【陸軍航空特攻の開祖】
「特攻隊は海軍が昭和19年10月25日のレイテ湾海戦の時、第1航空艦隊の第201航空隊(零戦)を投入したのが最初」とされている。
海軍特攻隊の場合、現地で航空艦隊司令長官の発案により自然発生的に生まれた。
ところが、レイテ島防衛戦で陸軍航空部隊も体当たりの特攻隊を編成したが、内地で編成された。
パイロットは初め「飛行機を現地へ空中輸送せよ」という命令を受けていた。
航空総監・菅原道大みちお中将(陸士21期)が、教導飛行師団長・今西六郎中将に特攻隊の編成を内命したのは、台湾沖航空戦の10月13日のことであった。
つまり海軍より1週間以上も早い。
具体的な人選は各航空部隊の司令官に任された。
やがて10月25日、海軍の特攻隊がデカデカと新聞に発表されるや、陸軍は海軍に先を越された格好となる。
空中輸送をしたパイロットたちは、フィリピンに着くと第4飛行師団がなぜか自分たちだけを下へも置かぬほど歓迎してくれるので、「これは変だぞ」という気になった。
海軍の特攻機(零戦)では250キロ爆弾1発を抱いた身軽な方法で出発した。
だが、陸軍の場合、どうせ体当たりで人命を失うなら爆発威力のあるものをという思想のもと、爆撃機の特攻隊から出発した。
まず2つの特攻隊が編成された。
1つは茨城県鉾田の九九式双発軽爆5機(10名)、もう1つは浜松の新鋭・四式重爆撃機「飛龍」9機(26名)だった。
前者はのちに万朶ばんだ隊、後者は富嶽ふがく隊と命名される。
九九双軽も四式重爆「飛龍」も長い電導管(信管)を3メートルほど棒のように機首から突き出し、その後端は爆弾に導かれていた。
こうすれば機首が敵艦に触れた瞬間、電気で爆発が起こるわけだ。
さて、800キロ爆弾を搭載することになったが、そんな大型の爆弾は陸軍にはない。
そこで海軍から二式800キロ通常爆弾が供与された。
これは厚さ7センチの鋼板を破りうるとされていたから、米空母の甲板を打ち破れると計算された。
九九双軽はこれを1発、「飛龍」は2発を搭載した。
だが陸軍の特攻は運が悪かった。
彼らはルソン島で待機しているうちに「来たる11月7日の夕刻、第4航空軍司令官がネグロス島から帰ってくるから申告(到着の挨拶)をするように」という命令を受けた。
司令官の富永中将はとかく個人的に部下を褒める傾向があり、特攻隊員に酒をふるまうのが好きだったのである。
11月5日の朝、申告のため万朶隊のうち士官4名が、隊長の岩本益臣大尉機に便乗し、リパから北のマニラへ向かう。
残る空中勤務者は下士官5名だけだ。
ところがこの時、たまたま米第38機動部隊(4つの空母集団)がマニラを大空襲してきた。
九九双軽は後方からグラマンF6Fヘルキャットに襲われて墜落、万朶隊の幹部は全員戦死してしまう。
九九双軽は本来は4人乗りだが、特攻用のものは将校と下士官とがコンビとなって二人乗りで済むようになっていた。
1機に1人では、もう出撃出来ない。
他方、西尾常三郎少佐の富嶽隊(「飛龍」)は、これより遅い11月7日にマニラから発進し、ルソン島東方洋上にある米機動部隊に向かった。
しかし、結局、「飛龍」は会敵せずに帰ってきたが、1機が航法を誤ったのか未帰還となり、2機が不時着事故というありさまだった。
11月13日、下士官だけになった万朶隊は、ルソン島南部のカローカン飛行場から5機がレイテ島のレイテ湾に向かい発進した。
5機のうち1機がエンジン故障で帰り、別の1機は爆撃後、帰投して基地を驚かせた。
「残る3機はP−38に迎撃されつつも輸送船に体当たりした」と戦果確認のため同行した飛行第33戦隊の3機の「隼」は述べているが、アメリカ側にはその裏付けはない。
(参考:木俣滋郎 著 『陸軍航空隊全史』 朝日ソノラマ 文庫版航空戦史シリーズ90 1994年7月 第6刷発行
(令和2年3月31日 追記)
第42振武隊 |
編成担任は明野飛行学校。
使用機種は旧式の九七式戦闘機(12機)
昭和20年2月14日編成完結。
発進地は喜界島〜知覧
突入した隊員は9名。
出撃月日 | 突入場所 | 氏名 | 出身県 | 生年 | 階級等 |
昭和20年4月8日 | 沖縄周辺洋上 | 牛島 久男 | 埼玉 | 大正11年 | 少尉(特別操縦見習士官1期生) |
尾久 義周 | 神奈川 | 大正11年 | 少尉(特別操縦見習士官1期生 | ||
仙波 久男 | 愛媛 | 大正13年 | 少尉(特別操縦見習士官1期生) | ||
松沢 平一 | 長野 | 大正11年 | 少尉(特別操縦見習士官1期生) | ||
昭和20年4月9日 | 沖縄周辺洋上 | 猫橋 芳朗 | 大分 | 大正12年 | 少尉(陸軍航空士官学校57期生) |
近藤 幸雄 | 大分 | 大正12年 | 少尉(特別操縦見習士官1期生) | ||
馬場 洋 | 東京 | 大正12年 | 少尉(特別操縦見習士官1期生) | ||
昭和20年4月16日 | 沖縄周辺洋上 | 篠田 庸正 | 福岡 | 大正10年 | 少尉(特別操縦見習士官1期生) |
昭和20年5月4日 | 沖縄本島付近 | 岩崎 辰雄 | 宮崎 | 大正7年 | 少尉(特別操縦見習士官1期生) |
(参考:生田惇 著『陸軍航空特別攻撃隊史』 昭和52年12月発行 ビジネス社)
(参考:(財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編 『特別攻撃隊全史』 平成20年初版)
(平成29年4月8日 改訂)
誠忠院釋芳耀居士 猫橋芳朗の墓 (大分県中津市新魚町・自性寺) (平成23年2月11日) |
故陸軍大尉正七位勲五等功三級 猫橋芳朗
昭和20年4月9日戦死 行年23才
大東亜戦争に参加し昭和20年2月11日特別攻撃隊第42振武隊隊長を命ぜられ部下9名と共に4月9日沖縄島周辺の敵艦隊に突入す
辞世 畏くも賜名に栄ゆ我か隊は
四ニて振武の名おは留めん
昭和11年4月元山公立中学校入学
仝13年4月広島陸軍幼年学校入校
仝16年4月陸軍予科士官学校入校
仝17年7月陸軍航空士官学校入校
仝19年3月同校卒業
仝19年7月陸軍少尉任官
仝20年4月任陸軍大尉
昭和33年5月建之 母トミヲ
(碑文より)
猫橋芳朗
陸軍航空士官学校第57期生
昭和20年4月9日、17時40分、喜界島より近藤幸雄少尉、馬場洋少尉とともに出撃。
同時に第68振武隊(九七式戦闘機)の山口恰一少尉(陸軍士官学校57期生・佐賀県出身)も喜界島から出撃している。
また、同じ日に石垣島から薄暮に出撃し、沖縄の中城湾に突入した飛行第105戦隊(三式戦闘機「疾風」)の内藤善次少尉(中尉の説あり)(陸軍航空士官学校56期生)がいる。
(参考:生田惇 著『陸軍航空特別攻撃隊史』 昭和52年12月発行 ビジネス社)
第201神鷲隊 |
階級 | 氏名 | 出身県 | 出身別 | 生年 | 戦死場所 | 戦死日 |
中尉 | 小川 満 | 香川 | 陸士57期 ※1 | 大正13年 | 犬吠埼東方洋上 | 昭和20年8月13日 |
少尉 | 横山善次 | 栃木 ※2 | 特操2期 | 大正12年 | 犬吠埼東方洋上 | 昭和20年8月13日 |
伍長 | 藤田重喜 | 北海道 | 特幹1期 | 大正14年 | 犬吠埼東方洋上 | 昭和20年8月13日 |
※1=「陸士」は「陸軍航空士官学校」かもしれない。
※2= 「栃木」は誤記と思われる。正確は「茨城」
陸士=士官候補生、特操=特別操縦見習士官、特幹=特別幹部候補生
(参考:(財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編 『特別攻撃隊全史』 平成20年初版)
(平成29年4月8日 追記)
正七位勲五等雙光旭日章 神鷲特別攻撃隊 陸軍大尉 横山善次 像 (茨城県ひたちなか市・華蔵寺) (平成23年5月31日) |
横山家墓所 (茨城県ひたちなか市・華蔵寺) (平成23年5月31日) |
【側碑・碑文】
尽忠至孝の士
陸軍大尉 横山善次 君
君は大正12年6月水戸市七軒町に生る。
青年期は明治学院に学ぶ学徒たりしが、太平洋戦争の戦局が苛烈となる昭和18年12月「学徒出陣」の命下るや、勇躍ペンを捨て救国の悲願に燃え、航空決戦に参加す可く特別操縦見習士官を志願、敢然操縦桿を握り碧空に雄飛す。
然れども戦勢日々に非にして本土決戦の様相目前に迫る20年8月、米艦隊は関東地方の沖合を遊弋し、水戸、日立も又戦火に晒されんとす。
こよなく国を愛し郷土を愛する君は、特別攻撃隊、神鷲第201隊々員として8月13日薄暮、愛機「屠龍」を駆り鹿島灘東方洋上の敵に必殺の体当たり攻撃を敢行、巡洋艦撃沈の大戦果を挙ぐ。
為に敵は水戸攻撃を断念、東方に避退せる由、是戦史の記する所なり。
一身を抛ち郷土を護りたる君の偉業は永くこの地の人の心に留められん。
干戈収まりて星霜五十年。
茲にその偉業に対し奉賛、顕彰の誠を捧ぐるものなり。
英魂永しえに、此の国を護り給わらんことを。
平成7年8月13日
特操2期八日市会 撰文
横山充孝 建之
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