謀長(中将)に訴えて見たところ、すぐに帰還許可をOKしてくれた。
ただし、これも、いつ部内に発表するかが問題で、このいきさつについては、10月1日の午後まで、尾崎にも秘密にしておいた。
10月2日、尾崎士郎は、関東軍に転任する勝屋部長と一緒に、「大毎」(大阪毎日新聞社)の飛行機で故国へ帰還した。
(参考:寺下辰夫 著 『サンパギタ咲く戦線で』 ドリーム出版 昭和42年3月初版発行)
(令和2年5月17日 追記)
【女性にモテる】
尾崎士郎は、バーの女給や商売女たちから、意外にモテる一面があった。
そのモテる原因を、よくよく探求してみると、なにか危なっかしくて“独り歩き”させるのに忍びないようなタドタドしさがあることから“かばってあげたいなァ・・・”という感情でもって、必要以上に親切にされるふうがあったと、私は見ている。
彼は、利口ぶったり、また、いわゆる“抜け目のない”人間は嫌いな人だった。
それは、単に男性ばかりにかぎらず、女性に対しても、“賢婦人”とか、目から鼻に抜けるような婦人は好まなかったようである。
こんな点を尾崎さんの長女・中村一枝さんが、父の想い出の手記『癌とたたかい癌に逝った父の思い出』(婦人倶楽部)の一端に書いている。
「母は父の病気以前はどちらかといえば、すこしおっちょこちょいで、どこか抜けたところがあった。母が英語の名前を、たとえばステンレスをステレンスなどといい間違えるたびに『おまえの言葉をみんな書いておいてやろう』などとからかったりしていた。父にはそういう母の一面がとても好きであったらしい。父は利巧すぎたり、抜け目がなかったり、非のうちどころのないというのはとてもきらいであった。父の生涯にとって、母という名コンビを得たことは最大の幸せだったとおもう」
尾崎さんも若い頃には、宇野千代さんはじめ、いろんな人とロマンスがあった。
けれども、宇野千代さんも、別れた以後も、尾崎士郎に“人間的郷愁”を感じているらしく、けっして悪口を言わないどころか、むしろ、ホメていたことが思い出される。
別れた女からすれば、たいていは、相手はケナされるのが通常だが、尾崎士郎が、別れた女からホメたたえられることからしても、人間尾崎士郎の人柄や、人情の細やかさが、よくわかるような気がする。
宇野千代という女流作家は、極めて才気煥発の人だったというから、その才気や知性で、尾崎をビシビシと圧倒することによって、かえって、尾崎が息苦しさを感じて、結局、逃避したというようなことが、その真相のようだ。
このことは、後年、宇野千代さんも自ら認めていた。
だから、尾崎には、女流作家というような女性には、初めから縁がなかったとも考えられる。
尾崎の料亭での遊び方は、決して粋ではなく、酔いが回ると、十八番の桃中軒雲右衛門の浪花節とか、中学校時代に愛誦した『商船学校の歌』なぞを歌い、小唄とか端唄とかというような、花柳界で唄われる粋な唄なぞは決して唸らなかった。
と同時に、放蕩児のような“色気”なぞ、微塵も出さず、明治の書生そのままな野暮ったい遊び方を得意としていた。
それがまた、かえって芸者たちに親しまれもしたし、人気があった。
たとえ、世間的には名前の売れている政治家でも、芸術家でも、表面的には「先生、先生」と奉られていても、一度、陰に回ると、甚だ不評の人物が多いのだが、尾崎士郎は、いわば「陰口」を言われたことは一度もなく、心から尊敬されていた。
ことに、助平根性の人間は、すぐに、その助平根性を丸出しにするものだから、いくら平常もっともらしいことを言っても、その馬脚を現してしまいうのである。
尾崎は、どんな女性にも親切だったが、決して“助平根性”は出さずに、実に淡々として酒を飲み、そして邪心なく悠々と遊んでいた。
こんな点も尾崎士郎の魅力であった。
(参考:寺下辰夫 著 『サンパギタ咲く戦線で』 ドリーム出版 昭和42年3月初版発行)
(令和2年5月17日 追記)
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