陸軍少年飛行兵


【少年飛行兵の登場】

飛行機の操縦には敏感さと運動神経の鋭さとが必要である。
特に戦闘機乗りがそうだ。
大人になってしまってからでは、この勘はなかなか体得できない。
そこで少年のうちから航空兵として訓練する必要がある。

昭和9年、陸軍少年飛行兵の第1期生が埼玉県所沢に入校した。
操縦170名、技術260名という内容だ。
木造2階建てのコゲ茶色の校舎で座学や体育、銃剣道(※柔剣道?)のカリキュラムを受けるのである。
卒業までに2~3年かかった。
3~5年の下士官生活を送れば、のちに航空士官学校(少尉候補者)への受験資格も与えられるようになった。

(参考:木俣滋郎 著 『陸軍航空隊全史』 朝日ソノラマ 文庫版航空戦史シリーズ90 1994年7月 第6刷発行)

(平成31年1月4日 追記)


【陸軍少年飛行兵】

陸軍は海軍の予科練より4年遅れの昭和9年(1934年)に少年飛行兵の制度を発足させ、埼玉県の所沢陸軍飛行学校の中に生徒隊というコースが設けられた。
所沢には明治44年、すでに飛行場が設けられ、陸軍航空のメッカであった。
第1期の少年飛行兵170名は予科練1期生より90名多い。
このうち70名が操縦、100名が技術である。

陸軍が予科練と違うところは、整備員(機械工)を養成する技術科も初めは操縦科と一緒に訓練したことである。
そして2年後の卒業時に適性・身体検査などにより分けたのである。

翌昭和10年、操縦コースだけは埼玉県の熊谷陸軍飛行学校に移った。
昭和13年、東京陸軍航空学校が村山(東京・北多摩郡村山)に設けられ、第6期生500名が熊谷から移転した。
太平洋戦争が始まった昭和16年の第7期生は1200名にも達していた。
同校は2年後、東京陸軍少年(飛行)兵学校と改称した。
このとき、東京の西に当たる立川飛行場に分校を開設している。
昭和17年、滋賀県大津にも分校が設立され、第15期の1300名中、約半分が東京から移った。
翌昭和18年、パイロットの緊急養成のため、九州に大分陸軍少年飛行学校が新設され、第17期の800名が入校した。
このころには毎年2回入隊、修学は1年というインスタント教育である。
宇都宮と大刀洗(福岡県)にある陸軍飛行学校でも少年飛行兵を教育した。
宇都宮には第8期以降(昭和14年4月、1000名が入校)が入隊した。
大刀洗飛行学校は特別幹部候補生(いわゆる特幹)の教育隊としてのちに有名になるが、そこには少年飛行兵もいたのである。
大刀洗校は熊本県の隅庄や菊池、さらに韓国の大邱と群山にも教育隊を置いた。

昭和12年7月、日華事変が始まり、早くも少年飛行兵1期生が参加している。
彼等は九三式双発重爆撃機や九二式偵察機、九二式戦闘機を駆って中国北部を飛んだ。
2年後のノモンハン事件には昭和12年に入校した第4期生150名(操縦)の何割かが参戦している。

昭和18年に入学した第17期生1500名の場合、彼らは25~26名で班をつくり、班8個で1個中隊となった。
予科練の班より少年飛行兵の班は10名多い。
班長は下士官、中隊長は将校で、これは予科練と同じである。
早朝6時に起床、就寝は夜10時である。
午前中は座学、午後は実習や軍事訓練、体育だった。
1年後に東京陸軍少年飛行兵学校を卒業するとき、操縦、整備、新しく加わった航空通信のいずれに進むかが決定される。
操縦は埼玉県熊谷と栃木県宇都宮にある陸軍飛行学校に進む。
ここで2年間教育されるが、最初の1年は地上教育とグライダーのプライマリー型に乗り、2年目からは九五式練習機(いわゆる「赤とんぼ」)に乗り、そして操縦下士官となる。

整備コースには所沢と岐阜に航空整備学校があった。
所沢校は昭和12年までは航空技術学校と呼ばれ、工作や機関工学などを教育した。
岐阜校は昭和18年に設けられたが、岐阜郊外には日本陸軍航空のあけぼの時代から各務原に整備、修理施設があった。
同校は奈良にも教育隊を置いている。

陸軍航空通信学校は、昭和15年に開校した。
水戸飛行学校と千葉県下志津で行っていた航空通信を全てこの1ヶ所で教育するようになった。
やはり2年コースで、最初の1年は理論と空2号無線機による地上よりの対空通信をやった。
2年目は各人の希望に応じ、機上通信とか航測(電波の方向を探知機により知り、飛行機の位置を割り出す)、あるいは旋回式機関銃の射撃などを学んだ。
爆撃機や輸送機には通信兵が1人は乗る必要がある。
基地の司令部などに配置された通信士は飛行機に乗るチャンスはないが、卒業前に15分だけ、九九式双発高等練習機で水戸(茨城県)の上空を慣熟飛行させてもらうことは、誰でもが味わっている。

昭和19年11月、陸軍もフィリピン戦線で特攻隊を出した。
靖国隊(八紘隊)12名は隼戦闘隊12名だが、そのうちの3名の軍曹は少飛10期生、5名の兵長は少飛13期生(昭和16年入学)だった。
海軍の特攻隊が現地で編成されたのに対し、陸軍の場合は初めから特攻隊に選ばれた者が内地から送られてきたものだった。
以後、続々と内地から特攻隊が到着したが、そのうちの約半分は少飛出身だった。

翌昭和20年4月、九州南部から沖縄への特攻作戦が始まり、次々と番号をつけた「振武隊」が編成された。
5月11日の菊水6号作戦に参加した第51振武隊8名のうち、5名までは少飛13期出身で、階級は伍長、年齢は20歳前後だった。
第108振武隊(九七式戦闘機)も15名のうち少飛10期生1名、15期生6名だった。

陸軍少年飛行学校一覧
校名 所在 備考
 東京陸軍少年飛行兵学校  東村山  基礎教育
 大津陸軍少年飛行兵学校  滋賀県  基礎教育
 大分陸軍少年飛行兵学校  大分県  基礎教育
 熊谷陸軍飛行学校  埼玉県  操縦
 宇都宮陸軍飛行学校  栃木県  操縦
 大刀洗陸軍飛行学校  福岡県  操縦
 所沢陸軍航空整備学校  埼玉県  整備
 岐阜陸軍航空整備学校  岐阜県  整備
 陸軍航空通信学校  茨城県  通信

(参考:『別冊歴史読本 零戦と日本航空戦史』 新人物往来社 1996年11月発行)

(令和元年11月28日 追記)






奉献 灯籠 
元陸軍少年飛行兵山梨県少飛会
山梨県護国神社



(平成25年9月10日)


慰霊塔
(熊本県菊池市・陸軍菊池飛行場跡)

富の原区民一同
熊本県少飛会
少年飛行兵15期 菊水会
少年飛行兵16期 菊楠会
少年飛行兵18期 波多野会
特別幹部候補生2期 菊桐会

(平成23年2月7日)

建立の由来

戦後の食糧増産の国策に添って昭和21年2月11日菊池開拓団として50名の者が此の地に入植、富の原の邑造りの為には此の地に眠る諸々の霊を慰め空襲に依って散華した尊き戦死者の英霊を永遠に慰めることをが原点であると信じ、昭和32年5月12日慰霊塔を建立して年々慰霊祭を行なって来たが永年の風雨に暴され慰霊塔の傷みが激しくなった為建立30周年を迎えるに当り戦友会と地元住民の協力に依り改めて此の碑を建替えるものである

昭和62年4月5日

(碑文より)

碑文

戦後開拓者として、昭和21年2月入植した我々は、此の地に永住せんが為には、昭和16年7月開隊された菊池飛行場の地に眠る無縁仏を供養することが何より大切と考え、物資欠乏の折り総力を挙げて、昭和26年4月慰霊塔を建立し祭りを行ってきた。
昭和32年戦友会より、戦時中米軍機の大空襲、または訓練中、尊き命を国の為に捧げた多数の少年飛行兵、特別幹部候補生の冥福を祈り、共に英霊を慰めたいとの申し出により、以来区と戦友会と合同で平和日本の礎を築いた故人を偲んで、祭りを行って来た。
この慰霊祭を後世に伝えるために毎年4月第一日曜日を慰霊の日とし、地域の繁栄を願って、執り行っていく事を誓うものである。

平成14年4月吉日
富の原中央区

(副碑・碑文より)


慰霊碑
陸軍少年飛行兵戦没者慰霊之碑
(広島県福山市・備後護国神社

昭和47年4月
広島少飛会
備後地区会員 備後地区遺族

(平成22年5月2日)

碑文

昭和9年2月に誕生した陸軍少年飛行兵は同20年8月の終戦に至る間航空部隊の中核として約3万人が巣立ち備後地区からも多くの少年達がこれに参加した
顧みれば日華事変太平洋戦争で祖国の安泰と同胞の繁栄を祈りつゝ大空の戦場で花と散った多くの陸軍少年飛行兵の至純な姿を忘れることが出来ない
今は還らぬ郷土出身の友を偲び霊を慰めその栄誉と武勲をたゝえながく後世に伝えるとともに世界永遠の平和と人類福祉を祈念してこゝに慰霊之碑を建立する

(側碑・碑文)

慰霊碑

慰霊碑
(広島県広島市・比治山陸軍墓地

大空に散華せし 亡き友に捧ぐ

広島少飛会 
源田實 書

(平成22年5月1日)

碑によせて

陸軍少年飛行兵は、昭和9年(1934)2月第1期生が誕生し、昭和20年(1945)第20期生をもって終ったのであるが、年令20才前後の若人達が、操縦、通信、整備の部門で、空の戦斗に参加したのである。
彼等は、当時の国情を憂い純真な気持ちで南に北に、そして本土の空の守りにと、すぐれた功績を残して散っていったものである。
不幸にして、この広島の地に世界で初の原子爆弾が投下せられたが、このことによって、ようやく戦火がおさまり、第2次世界大戦も終戦を迎えることになった。
平和の代償としては、広島の被害は余りにも大であったと言えよう。
ここに、ひたすら国の安泰と平和を願って殉じた、広島出身陸軍少年飛行兵の霊を慰め永遠の平和を祈念して、この碑を建立する。

昭和50年(1975年)10月

(側碑・碑文より)

招魂の碑



『招魂』の碑

(長野県長野市・信濃招魂社





(平成20年10月28日)

在天の英霊に捧ぐ

限りなき蒼壁の涯に夢を追いし少年の日、國家興亡の命運を知り、率先、空への道を拓く。
選ばれては陸軍航空の重責を担い、武窓に入りては、操縦通信整備の特技を修む。
出でては異郷千里、征旅倥■の日を過ごす。
■みては特別攻撃隊員として玉砕、或は空戦に爆襲火戦に■れ遺恨病魔に逝く、魂気いまも湧雲の彼方に在す。
嗚呼 悲しい哉。
戦争目的の正邪帰趨を問わず、純真な愛國の至情を抱き従順に祖國と民族の為に散華せし兄等よ、安らからに眠れ。
ああ、星霜は往く、雄魂妖魔を拂い、この平和を永遠に護り継ぎて、幽勝揺籃の山河いまも明媚たり。
この信濃の地に、兄等の芳名と武勲とを子孫に留め、鎮魂の詞を捧ぐ。
魂魄心あれば来りて、我等が意趣を饗けよ。

昭和47年5月15日 沖縄復帰の日
元陸軍少年飛行兵第15期生 笹部武安 撰文
  同  右             丸山重雄 謹書
長野県少飛會 建之

(碑文より)


慰霊顕彰碑



戦没陸軍少年飛行兵 慰霊顕彰碑
(愛媛県松山市・愛媛県護国神社





(平成19年11月9日)

亡き友の御霊に捧ぐ

昭和9年春2月、陸軍航空の華として少年飛行兵が誕生し、昭和20年8月終戦までの間、第1期生より第20期生迄約5万8千余名の若冠15歳前後の紅顔の少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、炎熱の朝に酷寒の夕に孜孜として猛訓練に励み黙々として古賢の道を学びつつひたすら死に通ずる大空へと巣立っていった。
思えば十有二年の短い歴史ではあるが、此の間日支事変をはじめノモンハン事件、大東亜戦争と常に陸軍航空の中核として大陸の空に南冥の果てにまた北辺の孤島に雄戦激闘し赫々の武功を誇ったがその多くは祖国の繁栄と同胞の平和を念じつつ莞爾として悠久の大義に殉じていったのである。
戦禍絶えて36年今は還らぬ友の御霊を慰め、その栄誉と武勲を永く後世に伝えると共に真の平和を祈念してここに出身生存者相はかり、愛媛県出身陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立する。

昭和57年4月4日
陸軍少年飛行兵出身者の集い
愛媛少飛会

(副碑・碑文より)


空の碑



『空』の碑

(和歌山県和歌山市・和歌山県護国神社





(平成19年4月13日)

碑文

つつしみてこの碑を
陸軍航空戦士たちの霊に
そしてすべての
陸軍少年飛行兵の
還らざる
青春に捧ぐ

昭和四拾参年五月
和歌山少飛会

若鷲に捧げる言葉

昭和9年(1934年)日本陸軍に少年飛行兵の制度が誕生した。
至誠、純真、元気、周到の校訓を旨に日夜訓練に励み、操縦通信整備の分科に巣立った若人たちは、祖国の危急を救うため戦乱に身を投じその多くは蒼天の涯に消えていった
しかし昭和20年夏敗戦辛苦に耐えていま日本は画期的な飛躍を続けている
けれど私たちはなおあの戦いの日の友たちの紅顔を忘れることはできない
なかでもふる里と訣れ雄々しくも散っていった紀州健児を憶う
ここにその栄光を永久に称えこころの碑を築いて戦友への限りない挽歌を捧げる

陸軍少年飛行兵
和歌山県出身生存者一同

(副碑・碑文より)


少年航空兵の霊に捧ぐの碑



『少年航空兵の霊に捧ぐ』の碑
(鹿児島県知覧町・特攻平和観音)





(平成19年3月28日)

少年航空兵の霊に捧ぐ

武蔵野の果はてに朧おぼろなり赤城の山岳
暁の空に幽かすかなり上弦じょうげんの月
武蔵野の名残を止とどむ銀杏いちょうの並木
朝風に病葉わくらば散りて夜は白しら
こうべを巡らして南東を仰ぎ見れば
秀麗しゅうれいたり富士の霊峯れいほう
甲州の連峯れんぽう濃紺のうこんの中に雄大なり
飛湍飛沫ひたんひまつし白龍となりて渓谷に挑む
岩を噛み岸を殺ぎ森林に木精こだま
延々と蛇行し流水沈静し
多磨たまの河川となる
そよぐ川風 素肌に冷涼れいりょうたり
すすきの尾花 水面みなもに揺ゆら
赤城颪おろしに立つ細波さざなみの音
母の歌いし子守歌を偲ぶ
共々ともどもに寄添よりそう親子の翡翠かわせみ
ながれに漂う枯木かれきに憩いこう姿
郷愁となりて心に沁みる
立川の町並朝霧あさぎ消えて晴朗せいろうたり
大空に翔かける執念日毎に強く
少年の意気軒昂けんこうにして心麗こころうるわ
戦火苛烈かれつなり日本の空を覆
一億の苦難心に刻み
勇躍 巣立ち立川をあとに
飛来するは南薩なんさつの一隅いちぐう
白雲帯おびの如ごとし薩摩富士を指呼しこ
眼を轉てんじて北東を望めば
噴煙に霞む櫻島岳さくらじまやま
更に北西を指差ゆびさせば
紫雲しうんの中に聳立そそりたつ金峯山きんぽうざん
の山間にあり知覧の集落
飛湍の歌渓谷に木霊こだまし山野さんや冷涼たり
少年の心気政清爽しんきせいそうにして雄姿巍然ぎぜんたり
青空の中に羽ばたく若鷲の群むれ
五機 六機翼をつらね
母の乳房を慕しとうが如く
白雲柵引たなびく開聞岳かいもんだけを迂回うかい
南海目指して翔かけって行く
夕闇迫る村落に燈火とうかともる頃
ねぐらを忘れ若鷲はいまだ歸かえらず
日々に寂寥せきりょう深し知覧の里
時は昭和廿年五月四日
小雨降る那覇港外の黄昏たそがれ
遊弋ゆうよくする艦艇に一機一身しん巨弾に変じ
巨艦を屠ほふる少年航空兵十幾人いくにん
其の気魄きはく鬼神きじんに譬たとえん
一死殉国護国の鬼となり国恩こくおんに報いん
血潮は梯梧でいごの花に似て
真紅しんくの花片はなびら散乱し珊瑚礁さんごしょうを色彩いろど
闇の彼方に鳴くや鴎かもめか群れ千鳥ちどり
とし去り年を迎えて二十年
玉と砕けし勲功いさおし
かえりみる人も今は無し
日本人の心頽廃たいはいし泥濘ぬかるみの如し
慚愧ざんぎ深甚しんじんたり少年の心に
何を以て報いん

昭和50年8月15日
作詞 目撃者 大迫 亘

(碑文より)


特攻花


献花 特攻花

知覧から移植

埼玉県少飛会
(埼玉県さいたま市・埼玉県護国神社



(平成18年10月20日)

特攻花の由来

昭和20年沖縄戦線に朝食も取らず飛び立つ特攻隊員に宿の親子が摘んで来た花束を手渡して武運を祈りました。
特攻隊員はその親子を訪問飛行して出撃して行きました。
開聞岳上空にさしかかりこの花束を機上から投下して沖縄戦線にむかいました。
その後、開聞岳南側にこの花が咲き誇り地元では特攻隊員一人一人の魂の入った特攻花として大切に育てています。
毎年夏の二十六夜参りには、この花の種を配り特攻隊員の冥福を祈っています。
花の正式名称は(錦鶏草)です。

埼玉県少飛会

(説明板より)

献木





埼玉県少飛会
献木 第三十回慰霊祭記念
平成10年9月13日植樹






(平成18年10月20日)

少飛の碑



「少飛」の碑

(山口県山口市 山口県護国神社




(平成15年7月27日)

碑文

昭和9年に誕生した陸軍少年飛行兵はその数5万有余に及び山口県よりも多くの少年が之に馳せ参じ至純な祖国愛に燃えひたすら同胞の幸を祈りつつその多くは雄々しくも大空に散華した
日本の空に平和が訪れた今日苦楽を倶にした県在住の生存者相集い今は亡き友を偲び茲にささやかな「いしぶみ」を建立する

昭和48年11月
山口県少飛会


陸軍少年飛行兵慰霊顕彰の碑



「愛知縣 陸軍少年飛行兵慰霊顕彰之碑」

(愛知県名古屋市 愛知県護国神社




(平成15年11月28日)

由来(碑文)

陸軍少年飛行兵は 昭和8年4月創設され 第1期生徒の誕生は翌9年2月であった
爾来全国の憂国少年憧れの的となり 簡抜されて入校した生徒は20期生に至る間四万五千余名 うち県下出身者は千二百余名を数えた
入校後それぞれ操縦 整備 通信の厳しい教育訓練に耐え特業を修学したのち 陸軍航空部隊の中核として任に就いたのである
以後翔南飛北 常に少飛魂に生き誇りを貫き 祖国と同胞の守護たらんと大空に散り機辺に斃れし県出身者は二百名に達した そしてその多くは 齢20才前後の若桜であったのである
鉾を収めて40年 祖国は復興を遂げ更に発展しつつあるが 之は尊い犠牲となった同窓の士の加護に依るものと確信する
茲にその勲を讃え之を顕彰し 史実を後世に伝えん為縁ある者相集い不戦平和を誓いて此の碑を建立する

昭和60年11月吉日
愛知県少飛会
少飛17期生松石藤掛勝書


慰霊の燈籠



慰霊の燈籠
(三重県津市 三重県護国神社




(平成16年2月7日)

碑文

大東亜戦争に於いて三重県出身陸軍少年飛行兵78柱が散華されました
尊い命で築かれた平和日本の姿を後世に伝えるため生存者一同先輩同期の慰霊顕彰の証としてここに灯籠を奉納するものであります

平成11年10月31日
三重翔飛会建之


千葉県出身陸軍少年飛行兵慰霊之碑


千葉県出身 陸軍少年飛行兵慰霊之碑
千葉県知事 友納武人謹書

(千葉県千葉市 千葉県護国神社



(平成16年8月28日)

平和の翼(由来)

戦火絶えて27年。
いま、私達の胸に去来するものは、大空に憧れ、大空に生き、そして大空に散って行った君達のあの林檎のような頬っぺと澄みきった眼差しだ。
今日の平和な日本の繁栄は、君達の尊い死によって築かれたものなのだ。
若くして大空の華と散った君達の至純な姿を忘れぬために、再び戦争を繰り返さぬことを誓いながら、私達は「平和の翼」の碑を此の地に建てた。
亡き友よ、安らかに眠り給え。
そして、愛する日本を、美しい郷土を、永久に護り給え。

昭和47年8月
元陸軍少年飛行兵 千葉県出身 生存者一同


慰霊碑


陸軍少年飛行兵戦没者 慰霊碑
鳥取少飛会
(鳥取県鳥取市 鳥取県護国神社




(平成16年11月18日)

碑文(副碑)

皇后陛下御歌
やすらかにねむれとぞ思う君のため
いのちささげしますらをのとも

是 祖国の安泰を希い白雲を血潮に染め愛機と運命を倶にし或は整備通信の任に粉骨砕身悠久の大義に生きた陸軍少年飛行兵戦歿将士の若い霊に思いを馳せ詠み給えるもの
戦い止んで三十有余年 太平の宴郷関に酣の時我等相計り其の齢二八の幾月を卿等と共に学び共に戦った在り日の壮容を髣髴と偲びその魂魄こゝに還り給い永遠に安かれと祈り御名を刻み平和の礎として萬世に遺さん

維持昭和54年5月
鳥取県少飛会


翔飛の樹

『翔飛の樹』の碑
(島根県松江市・松江護国神社

陸軍少年飛行兵
島根県出身生存者一同
昭和57年5月建立


(平成16年11月20日)

碑文

少飛魂

昭和9年、陸軍少年飛行兵が誕生して以来、20年大東亜戦争終結に至るまで第20期を重ね、その数約5萬9千名、島根県からも多くの少年達が参加した。
十代半ばの少年達は勇躍意を決し、決然と立ち、その青春を大空に翔け、その多くはひたすら祖国の安泰と、同胞の繁栄を念じつつ大空に散華した。
その歴史の重みをふまえて、今は亡き友の栄誉と崇高な精神を称え、後世に伝えると共に永遠の平和を祈念して植樹する。

昭和57年5月5日
島根少飛会


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