頼山陽 らいさんよう

安永9年12月27日(1780年1月21日)〜天保3年9月23日(1832年10月16日)


通称は久太郎。
大坂生まれ。
広島藩儒の父親に従って広島に移る。
叔父の杏坪きょうへいに学び、江戸遊学後、一時情緒の安定を欠き、寛政12年(1800年)に脱藩したため座敷牢に幽閉される。
のちに菅茶山かんちゃざんの廉塾を経て上京。
篠崎小竹や梁川星巌などと交わり、歌作の旅での交友も多い。
歴史家としても著名で、『日本外史』『日本政記』で展開した史論は、幕末の志士たちの歴史意識・尊王思想の形成に多大な影響を与えた。


生誕地



頼山陽生誕地

(大阪市西区江戸堀・金光教玉水教会 玉水記念館)





(平成20年6月18日)

頼山陽生誕地

「日本外史」の著者として有名な頼山陽は、広島藩の儒学者であった父の頼春水が大坂の儒者飯岡義斎の二女静子と結婚し 江戸堀のこの付近に家塾「青山社」を開いて弟子の教育をしているとき、安永9年12月27日(1780)、この地で生まれた。

(説明板より)

生誕地



頼山陽生誕地

(大阪市西区江戸堀1−10−31・玉水記念館)





(平成20年6月18日)

頼山陽居室



頼山陽居室
(広島市中区・頼山陽史跡資料館)




(平成22年5月2日)

国の史跡「頼山陽居室」

頼山陽は、安永9年(1780)に大阪で、春水しゅんすいを父に梅?ばいしを母として生まれた。
春水は当時家塾青山社を開いていたが、広島藩の学問所創設にあたり、新進の朱子学者として迎えられたので、広島に移った。
この敷地にあった屋敷に住むようになったのは寛政2年(1790)からである。
山陽は、ここで育ち、漢学を修めた。
寛政9年、18歳の時に江戸に遊学し、1年後に帰藩したが、同12年には志を立てて脱藩し、京都で福井新九郎方に身をよせた。
頼家では山陽をつれもどし、邸内の離れの一室に幽閉し、その期間は5年に及んだ。
この離れが現在の頼山陽居室にあたる。
この間、山陽は著述に専念し、晩年に完成する「日本外史」の草稿を仕上げたといわれる。
この書は、幕末から維新にかけての転換期に大きな思想的な影響を与えた。
その後、廃嫡となった山陽は、神辺の廉塾れんじゅくを経て京都に上り、半生を送った。
天保3年(1832)53歳で没したが、いっさい禄仕せず、もっぱら著述に従事した。
詩文と書をとおして山陽の名は天下にきこえた。
居室は原子爆弾で焼失したが、昭和33年、広島県が復元した。
居室を含む30坪余の地域は史跡に指定されている。

(説明板より)

居室内部 
頼山陽居室  居室前の庭園

史跡 頼山陽居室

指定年月日 昭和11年(1936年)9月3日

頼山陽は朱子学者頼春水の長男として安永9年(1780)大阪に生まれましたが、青年期を、この地にあった屋敷で過ごしました。
21歳の時、脱藩し直ちに京都から連れ戻された後は、この居室に5年間閉じ込められ、当時ベストセラーになりました『日本外史』の草稿はこの居室で書いたといわれております。
建物は昭和20年(1945)8月6日 原子爆弾の災禍を受け倒壊焼失しましたが、昭和33年(1958)旧姿に復元・再建したものであります。

平成4年(1992)3月31日
広島県教育委員会

(説明板より)

頼山陽史跡資料館



頼山陽史跡資料館
(広島県広島市中区袋町5−15)




(平成22年5月2日)

【三快戦】

戦国時代に何千とある「いくさ」のうち、頼山陽が「三快戦」と命名した合戦が三つあります。
最初が天文15年(1546年)の川越の夜戦、2番目が弘治元年(1555年)の厳島の戦い、3番目が永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いです。
共通点は、約10倍の敵に快勝した戦いであることです。

川越の夜戦は、北条氏康うじやすが8千の兵力で上杉憲政のりまさ、扇谷朝定おうぎやともさだ、足利晴氏はるうじの連合軍約8万を、厳島の戦いは毛利元就が3千500の兵力で陶晴賢すえはるかたの約2万の軍を、そして桶狭間の戦いは織田信長が約3千の兵力で今川義元の約2万5千の兵を、それぞれ破った戦いでした。

もうひとつの共通点は、全ての戦いで、裏に見事なインテリジェンス活動が秘められていることです。
特に川越の夜戦と厳島の戦いにおいては、宣伝謀略の勝利ということができます。

(参考:太田文雄 著 『日本人は戦略・情報に疎いのか』 芙蓉書房出版 2008年第1刷発行

(令和元年11月8日 追記)




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