尾崎行雄像 平成18年2月24日

尾崎行雄 おざき・ゆきお

安政6年11月20日(1859年12月13日)〜昭和29年(1954年)10月6日

東京都千代田区永田町・憲政記念館でお会いしました。


慶応義塾中退。
明治14年の政変で統計院を退官し、立憲改進党結成に参画。
大同団結運動にも参加し、保安条例で東京を追放される。
第1回総選挙から衆議院議員に25回連続当選。
第一次大隈内閣で文相となるが共和演説事件で辞任。
明治36年(1903年)から東京市長。
第一次護憲運動では第三次桂内閣打倒の中心的役割を果たすが、山本内閣との提携に反対して脱党し、中正会を結成する。
第二次大隈内閣で法相として入閣し、大浦内相の汚職事件を追及する。
憲政会総務となるが普選論を巡る対立で脱党し、革新倶楽部に参加。
第二次護憲運動以降は無所属。
昭和期には日独伊三国同盟に反対し、大政翼賛会批判の立場で活動。
翼賛選挙では不敬事件を引き起こした。
昭和29年10月6日、94歳で没す。


尾崎行雄



尾崎行雄像
(憲政記念館)

銅像のポーズは昭和25年92歳の時、米国からの帰途ハワイで別れを告げている姿が選ばれました。(朝倉文夫・作)



(平成18年2月24日)

尾崎行雄 1858―1954

尾崎行雄は、国会開設以来、連続当選25回、63年余、衆議院議員として世界議会史上の記録をなし、日本の議会政治の父と仰がれている。
彼は、その95年の一生を民主主義と議会政治の確立のためにささげたが、とくに、金力、権力政治の排撃、国字、国語の改革、世界連邦の樹立等を主張し、その運動の指導に当たった。

この記念会館は、尾崎行雄の業績をたたえ、わが国の民主政治の発展をはかる諸事業をおこなうために、全国民の協力によって建設し、これを国会に寄付したものである。

(碑文より)

略年譜
年次 西暦 年齢 事蹟
安政 5年 1858 現・神奈川県津久井町又野で生れる。
明治 2年 1869 12 上京し、平田塾に通学。
明治 4年 1871 14 父の赴任に伴い高崎に移住。
明治 5年 1872 15 父の転任に伴い三重県に移住。
山田市の英学校に通学。
明治 7年 1874 17 弟を伴い上京。慶應義塾に入学。
明治 9年 1876 19 慶応義塾を退学。
工学寮(のちの工部大学)に転学。
明治10年 1877 20 『討薩論』を曙新聞へ投書。
工学寮を退学。
『民間雑誌』の編集に従事。
明治12年 1877 22 福沢諭吉の推薦で新潟新聞の主筆となる。
明治14年 1881 24 招かれて統計院権少書記官となる。
在官2ヶ月で退官。
明治15年 1882 25 郵便報知の論説記者となる。
立憲改進党の創立に当たる。
明治18年 1885 28 日本橋より立候補し東京府会議員に当選。
明治20年 1887 30 後藤象二郎を担ぎ、条約改正反対の大同団結を図る。
「保安条例」公布により東京退去を命じられる。
明治21年 1888 31 横浜を出航、外遊。
明治22年 1889 32 憲法発布による大赦令公布により、東京退去命令が解除される。
大隈重信の遭難の報に接し急ぎ帰国。
明治23年 1890 33 最初の総選挙に三重県から立候補して当選。
明治27年 1894 37 伊藤博文内閣の不当解散や軟弱外交を攻撃。
明治28年 1896 38 政府の三国干渉屈伏に反対。
明治29年 1896 39 外務省勅任参事官となる。
明治30年 1897 40 在官のまま倒閣運動に参加し懲戒免官。大隈重信も退陣。
明治31年 1898 41 隈板(大隈・板垣)内閣の文相になる。
共和演説が政府内紛に利用され辞職。
明治33年 1900 43 伊藤博文総裁の立憲政友会の創立に参画。
結成と同時に同党総務委員となる。
明治34年 1901 44 院内総務となり桂太郎内閣攻撃を策して失敗。
明治36年 1903 46 伊藤が政府の妥協案に応じたため憤慨して政友会を脱党。
市会から推されて東京市長となる。
明治42年 1909 52 政友会に入党。
明治43年 1910 53 万国議員会議出席のため渡欧。
明治45年 1912 55 東京市長を辞す。
大正 2年 1912 56 護憲運動の先頭に立ち桂内閣弾劾演説を行なう。
政友会が山本内閣と妥協したので政友会を脱党。中正会を組織する。
大正 3年 1914 57 山本権兵衛内閣弾劾演説を行なう。
大隈内閣の法相となる。
大正 5年 1916 59 憲政会が生まれ、筆頭総務になる。
大正 8年 1919 62 3回目の外遊。
大正 9年 1920 63 普通選挙運動の先頭に立つ。
大正10年 1921 64 普選問題で憲政党案に反対したため除名となる。
軍縮運動を開始、単身全国遊説を行なう。
大正11年 1922 65 結成された革新倶楽部に加わる。
大正14年 1925 68 革新倶楽部が政友会に合併したため脱退。
昭和6年 1931 74 カーネギー財団に招かれて渡米。
昭和15年 1940 83 日独伊三国同盟締結に反対。
大政翼賛会設立に関して近江文麿内閣に質問書提出。
昭和17年 1942 85 総選挙に際し翼賛選挙を攻撃する公開状を東条英機首相に発す。
田川大吉郎の応援演説が原因で「不敬罪」で起訴される。
巣鴨拘置所に入所。
昭和18年 1943 86 大審院の判決で無罪となる。
昭和20年 1945 87 講和会議に臨むべき日本の態度について議長を通じ政府に提言する。
議会に世界連邦建設に関する決議案を提出し採決される。
宮中からの招きで参内し天皇と会見。
昭和21年 1946 89 第90議会に登壇、議長選挙につき警告す。
提出された憲法改正案について苦言を呈す。
昭和22年 1947 90 新憲法施行、議会が国会と改称。
政権争奪戦の醜状に対し議長を通じて3回全議員に警告を発す。
昭和23年 1948 91 首班選挙で多数の白票が投じられたことに憤慨。
この白票を欠席とみなして吉田茂を当選させたことに憤慨。
吉田首相が解散論を主張したことを不当として緊急質問に立つ。
昭和24年 1949 92 広島に旅行し肺炎にかかり赤十字病院に入院。
昭和25年 1950 93 米国「日本問題審議会」の招待により渡米。
慶応病院に入院し白内障の手術を行なう。
昭和27年 1952 95 1月に重病に陥ったが翌月に危機を脱する。
昭和28年 1953 96 第26回総選挙で初めて落選する。
昭和29年 1954 97 7月、衆議院名誉議員となる。
10月、初の東京都名誉都民となる。
10月6日、逝去。

※参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』


憲政記念館



憲政記念館

(東京都千代田区永田町1−1−1)





(平成18年2月24日)

憲政記念館は、昭和45年(1970年)にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立され、昭和47年(1972年)3月に開館しました。
この記念館のある高台は、室町時代に太田道灌が「わが庵は松原つづき海ちかくふじの高根を軒端にぞ見る」とよんだ松原の一角に連なっていた景勝の地で、江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建て、その後彦根藩の上屋敷となり、幕末には大老井伊直弼もここに住んでいましたが、明治になってからは参謀本部・陸軍省がおかれていました。
昭和27年(1952年)にこの土地は衆議院の所管となり、昭和35年(1960年)には、憲政の功労者である尾崎行雄を記念して、尾崎記念会館が建設されましたが、その後これを吸収して現在の憲政記念館が完成しました。
憲政記念館は、国会の組織や運営などを資料や映像によってわかりやすく紹介するとともに、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を収集して常時展示するほか、特別展などを催しています。

入館料 無料
開館時間 9時30分〜17時(入館は16時30分まで)
休館日 毎月の末日、12月28日〜翌1月4日
交通案内 
地下鉄(有楽町線・半蔵門線・南北線)永田町駅下車2番出口より徒歩5分
※一般駐車場はありません。

(リーフレットより)

尾崎メモリアルホール



尾崎メモリアルホール
(憲政記念館1階)





(平成18年2月24日)

衆議院議員当選25回、議員として60年7ヶ月在職し、衆議院から憲政功労者として表彰され、名誉議員の称号を贈られた尾崎行雄の足跡をしのんで、遺品・著作・書跡・写真などを集めて展示しています。

(リーフレットより)

展示室




展示室






(平成18年2月24日)

展示写真 (展示写真より)

尾崎行雄の「雅号」

青年時代、尾崎の雅号は「学堂」といった。
明治20年(1887)12月、政府の発した保安条例によって東京退去を命じられ、愕然がくぜんとしたことから、「愕堂」と号を改めたという。
50歳ごろからはりっしんべんを取って「咢堂」とした。
昭和24年(1949)、90歳に達したのちは「卆翁」と号している。

(展示写真の説明文より)

近くの史跡
日本水準原点標庫



日本水準原点標庫
(東京都千代田区・国会前庭洋式庭園内)





(平成18年2月24日)

東京都指定有形文化財(建造物)
日本水準原点標庫

所在地 千代田区永田町1丁目1番 国会前庭洋式庭園内
指定 平成8年3月18日

日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。
設計者は工部大学校第一期生の佐立さたち七次郎(1856〜1922)。
建物は石造で平屋建。
建築面積は14.93uで、軒高3.75m、総高4.3m。
正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフの装飾で特徴づけられる。
日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。

平成9年3月31日 建築

東京都教育委員会

※この日本水準原点標庫は、千代田区特別登録有形文化財(建築物)として登録されています。

(説明板より)

日本水準原点について

日本水準原点は 全国の土地の標高をきめる基になるもので 明治24年5月国がここに設けたものです
水準原点の位置は この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心で その標高は24.4140メートルと定められています
この値は明治6年から長期にわたる東京湾の潮位観測による平均海面から求めたものです

建設省国土地理院

(碑文より)


『憲政二柱の神』=尾崎行雄、犬養毅

(平成19年3月6日追記)


 平成23年11月18日

三重県伊勢市・尾崎咢堂記念館でお会いしました。






尾崎咢堂先生像
(尾崎咢堂記念館)




(平成23年11月18日)

碑文

尾崎行雄(1858−1954)は日本の民主主義と世界平和とのために一生をつらぬいた
若くして自由民権運動に身を投じ国会開設以来連続当選25回63年余の衆議院議員としての活動は世界議会史上の記録となり日本議会政治の父と仰がれている
彼の父行正の任地であったこの伊勢市を中心に選挙活動を行ない終生三重県民の絶大なる支持を得た
その95年の一生を議会政治の確立のためにささげたがとくに金力権力政治の排撃国字国語の改革世界連邦の樹立等を主張しその運動の指導に当たった
この彼の旧宅は尾崎行雄の輝かしい業績をたたえわが国の民主政治の発展をはかる諸事業を行うために記念館として保存するものである

1858 神奈川県津久井郡に生まる(11月20日)
1874 慶応義塾に学ぶ
1882 大隈重信と改進党を組織
1890 第一回衆議院議員選挙に三重県より立候補当選尓来25回連続当選
1898 大隈板垣連立内閣に文部大臣として入閣
1903 第2代東京市長に就任
1912 東京市長として桜苗木3,000本を米国に贈る
1914 大隈内閣の司法大臣に就任
1931 アメリカ経由イギリスに渡る日本国民に対する遺言「墓標に代えて」を執筆33年帰国
1953 衆議院名誉議員東京都名誉都民(第一号)に推薦される
1954 神奈川県逗子で永眠(10月6日) 






尾崎咢堂記念館
(三重県伊勢市川端町97−2)




(平成23年11月18日)

施設のあらまし

憲政の神様と称される世界的な政治家、尾崎咢堂(行雄)を顕彰する「尾崎咢堂記念館」は、昭和34年に咢堂精神発祥の地ともいうべき、ここ宮川河畔の旧尾崎邸を伊勢市が譲り受け、その前々年に三重県知事が委員長となり設立された「咢堂記念館設立発起人会」が顕彰を図ったのがはじまりです。
その後、遺品陳列室、結婚式・披露宴会場等が増設され、咢堂精神の顕彰、普及が図られてきましたが、年と共に施設の老朽化が進み、平成11年より各界、各層の方々により、そのあり方が検討された結果、このほど施設の改築に至ったものです。
この建物は、明治期の建築様式を取り入れたもので、咢堂の質実さをイメージしたシンプルな洋式建築となっており、庭園には桜とハナミズキが相呼応するように配置されています。
これは咢堂が東京市長時代にアメリカに送った桜と、その返礼に当時のアメリカ大統領タフト氏よりいただいたハナミズキに由来するものです。
また、展示室は、訪れる誰もが咢堂の精神を理解できるよう、その生涯や背景などがわかりやすく紹介されています。
なお、右の門柱は、改築前のものをそのまま残しています。

平成15年3月   伊勢市

(説明板より)

咢堂五訓

■ 人生の過去は予備であり、本舞台は未来にあり
■ すべての虚偽を廃し、科学的な合理主義を第一として判断し行動せよ
■ すべての問題は力闘によらず、理闘によって解決せよ
■ 世人の幸福を増す言行はみな善事なり、これを減らす言行はみな悪事なり
■ 戦争の絶滅を期し、世界連邦の設立に協力せよ

(リーフレット『尾崎咢堂記念館』より)


改進党

明治15年3月15日、大隈重信を総理とする改進党が結成される。
最高幹部は河野敏鎌・北畠治房・前島密の3名。
その下に、沼田守一・矢野文雄・牟田口元学・青木義彰・小野梓の5名がおり、党の中枢部はこれらの人々に占められた。
更にその下に、藤田茂吉・犬養毅・島田三郎・尾崎行雄らがおり、彼等は第一線の活動の中心となった。
改進党は「郵便報知」を買収し党の機関紙「報知新聞」としたが、政府は集会条例の改定、新聞紙条例の発布、出版条例の改定公布などの弾圧をおこない、報知新聞はしばしば発行停止を命じられ、発行部数が減少した。
このように政府は在野党機関紙に発行停止を命じて、その間にその購読者に御用新聞を配布したため、政党機関紙は凋落していった。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月9日追記)


条約改正問題

明治18年12月、内閣制度が設けられたのを機にして伊藤博文内閣が生まれた。
この内閣は地方自治制の完成・財政整理・軍備の充実・法典編纂・教育制度の整備・殖産の振興・交通の発達等の重要問題を抱えていたが、その中で最重要課題が条約改正問題。
当時の条約は最恵国約款・治外法権・関税自主権の喪失などの欠点があった。

尾崎はかねてから外人が日本人を軽蔑して、数々の無礼を行うのに不満だったばかりではなく、政府要路の人々の列国に対する迎合的態度を嫌い、また日本人が朝鮮などの弱小民族を軽侮陵辱する悪弊を取り除くべきであると、条約改正問題が起こる数年前からこのような弊風を一掃しようと筆を執ったり演壇で叫んでいた。

しかし、諸外国が我が国の要求を拒むのは我が国の文明状態が欧米諸国に比して著しく遅れているためであると考えた伊藤博文と井上馨らは、我が制度・文物・風俗・習慣にまで欧米風を模倣するという極端な欧化政策をとった。
この政策は明治19年中頃から始まり、20年の春に絶頂期を迎えた無批判的欧米崇拝の一時期で、世に『鹿鳴館時代』と呼ばれた。

これに対し、尾崎は政府の条約改正案が姑息・不徹底であり、伊藤や井上の皮相な考え方から発した欧化政策に対する反感から、条約改正反対運動の急先鋒となり、この運動の高まるのを見て、この機運を捉えて政党勢力の復活を図ろうとした。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月9日追記)


伊藤内閣弾劾

議会の解散によって行われた第3回総選挙後の明治27年5月12日に召集された第6議会において、改進党を中心とした野党(民党6派)は第2次伊藤博文内閣に対し内閣弾劾上奏案を提出。
その説明を尾崎がおこなった。(伊藤52歳・尾崎37歳)
尾崎の論旨は、@政府の不当解散をとがめ、A政府に軟弱外交を責めて現行条約の励行を主張し、B政府の議会軽視をなじり、C伊藤の事毎に袞竜こんりゅうの袖に隠れる行動を難じた。
「袞竜の袖に隠れる行動」とは、伊藤が何かと野党の攻撃を受けるたびに天皇の下へ出向き、天皇の詔をもらって、天皇の威徳を盾に物事を押し切った態度のことを指している。
この上奏は野党である自由党が政府を援助したためわずか5票の差で否決される。
翌日、露骨に与党的立場を明らかに出来ない自由党は形だけの八百長的弾劾上奏案を提出。
これに対して民党6派は内閣不信任の意味を強調した修正案を提出し、自由党の反対にもかかわらず中立派の賛成を得て多数を持って可決。
第6議会は解散となった。

続く伊藤内閣に対する弾劾上奏は、明治28年12月25日召集の第9議会においてなされた。
先の日清戦争後の三国干渉に猫の如く屈した伊藤内閣への攻撃で、尾崎がその説明者となる。
外交問題に関する政府弾劾上奏案は政府と自由党との提携により否決されたが、この弾劾案は政界に大きな波紋を投げ、結局伊藤内閣崩壊の原因となった。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月10日追記)


伊藤博文と手を結ぶ

明治33年、山県有朋内閣と提携を解消した憲政党は伊藤博文を党首に迎えようとしたが、伊藤はこれを断り独自に新党の組織を計画する。
伊藤の新党組織計画は従来の行きがかりに捉われない新たな構想の下に進められ、尾崎も参加を勧められた。
藩閥の指導者である伊藤は多年政敵として争った相手であるが、伊藤が進んで政党を組織しようとするのは藩閥の一角が崩れつつあることを意味し、伊藤をして立派な政党を作らせることが国のために執るべき態度であり、藩閥打倒を実現する近道であると尾崎は考えた。
当時、北清事変以来、日露関係が悪化し、その衝突は免れそうもない形勢にあったが、尾崎は当時ロシアと戦うことは不利と考えており、また伊藤も同様な考えをもっているらしかったので、伊藤を助けることが日露の衝突を防ぐ道であるとも考えた。
尾崎は誰にも相談せず伊藤を訪問。
これが政界の大問題となり、世間の非難を浴びる。
このことで寛容な大隈重信すら怒らせてしまい憲政本党を除名されてしまう。
伊藤の新党は『立憲政友党』として創立し、総裁の下に総務委員会が設置され、尾崎は総務委員の一人となる。
山県内閣総辞職の後を受け第4次伊藤内閣が組閣され、我が国最初の政党単独内閣が成立したが、わずか7ヶ月で瓦解した。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月13日追記)


政友会脱党

第4次伊藤内閣総辞職後、桂太郎内閣が成立し、政友会は野党となり、第16議会で財政問題で政府を攻撃する。
続く第17議会では政府提出の地租増徴案に政友会(伊藤博文)、憲政本党(大隈重信)が一致して政府に反対し、他の野党もこれに同調し、桂内閣は孤立無援となる。
万策尽きた桂内閣は議会の解散を行うが、総選挙の結果は野党の大勝となる。
桂内閣は再度の解散か総辞職かの岐路に立たされ、桂太郎は山県有朋に泣きつき政友会との妥協を図った。
最後の土壇場で山県有朋に口説き落とされ、伊藤博文は政友会幹部に相談なしに妥協を内諾。
これに対して党内は大混乱に陥り、幹部が総辞職を行ったため、伊藤は議会中の臨時体制として30名の協議員を置き、その中から3名の常務員(尾崎・松田・)を指名。
この3人は院内総務を兼ね、尾崎は最高幹部の一人として党の指導に当たった。
政府は地租増徴案を撤回して「既に伊藤総裁の了解済み」として妥協案を政友会に提示。
これにより、伊藤の態度豹変に最も憤慨していた尾崎はついに政友会を脱党する。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月14日追記)


再婚

明治37年9月、三男一女を残して繁子夫人が病で逝去。
1年後、日英人の混血児で英国育ちのテオドラ(日本名は英子)と再婚する。
英子と結ばれるに至ったのは、彼女宛の手紙が郵便配達の手違いから尾崎の元に届き、これを尾崎が誤って開封してしまったため、自ら彼女を訪問して謝罪したことからであるという。
当時、現職の東京市長の尾崎と混血児との結婚は世間を騒がせた。
また、英子夫人との会話は全て英語を用い、家庭生活は大体洋式に改められ、欧米人との交際が広くなるなどの家庭にも大きな変化をもたらした。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月14日追記)


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