零式艦上戦闘機21型


【零式艦上戦闘機21型】

九六式艦上戦闘機の後継機として三菱が開発した機体。
海軍は運動性能、航続力、武装などで高い水準を求め、三菱は徹底した軽量化などで対応した。
最初の生産型である11型を航空母艦搭載用として主翼の両端を折り畳めるように改良したものが21型であり、対米戦初期に活躍した。

採用時期:昭和15年(1940年)
製造:三菱ほか
搭乗員:1名
発動機:栄12型(空冷複列14気筒・940ph)
最大速度:533.4キロ/時・高度4550m)
上昇時間:高度6000mまで7分27秒
上限高度:10,000m
飛行距離:1200km
武装:7.7mm機銃×2、20mm機銃×2・搭載可能爆弾30〜60kg×2
生産機数:3,561機

(参考:『歴史読本』 2012年8月号)

(平成29年4月6日 追記)


 平成21年12月8日

アメリカ合衆国・ハワイ・太平洋航空博物館




零戦21型
(ハワイ・太平洋航空博物館)



(平成21年12月8日)

三菱A6M2 零戦 日本海軍

名称:21型航空母艦搭載用零式戦闘機
製造数、全型:10,815機
エンジン:950馬力 中島飛行機製作所製“栄”12型
乗員:1名
初飛行:1939年4月1日
最初の実戦参加:1940年4月19日ー漢口、中国
最大速度:516キロ、高度約5,000メートル
航続距離:約3,100キロメートル
武装:機首に装備された前方固定式7.7ミリ機関銃2丁
    主翼に装備された20ミリ機関砲2丁

(日本語説明板より)

零戦21型

戦いの夜明け
1941年12月7日、日曜日、朝7時15分、オアフ島北方約320キロ

オアフ島の米太平洋艦隊と飛行場の攻撃に向かう第二次攻撃隊の発進準備をする日本帝国海軍の航空母艦飛竜の航空機搭乗員達。
彼等の爆弾と魚雷が日本のアメリカに対する新たな戦争の布告となりました。
8時少し前に真珠湾に到達する運命だった第一次攻撃隊はこの1時間前に発進しています。

第4戦闘部隊の海軍1等飛行兵曹、西開地 重徳が彼の零戦の操縦席に乗り込むところです。
彼のこの朝の攻撃目標はカネオヘの海軍航空基地とベローズの陸軍飛行場でした。
彼の運命は攻撃後に飛竜に帰還するのではなく、戦闘で傷ついた戦闘機を離れ小島のニイハウ島に不時着させるという結果に終ることになります。
もっとも興味深い、しかし殆ど知られる事のない第二次世界大戦の戦争秘話の1つはその島でその後1週間にわたって起こり続けるのです。

この機体は真珠湾攻撃に参加した飛行機という形で展示されていますが、実際は1942年12月に製作されたものです。
残された資料によりますと、この飛行機は中島飛行機製作所で500機目として製作され、ソロモン諸島の第201飛行大隊の24航空小隊に配備されました。
その後、戦闘による損傷でバラレ島の密林に放置されました。

1964年に機体が回収され、1980年代半ばに航空記念団体のために飛行状態まで修復されました。
使用できる“栄”12型エンジンがなかったために、馬力、重量、外見がオリジナルの日本のエンジンに似たアメリカのプラット&ホイットニイ製R−1830型エンジンが搭載されました。

現在飛行可能な零戦の数は極めて少ないです。
後期型の1機だけがオリジナルの日本製のエンジンで飛行可能な状態にあります。

(日本語説明板より)


零戦21型 平成20年11月6日

零式艦上戦闘機 21型改造複座機

この零戦ぜろせんは、1972(昭和47)年ラバウル北西ニューブリテン島沖の海底で発見され引き上げられた。
ベースは零戦21型で、数機の部品を合わせて作られており、偵察用として2座席に改造されている。

この機体は、エンジンが見えるようエンジンカバーを外して展示しています。

(説明板より)

零戦21型



零戦21型(複座改造型)
(東京都台東区上野公園・国立科学博物館)





(平成20年11月6日)

【改造14回】

零戦は日本でもっとも大量に生産された機種である。
フロート(浮舟)をつけた二式水上戦闘機372機を含め生産総数は1万425機。
この数字は日本の陸海軍および民間の全機種を通じ群を抜いて第1位である。
そのうえ、次々に登場してくる連合国側の新鋭機に対応するため、改造すること14回にもおよんでいる。

(参考:坂井三郎 著 『零戦の真実』 講談社 1992年6月第4刷発行)

(平成29年4月21日 追記)


【「栄」エンジン・クランク軸折損事故】

「栄」は中島独自の設計になる最初のエンジンだった。
しかし、他の多くのエンジン同様、量産の初期製品にはいろいろな故障が発生した。
中でも大きかったものはクランク軸が折れる事故だった。
「最初のころは作ったエンジン250台のうち、50台くらいが折れた」というので大問題になった。

クランク軸には、コンロッド軸受との接触面に潤滑油のオイルを回すための油孔があけてある。
この油孔は、クランク軸の表面に強化のため滲炭しんたんをした後あけるが、後からあけた油孔の内面は滲炭されておらず、そこにクランク軸の捩じり振動による応力集中が起きて、油孔の部分からクラック(割れ目)が入り、クランク軸が折れるというものだった。
対策としては油孔(内径約5ミリ)の内面を硬化してやることで、油孔に孔の内径よりわずかにサイズの大きいベアリング用のボールを通してみた。
これによって、孔の内面に塑性加工を与えたのと同じことになり、強度が向上する。
実施部隊で使っているエンジンを、順次に航空廠に持ってきて分解し、全部にこの処置を施したところ、クランク軸折損の事故はピタリととまった。

(参考:碇義朗 著 『航空テクノロジーの戦い』 光人社NF文庫 1996年3月発行)

(令和2年5月6日 追記)


 平成26年4月30日

オーストラリア戦争記念館(オーストラリア・キャンベラ)

零戦 (V−173号機)

Mitsubishi A6M2
ZERO FIGHTER
V-173

The Zero naval fighter was probably
the best known Japanese aircraft in the
Second World War.Designed to be operated
from aircraft carriers,in 1941 the Zero
combined a long range with speed and
heavy armament.

Zero fighters headed the strike force of the imperial
Japanese Navy thoughout the critical campaigns of 1941 - 42.

these nimble Japanese fighters fought Australian Kittyhawks
for control of the air during the battles for port Moresby and
Milne Bay.This Zero was built in early 1942 and was flown
by the TainanKokutai (Taiwan Air Group) from bases at
Rabaul and Lae during June and July.Sakai Sabrou,the fourth-
ranking Japanese air ace,often flewthis aircraft,V-173.
Damaged in action,the aircraft was abandoned on the island
of Gasmata in about 1943 and was later captured.

(説明板より)



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