1886年1月〜1967年1月
インドのベンガル州ナディア地方の貧しい農家の生まれ。
カルカッタ大学法学教授、カルカッタ港高等裁判所判事、カルカッタ大学副学長を歴任。
極東国際軍事裁判のインド代表判事を務め、『パール判決』という大部の個別意見を提出して、国際法上、戦争の犯罪性を否定し、被告全員の無罪を勧告した。
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パール判事 (平成18年11月22日) |
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パール判事顕彰碑 (東京・靖国神社) (平成18年11月22日) |
碑文
時が熱狂と偏見とを
やわらげた暁には
また理性が虚偽から
その仮面を剥ぎとった暁には
その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを
要求するであろう
頌
ラダ・ビノード・パール博士は昭和21(1946)年5月東京に開設された『極東國際軍事裁判所』法廷のインド代表判事として着任され、昭和23年11月の結審・判決に至るまで、他事一切を顧みる事なく専心この裁判に關する膨大な史料の調査と分析に歿頭されました。
博士はこの裁判を擔當した連合國11箇國の裁判官の中で唯一人の國際法専門の判事であると同時に、法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の文明史的見識の持主でありました。
博士はこの通稱『東京裁判』が、勝利に傲る連合國の、今や無力となった敗戦國日本に對する野蠻な復讐の儀式に過ぎない事を看破し、事實誤認に滿ちた連合國の訴追には法的根據が全く缺けてゐる事を論証し、被告團に對し全員無罪と判決する浩瀚な意見書を公けにされたのであります。
その意見書の結語にある如く、大多數連合國の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は今や文明世界の國際法學界に於ける定説と認められたのです。
私共は茲に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の勇氣と情熱を顯彰し、その言葉を日本國民に向けられた貴重な遺訓として銘記するためにこの碑を建立し、博士の偉業を千古に傅へんとするものであります。
平成17年6月25日
靖国神社 宮司 南部利昭
(銘板碑文より)
碑文
当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、1946年、東京に於いて開廷された「極東国際軍事裁判」にインド代表判事として着任いたしました。
既に世界的な国際法学者であったパール博士は、法の真理と、研鑽探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判決されたのであります。
今やこの判決は世界の国際法学会の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。
パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本国民を激励されました。
インド独立50年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する年にあたり、私共日本国民は有志相携え、茲に、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。
1997年11月20日
パール博士顕彰碑建立委員会
【顕彰碑建立の経緯】
博士は日本の中でも、講演などでしばしば立ち寄られた京都の地をこよなく愛されており、生前、ご子息に「京都に骨を埋めたい」とまで語っておられたといいます。
この博士の願いは、カルカッタで弁護士として活躍されているご子息のプロサント・パール氏を訪問した日本人記者の知るところとなり、平成7年1月7日、中日新聞・東京新聞の第一面に大きく報道され、全国から博士をしのび、その遺徳をたたえようという声が寄せられました。
その結果、発足したのが瀬島龍三・伊藤忠商事特別顧問を委員長とするパール博士顕彰碑建立委員会でした。
この会には趣旨に賛同した稲盛和夫・京セラ名誉会長、山口信夫・旭化成会長、高木礼二・明光商会社長らの経済人をはじめ、歴代の京都府知事などが名を連ねており、5千万円の建設費はこれら有志、発起人である同台経済懇話会のカンパによって提供されました。
とくに瀬島さんは完成までの3年間、その実現に東奔西走されたと聞きます。
そして、木村幹彦宮司の協力を得て、平成9年11月20日、京都東山霊山の聖地、護国神社の「昭和の杜」に建立されたのがパール博士の顕彰碑です。
(参考:前野 徹 著 『戦後 歴史の真実』 扶桑社 2002年5月30日 第4刷)
(平成27年3月16日追記)
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大亜細亜悲願之碑 (広島市中区小町・本照寺) (平成22年5月1日) |
大亜細亜悲願之碑
激動し変轉する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の思を抱いて 死んでいった
しかし
大地深く打ち込まれた
悲願は消えない
抑圧されたアジアの解放のため
その厳粛なる誓にいのち捧げた
魂の上に幸あれ
ああ 真理よ
あなたは我が心の中に在る
その啓示に従って我は進む
1952年11月5日
ラダビノード・パール
(碑文より)
ベンガル語の慰霊詩文は 東京軍事裁判でたゞ一人真理と国際法に基づき日本の無罪を主張し原爆投下の非人道性を指摘したインド代表判事パール博士が 昭和27年の秋 来広の際 斯の碑建立の趣旨に共感し半日瞑想推敲して揮毫されたものである
アジアの民族運動と戦禍にたおれた満蒙華印等動乱大陸の多くの人々の面影偲び浄石にその名記し石窟内に奉安 有志恒友相倚り碑を建立した
慰霊の式典をかさねること33回 昭和43年5月 恒友協力浄域を整え再建す
日文源田松三筆 英訳文エ・エム・ナイル 碑銘大亜細亜は宮島詠士先生遺墨に依る
(碑文より)
果敢な反英実力闘争を経て 日本に亡命した インド独立運動志士ラス・ビハリ・ボース氏に信任されていたことを同行のAM・ナイル氏から聞かされたパール博士は筆者に親近感を持たれ 慰霊文執筆を快諾された
英文中のLORDを真理としたのはマハトマ・ガンディの真理の把持による
本照寺再興住職 筧義章 記
(側碑・碑文)
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本照寺 (広島県広島市中区小町7−24) (平成22年5月1日) |
【パール判事の判決書】
東京裁判は、予審もなく、起訴か不起訴になるかの権利は、検事側によって一方的に握られていたため、起訴を公正に指導する立場と機会は弁護人にも与えられなかった。
こうした審理過程において、変則な多くの問題があったが、占領下における裁判はそれ以上の対応は不可能であった。
東京裁判は、被告たちにとって法律のない裁判であったが、法律的にはともかく、歴史的にも、道義的にも、これは「日本の国家」が、復讐のために裁かれたことに間違いなかった。
ところが、東京裁判の判決に際してインドのラダ・ビノド・パール判事だけは、この裁判に全員無罪論を提出していたのであった。
パール判事は、英文にして30万語、1275ページ、日本語にすると100万語に及ぶ判決書に、被告全員の無罪と、被告たちの即時釈放を主張していたのである。
パール判事の判決文の大要は次のようになる。
@日本の憲法は完全に施行されていた。元首、陸軍、一般官公吏の社会とのつながりは通常のものであり、世論は盛んであった。
A裁判所として、この法廷設立が単に「ある目的の達成」であったとの感を抱かせるような行動は、自分ら判事は慎まなければならない。その目的というのは、本質的には「裁判所という仮面をかぶり」ながら、政治的なものである。
「ある目的の達成」とは、米国による「復讐による裁判」であることを示唆していたのである。
パール判事は、国際法に「戦争を認めている以上、殺人行為は必然性のものであり、また戦争が犯罪であるという法律も国際法にはない。法律のないところに刑罰はなく、法のないところに裁判はない」と主張した。
この論理でいくと、パール判事は「東京裁判そのものが無効である」と譲らなかったのである。
パール判事は、日本の戦争手段は、米国の挑発に乗った自衛手段の範囲内であると強調するのであるが、米国の横暴な力に屈指ざるを得なかった。
極東軍事裁判(東京裁判)の法廷は、各国判事の少数意見を法廷記録に収録しながら採用せず、いかにも多数派意見をもって全裁判官の判決のごとき形式を用いて、これを公開法廷で宣告をした卑屈な違法行為であったのだ。
この裁判は、判決理由書を発表しなかった。
ニュールンベルグ裁判においては、裁判終了後3ヶ月後には裁判の全容が発表されたが、東京裁判は、日本に侵略戦争を行なったことを歴史に留めることによって、自分たちのアジア大陸侵略を正当化しようとしたのである。
パール判事は、米国が幾十万の非戦闘員の老若男女を殺戮するため原子爆弾の投下を許可した者への処断はどうするのかとも迫った。
ところがウェッブ裁判長は、東京裁判は敗戦国の日本を裁く裁判で、連合国の責任に関する問題は一切取り上げないと却下したのである。
(参考:塩田道夫 著 『天皇と東条英機の苦悩』 日本文芸社 1988年10月 第10刷発行)
(令和2年9月6日 追記)
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