ペリー像 平成15年6月21日

ぺリー Matthew Calbraith Perry

1794年4月10日〜1858年3月4日

神奈川県横須賀市久里浜の「ペリー公園」でお会いしました。


1852年、東インド艦隊司令長官となり、遣日特使として嘉永6年(1853年)6月、軍艦4隻を率いて浦賀に来航しました。
久里浜で修好通商を求めるフィルモア大統領親書を伝達し、再来を表明して退去、翌年1月に軍艦7隻を率いて再来航しました。
ペリーの要求により横浜応接所で開かれた日米会談では幕府の譲歩をかちとり、日米和親条約の締結に成功しました。
帰途、那覇で琉球と修好条約を締結しました。
帰国後「日本遠征記」を監修しました。


ペリー公園 ペリー公園







(平成15年6月21日訪問)
北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑 上陸記念碑

上陸記念碑説明の碑文

1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリー(Matthew C.Perry)は、7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。
翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。
この一連の出来事は、幕府支配のもとに鎖国を続けていた日本を、世界へと引き戻す原動力となった。
ペリー来航より48年後の1901年7月14日、米友協会の手によって、日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。


ペリー記念館 ペリー記念館

開館時間:9時〜16時30分
休館日:原則として月曜日
入館料:無料



(平成15年6月21日訪問)
2階内部 ペリー記念館2階内部

1階は蒸気船のジオラマだけ。
2階に若干の資料展示。
10分もあれば見終わってしまうような記念館でした。
パンフレットなどの配布資料等など何もありません。

【蒸気艦の父】

マシュー・カルブレイス・ペリーは海軍軍人として極めて優秀で、「何でもできる男」だった。
海軍軍人は一般的に指揮系統(兵科)に進む人と機関系統(機関科)に進む人に若い頃から分かれる。
適性がまるで違うからだ。
ところが、ペリーは海軍士官として数々の戦いに参加した歴戦の勇士でありながら、機関系統にも詳しく、海軍工廠こうしょうに配属されアメリカ最初の蒸気軍艦を建造し、その初代艦長を務めた。
普通の海軍では「作る人」と「乗る人」は別で、それが兵科と機関科に分かれるゆえんなのだが、ペリーはそのどちらもこなしたのである。
そのうえ、アメリカが全世界の海洋に派遣した様々な艦隊の司令長官も歴任した。
単なる士官ではなく司令官としての才能もあったということだ。
アメリカでは「蒸気艦の父」とも呼ばれている。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月13日 追記)


【日本開国のミッション】

ペリーには軍人にはなかなか無い政治的センスがあった。
当時アメリカには「ヒーロー待望論」があった。
ペリーは、当時のミラード・フィルモア大統領に手紙を書いて、自分に日本開国のミッションを与えてくれとアピールしたのである。
ペリーは手紙で二つの事を訴えている。
「自分に任せてくれば必ず日本を開国させてみせる」。
そしてもう一つが重要なのだが、「このプロジェクトは民間から多数の寄付を募ることができ、政府の支出は極めて少なくて済む」と強調したのだ。

前大統領の死を受けて副大統領から昇格した「副大統領上がり」で、次の選挙が心配なフィルモア大統領は、結局ペリーの提案に乗った。
成功すれば儲けものだし、失敗してもペリーに責任を押し付ければいい。
普通は政治的責任を押し付けても、経済的損失に対する責任は大統領が負わねばならないが、この点も民間からの寄付を募るのだから、国家の経済的損失になるわけではない。
出資者が文句を言ってきたら、これもペリーの責任にできる。
フィルモア大統領はこのように考えたのである。
また、そう思わせたのがペリーのうまいところで、この辺りが彼の卓越した政治的センスなのである。

全権を与えられたペリーは、張り切って準備に取りかかった。
ペリーは乗組員のためにわざわざフランス人のシェフを雇って船に乗り込ませたという。
軍隊の飯は不味いと相場が決まっている。
ペリーは乗組員の士気を落とさないよう、わざわざフレンチのシェフを雇ったのである。
長い航海になるからだ。

本当は日本へ行くのは、ひと月もあれば充分なのである。
西海岸から出航し太平洋を横断すれば、当時の感覚でいえばあっという間に日本に着くが、それはできない。
なぜなら蒸気船を使わなければそれは不可能なのだが、日本が開港してくれないので燃料である石炭の補給ができない。
ペリーは東海岸の軍港ノーフォークから出航した。
日本という国が港を開いてくれないばかりに、大西洋〜インド洋〜南シナ海という地球の4分の3を回るコースを選ぶしかなかったのである。
ペリーがノーフォークを出港したのが1852年11月24日、日本の浦賀に出現したのが翌1853年7月8日(嘉永6年6月3日)である。
つまり足かけ9ヵ月もかかったということだ。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月13日 追記)


【「提督」ではなく「代将」】

日本の歴史の本には「ペリー提督は艦隊を率いて浦賀にやってきた」と書いてあるものが多い。
厳密に言えばこれは間違いである。

まずペリーの肩書だが、提督と言わずに代将だいしょうというべきだろう。
英語では海軍軍艦でも民間商船でも、その長のことをキャプテンと呼ぶ。
日本では海軍の場合、軍の階級でもあるキャプテンを大佐と訳している。
ただし大佐は自分の艦の指揮権しかない。
艦隊全体つまり複数の軍艦を指揮する権限のある軍人を一般に提督と呼ぶ。
海軍には大佐より上の階級として少将、中将、大将があるが、少将以上は原則として艦隊の指揮権があるので、一般的には少将以上を提督と総称するわけだ。
提督は英語ではアドミラルという。

ところがペリーの肩書の原語(英語)を見るとアドミラルではなくコモドアになっている。
アメリカ海軍には、アドミラルになるためには国会の承認を必要とするルールがあった。
しかし、今も昔もそういうことは面倒くさい。
そこで海軍が独自に任命する、艦隊の指揮権を持つ階級を作った。
しかし国会の承認を受けていないのでアドミラルとは言えない。
そこでコモドアという階級が設けられたのである。
これを通常は代将と訳すので、やはりペリー提督とは言わずペリー代将と言うべきである。

「艦隊」の方はもっと問題だ。
艦隊は英語でフリートという。
しかしペリーが指揮したのはスコードロンだと、これもアメリカ側の資料にある。
スコードロンの日本語訳は実は無いのだが、これがいくつか集まるとフリートを形成する。
実はこれはペリーの本意ではなかった。
ペリーは日本にフリート(艦隊)で堂々と乗り込むつもりであったのだ。
そのつもりで大統領の約束を取り付けていたのに、事情があって日本に着いた時はスコードロンになってしまった。
本人は「頭にきた」と日記に書き残している。

日本に来たペリー・スコードロンは、たったの4隻である。
世界の常識でそんなものは艦隊とは呼ばない。
しかもこの4隻のうち蒸気船は2隻だけで残りの2隻は帆船であった。
なぜ4隻とも蒸気軍艦にしなかったのか。
問題は補給である。
万一、石炭が補給できなかったら蒸気船は動きが取れなくなる。
この2隻の帆船には石炭が積まれていたのである。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月13日 追記)


ペリーの浦賀来航

ペリーが搭乗する蒸気軍艦ミシシッピー号が日本へ向けてアメリカ東部のノーフォーク港を出帆したのは1852年(嘉永5年)11月24日。
太平洋を東へ横断し、喜望峰を回り、香港に着いたのが1853年(嘉永6年)4月7日。
そこから上海へ行き、旗艦サスケハナ号に乗り換え沖縄に行き、さらに小笠原諸島の港に入港した。
そこでペリーは、小笠原に入植していたアメリカ人に独立するように勧め、再び琉球に戻り、4隻の艦隊を揃えて江戸湾へと出発した。
4隻のアメリカ東インド艦隊が浦賀沖に姿をみせたのが嘉永6年6月3日(1853年7月18日)のことであった。
ペリー艦隊が浦賀沖に停泊した時に、真っ先に乗船し英語で「私は、オランダ語を話せる」と言ったのは、この年の浦賀詰通詞の堀達之助であったことは有名である。
ペリーのアメリカ艦隊と日本側の意思疎通は、堀達之助とアメリカ側の通訳官ポートマンとのオランダ語で行われた。

(参考:江越弘人著『幕末の外交官 森山栄之助』弦書房2008年)

(平成22年1月4日追記)


ペリー艦隊(嘉永6年6月3日来訪時)
蒸気フリゲート 「サスケハナ」号
乗組員数:300名
備砲:10インチ・シェルガン×3門、8インチ・シェルガン×6門
蒸気フリゲート 「ミシシッピ」号
乗組員数:約260名
備砲:10インチ・シェルガン×2門、8インチ・シェルガン×8門
帆走スループ 「プリマウス」号
乗組員数:210名
備砲:8インチ・シェルガン×4門、32ポンド砲×18門
帆走スループ 「サラトガ」号
乗組員数:210名
備砲:8インチ・シェルダン×4門、32ポンド砲×18門

(シェルダン=炸裂弾が発射可能な砲)

(平成17年2月21日記)


国書の受理

ペリーはアメリカ海軍で蒸気船開発の監督官をしていました。
来日前のペリーは日本研究のために多くの資料を購入して研究をしていたといわれています。
特に、シーボルトが帰国後に書いた書物を多く集めていたとか。
また、シーボルトと直接手紙のやり取りをして情報収集していたようです。
これらの情報から対日本人戦略を立てたようです。
つまり、日本人は権威主義的なので、尊大に振舞うことで交渉がやり易いと考えました。

ペリーが浦賀に来た時の外国船応対係は32歳の中島三郎助という与力でした。
中島は通訳の堀達之助と共に”黒船”に向かいます。
しかし、ペリーは「最高の役人としか面会しない」として面会を拒みました。
この尊大な態度は事前の日本研究によるものです。
中島は「副奉行である」として身分を偽り乗艦を認められます。
しかし、ペリーは面会しません。
副官のコンティー大尉を通じて交渉するだけです。
わざともったいぶるわけです。
中島は長崎以外での交渉は出来ないので、長崎へ回航するよう求めます。
ペリーはアメリカ合衆国大統領の国書を”日本の皇帝”に渡すため長崎への回航を拒否。
中島は一旦浦賀奉行所へ戻り、浦賀奉行の戸田氏栄うじよしに伝えます。
しかし、戸田は何故か自分が交渉に当ることを拒みます。
やむなく中島は”黒船”に戻り再交渉しますが、ペリーは「ここで高官に会って国書を渡せないなら、江戸に向かう」と言い出します。
中島は独断で翌日に回答を引き延ばし、浦賀奉行所へ戻りますが、今度も戸田奉行は出馬を拒否。
戸田奉行は与力の香山かやま栄左衛門に正奉行を名乗らせ、中島と共に交渉に当るよう命じます。
今回も日本側の要求は「長崎回航」
ペリーは「ならば江戸に向かう」として一歩も譲りません。
やむなく香山は独断で4日後に回答をすることで納得してもらい時間稼ぎをします。
しかし、ペリーは江戸湾に測量船を入らせて幕府に圧力をかけます。
この圧力のかけ方もシーボルトの著書からヒントを得たものです。
この圧力の効果もあり、引き伸ばした4日間で老中首座の阿部正弘は幕閣の意見をまとめ、国書の受理を決定したのでした。

(平成17年2月21日記)


 平成15年6月21日

東京湾フェリーで房総半島の金谷へ行きました。
金谷の「鋸山」頂上から見た風景です。
下に見える港が金谷港、向こうに見えるのが三浦半島の久里浜。
東京湾の入口は意外にも狭いんですねぇ。


東京湾フェリー

三浦半島(久里浜)〜南房総(金谷)11.5km
所要時間:35分
1時間に1〜2往復
料金:大人片道500円、往復950円 子供(小学生)片道250円、往復480円

鋸山(南房総国定公園)

海抜329m。
岩肌が鋸[のこぎり]の歯のように鋭いことからその名が付きました。
鋸山は古くから良質な房州石の産地として知られ、江戸から明治にかけて建築用材、護岸工事用材、土木工事用材として盛んに切り出されました。

鋸山ロープウェー

金谷港から徒歩で12分。
営業時間:9時〜5時(冬は4時)
運転間隔:5〜15分
約4分ほどで頂上展望台に到着します。
駐車場:130台
運賃:大人片道500円、往復900円 小児片道250円、往復450円

ペルリ提督の像 平成18年2月22日

東京都港区芝公園2丁目・都立芝公園でお会いしました。

ペルリ提督の像



ペルリ提督の像
(東京都港区芝公園2丁目・都立芝公園)





(平成18年2月22日)



嘉永6年7月(1853年)および安政元年(1854年)に日本の開港のため米国代表として江戸湾を訪れたペルリ提督の出生地でありまた当時日本訪問の出港地である米国ロードアイランド州ニューポート市から親善のしるしに東京都に贈られたものである

米国人フェリックス・ド・ウエルドン作

東京都

(碑文より)

万延元年遣米使節記念碑



万延元年遣米使節記念碑
(東京都港区芝公園2丁目・都立芝公園)





(平成18年2月22日)

万延元年遣米使節記念碑

西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。
副使村垣淡路守範正の詠にいう、

竹芝の浦波遠くこぎ出でて
世に珍しき舟出なりけり

遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。

1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会

(碑文より)


日米和親条約締結交渉

ペリー艦隊が再び浦賀に姿を見せたのは嘉永7年1月16日(1854年2月13日)で、早速乗船してきた幕府の役人は、浦賀奉行与力2人と小通詞の堀達之助と小通詞並の立石得十郎であった。
例によって幕府の引き延ばしとペリーの強硬な態度で、ゴタゴタが続き、いたずらに日にちが延びていった。
1月18日(2月15日)には、長崎から新しい小通詞・名村五八郎が着任し、通詞団に加わる。
日米間のゴタゴタとは、主に会談の場所をどこにするかの問題であった。
日本は浦賀を主張し、ペリーは江戸での会談にこだわった。
結局、1月28日(2月25日)になって、アメリカ艦隊が停泊している前の横浜という寒村で行うことになった。
急遽、農家が取り壊され、畑が潰され会談場の建設が行われた。

日米和親条約締結の交渉は2月10日から始まった。
日本側の主席全権は、林大学頭で、次が江戸町奉行の井戸対馬守覚弘、浦賀奉行の井沢美作守政義であった。
監察が目付の鵜殿民部少輔、顧問格が幕府儒者の松崎満太郎であった。
主席通訳は、森山栄之助があたり、補佐として堀達之助がついた。
交渉は断続的に行われ、3月3日に日米和親条約が調印された。

和親条約の調印を済ませると、ペリーは、開港された下田港と函館港をただちに視察し、さらに下田で和親条約に付随するこまごまとしたことを協議しようと横浜を出港していった。
下田での会議は、5月13日から始まり、貨幣交換の問題や遊歩区域の問題などが話し合われて、22日に13ヶ条の付録条文が合意された。
この間、吉田松陰の密航未遂事件や、寺院宿泊強要事件など様々な問題が起こった。
こうしてペリー艦隊は、下田を6月1日に最終的に出港していった。

(参考:江越弘人著『幕末の外交官 森山栄之助』弦書房2008年)

(平成22年1月10日追記)


日米和親条約締結の地



日米和親条約締結の地
(神奈川県横浜市・横浜開港資料館前の開港広場)





(平成19年11月28日)

日米和親条約締結の地

安政元年(1854)2月から3月にかけて、日米代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結んだ。
これは、神奈川条約ともいわれ、日本の開国を促し、本市の誕生の遠因ともなった。
歴史的舞台となった応接所のあとは、現在の神奈川県庁の付近である。

(説明板より)

玉楠



玉楠
(神奈川県横浜市・横浜開港資料館)





(平成19年11月28日)

開国史跡 玉楠の碑

中庭の玉楠たまくすの木は、江戸時代からこの地にあり、日米和親条約は、安政元年(1854)この木の近くに設けられた応接所で結ばれました。
大正12年(1923)の関東大震災により、木の幹は焼失しましたが、生き残った根から芽が出て、いまや中庭いっぱいに枝を広げる大木となりました。
碑上面の「ペリー提督横浜上陸」の図は、アメリカ日本遠征艦隊の随行画家ハイネの原画による石版画(当館所蔵)を、陶板の上に複製したものです。
右手の大木が玉楠の木の元の姿といわれています。

「ヨコハマ遊大賞」受賞記念
平成11年(1999)6月2日 横浜開港資料館

(説明板より)

ペリー提督横浜上陸の図 (玉楠の碑より)

横浜開港資料館


横浜開港資料館(旧英国総領事館)
(神奈川県横浜市中区日本大通3)

開館時間:9:30〜17:00
休館日:毎週月曜日・資料整理日
入館料:大人200円


(平成19年11月28日)

旧英国総領事館

英国工務省の設計で、昭和6年(1931)に建てられました。
鉄筋コンクリート造3階建一部地階付、銅板葺屋根をもつ邸館風建築で、古典主義建築の秀作です。
英国総領事館は、昭和47年(1972)に横浜での業務を停止しました。
昭和56年(1981)この建物を利用して、横浜開港資料館が開館しました。

(説明板より)

ペリー提督像 平成22年5月25日

北海道函館市・「ペリー広場」でお会いしました。

ペリー提督来航記念碑


ペリー提督来航記念碑
(函館市弥生町2・ペリー広場)

2002年5月 制作者 小寺真知子


(平成22年5月25日)

ペリー提督 来航記念碑

日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、1854年(安政元年)5月17日、開港される函館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。
滞在中には、函館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダグレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。
このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。

函館市

黒船来航150周年(2004年)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、ペリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある地に「ペリー提督来航記念碑」を建立する。

2002年(平成14年)5月17日
ペリー提督来航記念碑建立協議会

(説明板より)

黒船つつじ



黒船つつじ

(函館市弥生町2・「ペリー広場」)



(平成22年5月25日)

黒船つつじ

ペリー提督像の背後にある「つつじ」は、日本名を「黒船つつじ」といい、アジア東北部が原産で、日本へは1668年に渡来したものです。
ここに植えた「黒船つつじ」は、1854年5月17日、箱館港に来航した5隻の黒船(函館山に向って右からマセドニアン号・バンダリア号・ポーハタン号(旗艦)・ミシシッピ号・サウザンプトン号)に因んで植栽したものです。

2002年5月17日
函館市
ペリー提督来航記念碑建立協議会

(説明板より)

ペリー広場



ペリー広場

(函館市弥生町2・「市立函館病院跡地」)




(平成22年5月25日)

ペリー広場

ペリー提督函館来航150周年を記念して、このペリー提督像の立つ敷地の一角を「ペリー広場」(愛称)と命名します。
(正式名称「函病跡地緑地広場」)

平成16年5月17日
函館日米協会

(説明板より)

市立函館病院跡地



市立函館病院跡地
(函館市弥生町2)




(平成22年5月25日)

市立函館病院跡地

市立函館病院は、万延元年(1860年)箱館奉行所直轄の箱館医学所兼病院として山ノ上町(現、弥生町8番地)で開設され明治38年(1905年)11月に、この場所(弥生町2番3号)に新築されました。
以来、逐次、増改築を行い、施設整備に努めてきましたが、近年、建物の老朽化、狭隘化が進み医療が高度化、専門化する中で、市民のニーズに対応すべく、建替えが求められていました。
平成7年に策定された函館病院建替え構想では、敷地規模等の理由によりこの場所での建替を断念し、函館市港町1丁目10番1号への移転が決まりました。
平成9年11月に建設工事に着手、平成12年3月に竣工、同年10月8日に移転をし、万延元年(1860年)から平成12年(2000年)まで、営々と続いたこの地での市立函館病院の歴史に、幕が閉じられることとなりました。

(説明板より)

宇須岸河野館跡



宇須岸河野館跡
(函館市弥生町2・市立函館病院跡地)




(平成22年5月25日)

宇須岸河野館跡

享徳3年(1454年)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したと言う。
政通は、当時「宇須岸」と呼ばれていたこの地に「館」を築いたが、これが「宇須岸河野館」で、その大きさは、東西35間(約126m)、南北28間(約100m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれる。
この「河野館」に由来して「箱館」という地名が生まれたと伝えられている。(明治2年「函館」と改称された。)
永正9年(1512年)アイヌとの抗争で、河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後百余年にわたって衰微したとの伝承が生まれた。
箱館は18世紀初頭(元禄時代末)から亀田川下流域からの住民の移住が増加、これに伴い相次いで寺院も移転し、箱館港の繁栄が顕著になっていった。
次いで、寛保元年(1741年)には松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地に移されて、繁栄への基礎が築かれた。
寛政11年(1799年)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、享和2年(1802年)箱館奉行所が置かれ、この地に箱館奉行庁舎も築かれ、箱館に拠点を据えた高田屋嘉兵衛の活躍などもあって箱館は大きく発展した。
箱館奉行庁舎は、明治に入ってから開拓使の庁舎となり、その後、北海道庁函館支庁庁舎となるなど、[河野館」跡は函館の行政の中心地であった。

函館市

(説明板より)


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