『陸軍特別操縦見習士官之碑』 (京都市・京都霊山護国神社) (平成16年4月2日) |
特操の碑(碑文)
第2次世界大戦が転機をむかえた昭和18年、日本の戦況は急に悪化し、存亡をかけた総力戦となる。
この年10月、二千五百余の若人は学業をなげうち陸軍特別操縦見習士官として祖国の危機に立ち上がった
2期、3期、4期と続く、ペンを操縦桿にかえた学鷲は懐疑思索を超え、肉親、友への愛情を断ち、ひたすら民族の栄光と世界の平和をめざして、死中に生を求めようとした
悪条件のもと夜を日についだ猛訓練を行ない、学鷲は遠く大陸、赤道をこえて雄飛し、あまたの戦友は空中戦に斃れ、また特攻の主力となって自爆、沖縄、本土の護りに殉じたのであった。
無名の栄誉は歴史に刻まれたが、愛惜と悲しみは尽きない。
平和は血と涙により築かれた。
われらは心から祖国を愛し、平和を願う。
ここに兄等の栄誉を讃え、その靈を慰むるとともに、特操の果たした役割を永く後世に伝えんとするものである。
昭和46年3月21日建之
特操会
特別操縦見習士官(略して特操)とは、大学、高専を卒業した予備役の将校操縦者のこと。
いわゆる「学鷲」と呼ばれ、海軍の飛行予備学生に相当する。
1期生(2,000名)は昭和18年10月に入隊したが、特に沖縄戦で下級将校として多数が特攻戦死している。
参考文献:渡辺洋二著・「双発戦闘機屠龍」
(平成17年2月15日記)
特操
陸軍特別操縦見習士官は昭和18年10月入隊の第1期生から、昭和19年8月入隊の第4期生まで5400名が応募した。
神宮外苑の雨の出陣式の第2期陸軍操縦見習士官は1200名にも上った。
このうち74名が沖縄などで特攻隊として散華、40名が各地の戦いや飛行訓練中の事故で死亡している。
当時、飛行訓練に墜落事故は日常茶飯事だった。
(参考:木俣滋郎 著 『陸軍航空隊全史』 朝日ソノラマ 文庫版航空戦史シリーズ90 1994年7月 第6刷発行)
(令和2年3月30日 追記)
特操から特務機関へ |
本田忠尚=昭和18年12月、学徒動員で陸軍特別操縦見習士官となり、のちに茨木機関員となる。
井上 進=本田忠尚と特操同期。馬来定(マライテイ)機関員となり、英軍上陸に備えてゲリラ活動の訓練を受ける。
終戦後に歩兵第256連隊に配属となる。
(参考:中島みち著『日中戦争いまだ終わらず〜マレー「虐殺」の謎』・文藝春秋・1991年第1刷)
(平成21年1月19日追記)
正七位勲五等雙光旭日章 神鷲特別攻撃隊 陸軍大尉 横山善次 像 (茨城県ひたちなか市・華蔵寺) (平成23年5月31日) |
横山家墓所 (茨城県ひたちなか市・華蔵寺) (平成23年5月31日) |
【側碑・碑文】
尽忠至孝の士
陸軍大尉 横山善次 君
君は大正12年6月水戸市七軒町に生る。
青年期は明治学院に学ぶ学徒たりしが、太平洋戦争の戦局が苛烈となる昭和18年12月「学徒出陣」の命下るや、勇躍ペンを捨て救国の悲願に燃え、航空決戦に参加す可く特別操縦見習士官を志願、敢然操縦桿を握り碧空に雄飛す。
然れども戦勢日々に非にして本土決戦の様相目前に迫る20年8月、米艦隊は関東地方の沖合を遊弋し、水戸、日立も又戦火に晒されんとす。
こよなく国を愛し郷土を愛する君は、特別攻撃隊、神鷲第201隊々員として8月13日薄暮、愛機「屠龍」を駆り鹿島灘東方洋上の敵に必殺の体当たり攻撃を敢行、巡洋艦撃沈の大戦果を挙ぐ。
為に敵は水戸攻撃を断念、東方に避退せる由、是戦史の記する所なり。
一身を抛ち郷土を護りたる君の偉業は永くこの地の人の心に留められん。
干戈収まりて星霜五十年。
茲にその偉業に対し奉賛、顕彰の誠を捧ぐるものなり。
英魂永しえに、此の国を護り給わらんことを。
平成7年8月13日
特操2期八日市会 撰文
横山充孝 建之
第201神鷲隊
階級 | 氏名 | 出身県 | 出身別 | 生年 | 戦死場所 | 戦死日 |
中尉 | 小川 満 | 香川 | 陸士57期 ※1 | 大正13年 | 犬吠埼東方洋上 | 昭和20年8月13日 |
少尉 | 横山善次 | 栃木 ※2 | 特操2期 | 大正12年 | 犬吠埼東方洋上 | 昭和20年8月13日 |
伍長 | 藤田重喜 | 北海道 | 特幹1期 | 大正14年 | 犬吠埼東方洋上 | 昭和20年8月13日 |
※1=「陸士」は「陸軍航空士官学校」かもしれない。
※2= 「栃木」は誤記と思われる。正確は「茨城」
陸士=士官候補生、特操=特別操縦見習士官、特幹=特別幹部候補生
(参考:(財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編 『特別攻撃隊全史』 平成20年初版)
(平成29年4月8日 追記)
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