『留魂』の碑 (京都市東山区・霊山観音) (平成16年4月2日) |
碑文
留魂之賦
陸軍中野学校は創設の精神に鑑み大楠公を師表と仰ぎその至誠殉忠を以て教育の基本とせり
蓋し誠は情と理の極まる処 古今東西に通ずる大道たり
己を滅却して礎石たるに安んじ 名利を棄て 悠久の大義に生くるの信念は実に茲に渕源す
我等中野に学びて特殊の軍務に服し 或は厳しき使命を帯びて世界の各地に勤務し 或は東亞の諸地域に於て大東亜戦争の一端に従う
数多の同志その任に殪れて遂に帰らず 又戦後祖国の再建に力を致し既に不歸の客となる者尠なからず
畏敬追慕の情 歳とともに深し
今 校友相図り維新の史蹟霊山の聖地に一碑を建立して先達英霊を迎え祀ると共に祖国の弥栄と世界の平和を祈念して此の碑に我等が志の支柱たる誠の精神を留めんとす
更に遺霊許し給わば我等も亦棺を蓋うの日兄等の膝下に参じ以て同志骨肉の交りの永劫に絶えざらんことを冀う
茲に兄等と共に愛唱せし三三壮途の歌を賦して慰霊の微衷を捧ぐ
昭和56年4月11日
中野校友会 会長 櫻一郎 撰並書
陸軍中野学校跡 (東京都中野区4丁目・警察学校跡) (平成17年12月10日) |
警察学校跡地 この辺が陸軍中野学校があった場所ではないかと思われる。 工事フェンスの隙間から撮影。 建物は警察学校の校舎だろうか? 現在、再開発中のようでした。 (平成17年12月10) |
昭和13年
東京・九段に陸軍初のスパイ養成所である『後方勤務要員養成所』が創設される。
昭和14年
東京・中野に移転。
陸軍大臣直轄(のちに参謀総長直轄)になり名称も『陸軍中野学校』(東部第33部隊)となる。
当初は秘密戦(諜報や謀略)を専門に教育し特務機関や各部隊の秘密工作班に要員を派遣する。
昭和18年
遊撃戦(ゲリラ戦)の専門教育も加わる。
昭和19年
遊撃戦専門教育機関として静岡県磐田郡二俣町に『陸軍中野学校二俣分校』を設置する。
昭和20年
中野本校は群馬県富岡町に分散疎開し終戦を迎えた。
(平成18年8月26日追記)
【陸軍中野学校】
陸軍中野学校が創設されたのは、初代兵務局長の阿南惟幾これちか少将(終戦時の陸軍大臣)の発議で「秘密戦実行要員機関」の設立を命じられたことが端緒になっていた。
日米開戦の5年前である。
現在、中野区役所が建っている一帯は、戦前「囲町」と呼ばれ、陸軍通信隊の跡地であった。
教育総監部の管轄下にあった陸軍憲兵学校と塀を境にして、西側に学校が置かれていた。
しかし、早稲田通りに面した表門に掲げられた看板には「陸軍省通信研究所」とあり、中央線の線路側に作られた裏門の看板は「東部三十三部隊」と書かれた木札が掲示されているだけで、ここが陸軍中野学校であることを示すものは一切なかった。
ちなみに「陸軍中野学校」の校名は発祥の地、東京・中野の地名からつけられたものである。
昭和14年(1939年)8月、第1期生が卒業。(1名病気退学、1名不祥事で軍法会議、18名が卒業)
第1期生の任地
阿部直義(インド)、伊崎喜代太(中国)、猪俣甚弥(満州)、扇貞雄(満州)、岡本道雄(参謀本部第8課)、亀山六蔵(アフガニスタン)、日下部一郎(中国)、越巻勝治(中国)、境勇(中野学校)、須賀通夫(兵務局)、杉本美義(兵務局)、新穂智(インドネシア)、牧沢義夫(コロンビア)、真井一郎(蒙古)、丸崎義男(中野学校)、宮川正文(ドイツ)、山本政義(中野学校)、渡辺辰伊(ソ連)
戦後、行方不明になった中野卒業生のなかでもっとも多くの未帰還者を出したのは関東軍と満州国で勤務していた人たちであった。
行方不明者のほとんどがシベリアに抑留されるか、スパイとしてソ連軍に現地で処刑されたといわれているが、真相は藪の中である。
行方不明者のなかには戦後、別人に変身して内地に帰還したものもいるが、その実態はまったく分かっていない。
中野学校で学んだ学生の総数は2,131名。
そのうち戦死者は289名、行方不明者は376名である。
【陸軍中野学校二俣分校】
昭和19年9月、陸軍中野学校二俣分校(静岡県磐田郡二俣町・現在の天竜市二俣町)が新設され、遊撃隊幹部要員教育が本格的に開始された。
この分校は開校時から「遊撃戦」、いわゆるゲリラ戦の専門要員を養成する目的で作られた学校であった。
幹部候補生228名が第1期生として入校、3ヵ月の教育の教育で戦地に派遣されていったが、戦局の不利はいかんともしがたく、戦果はあまり上がらなかった。
卒業生は1期生226名(うち戦死36名、不明40名)、2期生202名(戦死3名、不明21名)、3期生125名(不明2名)の553名。
4期生28名(うち2名は、なぜか不明者となっている)は教育中に終戦を迎え、分校は8月25日に完全に閉鎖された。
【精神教育のバックボーン】
中野学校においては、吉原正巳教官による国体学が精神教育のバックボーンになっていた。
吉原は5・15事件に士官学校の生徒として参加して叛乱罪で裁かれ、4年の禁固刑に処せられた。
収監された代々木の衛戍監獄の獄中で、皇国史観を唱える東京帝国大学国史科助教授・平泉澄きよしの書いた国体学をそらんじ、出獄後、平泉の門下生になった。
彼の皇国史観というのは天皇を天照大神の末裔と位置づけ、日本は天皇を中心にして成立しているという歴史観であった。
吉原は「新国体学」ともいうべき「吉原国体学」を編んで、中野学校の精神教育の礎にしたといわれている。
その思想の原点は北畠親房の著した『神皇正統記』に依拠するところが多かった。
また、中野の精神を一言で象徴する言葉は「誠の精神」といわれており、吉原はこの言葉を四書の「中庸」から引用していた。
「誠は天の道なり。之を誠にするは人の道なり。誠は勉めずして中り、思はずして得、従容として道に中る。聖人なり。之を誠にするは善を捉んで之を固執する者なり」
つまり、「スパイ道も誠を貫き、誠で相手に接触することが肝要」と説いたわけである。
【泉部隊】
昭和20年(1945年)4月、中野学校が群馬県富岡町に疎開。(富岡校と称す)
6月に富岡校で「泉部隊」が編成された。
泉部隊は「完全に地下に潜り、身分、行動を秘匿し、個人または少数の者が、全国至る所に地下より泉のように湧きでて尽きないゲリラ活動を行なう」という部隊で、要するに、この特殊部隊は国内遊撃戦を想定して各地の民間人を指揮し、いかなる事態が起きても隊員は次から次へと泉のように湧き出て、米軍にゲリラ戦を挑むという隠密部隊であった。
そして教育と訓練は「爆破と破壊活動」に重点が置かれていた。
しかし泉部隊は実戦で活躍する機会はなく、隊員は任地で終戦を迎えている。
(参考: 斉藤充功 著 『陸軍中野学校〜情報戦士たちの肖像〜』 2006年初版第1刷 平凡社新書)
(平成27年7月9日・追記)
【陸軍中野学校】
組織が確立し、いよいよ学生を募集する段になった時、大方の意見が、陸軍士官学校卒業生の中からさらに選抜した者を中野学校で教育しようというものであったのに対し、設立委員の岩畔豪雄は、軍人精神一点張りで教育された者では情報を正しく評価できないと言って、既に一般社会で働いている者から中途採用で入学させることを主張した。
結局、岩畔の意見が入れられ、当時、半分民間人のように考えられていた予備士官学校の学生を採用することになった。
岩畔は技巧だけに走ることを戒め、「情報を的確に判定する能力こそスパイとしてもっとも大事な能力である」と説いた。
「情報を的確に判定するためには、情報を取ろうとする相手よりこちらの方がより高いレベルに立っていなければならない」
それが彼の持論だった。
本来、中野学校が目指したのは情報を盗んでくるコソ泥ではなく、高い次元で工作活動を実践できる者の養成であり、その理想とするところは、日露戦争の時の明石元二郎大佐だった。
高レベルの工作活動に対する需要は、日本の大陸政策と密接に関係していた。
日本の大陸侵略と呼応し、大陸で暗躍するようになったのが、「壮士」とか「大陸浪人」と呼ばれる人士であった。
そうした中には、頭山満のように中国人からも賞賛される傑物もいた反面、日本で食い上げたごろつき同然の者も大勢混じっていた。
彼らにとっての最大の武器が、暴力を背景とした非合法活動であったことは言うまでもない。
こうした「壮士の親方」を頼りにした大陸政策では、逆に反日運動を高揚させることが多く、それに対する反省から、もっと大所高所に立って工作活動ができる人材の養成が要望されるようになっていた。
そうした要求に対する回答が中野学校であった。
(参考:橋本 惠 著 『謀略 かくして日米は戦争に突入した』 早稲田出版 1999年第1刷)
(平成29年2月2日 追記)
【斎藤特別義勇隊(高砂特別義勇隊)】
昭和18年1月、敗色濃いニューギニア北岸のマダンは補給上の大基地。
このマダンの貨物廠で、台湾高砂義勇兵500名が主に軍需品の担送に従事していた。
そこに米豪軍は蛙飛び作戦で、海と空から戦闘力の弱い物資補給基地に攻撃を加えてきた。
弾薬その他もさることながら、食糧の補給が何より優先するニューギニア戦線で、この基地を失うことは、所在の陸海軍にとっては致命的な損害となる。
そのため、昭和18年5月中旬、急きょ、ラバウルの第8方面軍司令部に勤務していた斎藤、中森、小俣中尉、神藤軍曹、加藤、田中、山田、松永、高良、小林、加藤、高木、綿野の各伍長等いずれも中野学校出身者を幹部とし、500名の高砂義勇隊員より110名を選抜して斎藤特別義勇隊が編成された。
部隊は2個小隊で、1個小隊は4個分隊で編成。
1個分隊(分隊長は伍長)は高砂兵13名。
本部は伍長1名のほかに高砂兵6名という編成であった。
1ヶ月の戦闘訓練の後、8月31日より遊撃戦に従事した。
昭和19年1月2日、米軍はサイドルに上陸し、義勇隊は師団の転進を援護するため敵の後方に進出。
この間、飢餓と戦いながら高砂兵は任務を果たしたが、この転進中に倒れた日本兵は3700名を超えた。
4月22日、連合軍は遂にアイタベ、ホーランジャ地区に上陸。
7月10日、義勇隊は総攻撃に先立って、米軍が占領した飛行場周辺の情報収集にあたった。
この時の攻撃で、兵力が3〜5%になる部隊も出た。
昭和20年に入って、戦況はさらに悪化し、第20師団正面の激戦が続き、義勇隊は今まで以上に敵の後方かく乱に努めた。
5月下旬、軍命令により、ダクア飛行場の爆破を命じられ、爆破に成功したが、その帰途、稜線上に敵の幕舎4つを発見。
月の出を合図にこれを爆破したが、義勇隊側にも多くの損傷者を出した。
7月25日、軍司令官より各師団、各部隊に玉砕命令が出された。
8月16日、義勇隊は玉砕攻撃のための進路偵察の任務を与えられ、軍司令部を出発したが、その途中、敵の飛行機から撒かれたビラで終戦を知った。
(参照:門脇朝秀 編著 『台湾高砂義勇隊〜その心には今もなお日本が〜』 あけぼの会 平成6年1月 発行)
(令和2年9月11日 追記)
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