佐賀城 さがじょう

(別称:栄城・亀甲城・沈み城)

佐賀市城内2丁目


(平成22年6月27日 全面改訂)


佐賀城 平成20年11月24日再訪問

佐賀城

奈良時代の末、国衙の吏として藤原秀清が下向、後の秀家の代に龍造寺村地頭に任ぜられ、以後、竜造寺氏を名乗った。
天正時代に入って隆信が出、北九州に君臨したが、同12年(1584)有馬、島津氏の連合軍と戦って敗れ戦死した。
跡を継いだ政家は天正15年、豊臣秀吉の九州征伐後の知行割りの一環として、佐賀35万7千石の地を安堵されたが、3年後の天正18年、秀吉から隠居させられ、鍋島直茂が政家の遺領を継いだ。
鍋島氏の出自は小貳氏とか佐々木氏といわれるが、明らかではない。
佐賀にほど近い鍋島村の小土豪として龍造寺氏の家臣となったもので、隆信の死後、龍造寺氏は鍋島氏によって支えられてきた。
秀吉は事実上の支配権が鍋島氏にあることを見抜いていたのである。
慶長12年(1607)政家の子、高房は相次いで没したが、高房の死は、佐賀の支配権に望みを断たれて自殺したともいわれる。
高房の子、伯庵はくあんは、密かに国を脱出して幕府に訴えたが、鍋島氏の支配を覆し得ず、これが「化け猫騒動」の話に結びつく。
佐賀城は、鍋島直茂が天正13年に計画、子の勝茂の慶長13年に竜造寺氏時代の村中城を拡張、修築して佐賀城とした。
城の周囲には成富兵庫が設計した外堀を幾重にも巡らし、一度、城が攻められた場合、天守、本丸の一部を除いて、城下町をはじめ、一面の水浸しにして敵の侵入を防ぐ仕組みであったといわれる。
以後、鍋島氏代々の居城となった。
享保11年(1726)天守その他を焼失、本丸は復旧されたが、天守は再建されなかった。
廃藩後の明治7年、江藤新平の「佐賀の乱」により城の大半を焼失、建物としては鯱の門を残すのみとなった。
この門を下馬せずに通ったため切腹させられた鍋島一門の武士がいたとか、また、城の堀で、城に向かって放尿した武士が、露見して切腹に相成ったなどの話がある。

(参考・引用:大類伸監修 『日本城郭辞典』 昭和58年秋田書店発行)


南堀の石垣



南堀の石垣







(平成20年11月24日)

佐賀(嘉)城 南堀の石垣

佐賀城は、龍造寺氏の居城・村中城を拡張して築かれたもので、慶長7年(1602年)本丸の建築に始まり、慶長16年まで10年の歳月を費やして完成した。
佐賀城は、典型的な平城ひらじろ(平地に築いた城)である。
高い石垣は天守閣付近のみで、まわりは堀と土塁をめぐらして守りとした。
堀には石垣の護岸があり、どの造り方は、佐賀地方の軟弱地盤に対する工夫として、基底部に沈下防止の松丸太2本を敷き、その上に石垣を築き、さらに最下部の石がせり出すのを留めるため、前面を角杭(約3m)でおさえる工法がとられている。
使われている赤石は、多久市納所産といわれており、佐賀城の堀割や水路の護岸によく用いられている石材の一つで、加工しやすい特質をもっている。
この石垣は、南堀の南岸の石垣の一部で、この地点から西方約19mの道路下に築かれていたものを一部移築したものである。

昭和61年 佐賀市

(説明板より)

 (説明板より)

佐賀城の堀




佐賀城の堀






(平成20年11月24日)
鯱の門・続櫓




鯱の門・続櫓






(平成20年11月24日再訪問)
佐賀城の鯱の門




平成12年当時の様子






(平成12年5月5日訪問)

重要文化財
佐賀城鯱の門及び続櫓
昭和32年6月8日指定

本丸御殿は慶長13年(1608)から慶長16年までの佐賀城総普請により造られましたが、享保11年(1726)の大火で焼失しました。
その後、約110年間は再建されることなく、藩政は二の丸を中心として行われていました。
ところが、この二の丸も天保6年(1835)に火災に見舞われ、藩政の中核を失ってしまいました。
10代藩主鍋島直正は、それまで分散されていた役所を集め、行政機能を併せもつ本丸御殿の再建に着手しました。
この鯱の門は、その時、本丸の門として建設されたもので、天保9年(1838)の6月に完成したものです。
明治7年(1874)の佐賀の役で、佐賀城は戦火に見舞われました。
鯱の門にはその時の弾痕が残り、当時の戦闘の激しさがしのばれます。
門の構造は、二重二階の櫓門に、一重二階の続櫓を組み合わせたものです。
屋根は本瓦葺、入母屋造りで、大棟の南北には、佐賀藩の御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱がおかれ、鍋島氏36万石にふさわしい規模・格式を有しています。

佐賀市教育委員会

(説明板より)

鯱の門




鯱の門






(平成20年11月24日再訪問)
鯱の門




平成12年当時の様子






(平成12年5月5日訪問)

「重要文化財(建造物)佐賀城鯱の門及び続櫓一棟」のチラシより (平成12年当時)

佐賀城は、龍造寺氏の居城・村中むらなか城を拡張して築かれたもので、慶長7年(1602年)本丸の建築に始まり、慶長16年までの10年の歳月を費やして完成した。
佐賀城は、典型的な平城ひらじろ(平地に築いた城)である。
高い石垣は天守閣のみで、まわりは濠と土塁をめぐらして守りとした。
佐賀城は江戸期、数度火災に見舞われた。
天保6年(1835年)の失火では、二の丸を全焼、この後、二の丸の再建とともに、享保11年(1726年)に焼失した本丸の建設がはじまった。
現在の鯱の門はこのとき、本丸出入りの門として建てられたもので、天保9年に完成したものである。
明治維新後、明治7年(1874年)の佐賀の役のとき、城内で戦闘が行われたが、そのあとが門扉の弾痕にしのばれる。

所有者 佐賀市教育委員会  昭和32年重要文化財指定

アームストロング砲



アームストロング砲(複製)
(鯱の門)





(平成20年11月24日)

アームストロング砲

アームストロング砲は、幕末に佐賀藩が保有していた後装施条砲です。
イギリスのアームストロング社で製造され、佐賀藩は長崎にいたグラバーらを仲介として輸入しました。
戊辰戦争では上野や奥羽の戦いで用いられ、「佐賀の大砲」として威力を示しました。

(説明板より)

天守台




天守台






(平成20年11月24日)
平成12年当時




平成12年当時





(平成12年5月5日)

佐賀城天守台

正保4年(1647)に記された『肥前国佐賀城覚書』によれば、かつてこの地に五層の天守閣が築かれていたという。
本丸からは、この天守台には上がれず、二の丸の西から本丸石塁北の犬走りを通って入るようになっている。
初代藩主鍋島勝茂の時代、慶長14年(1609)に完成した佐賀城の天守閣は五層の破風のない素朴ながらも実戦向きの建物であった。
佐賀城は、八反井樋と今宿江をせき止めれば天守と本丸の一部を除き、外は城下はじめ、全体が湖水化する設計になっており、敵の侵入を阻む仕組みになっていたといわれている。
このため佐賀城を一名「沈み城」というのはこのことに由来する。
だが、一説には他の城は城下から離れれば離れるほど、その天守が高々とそびえて見えるのに対して、佐賀城は城下を少し遠ざかると、楠や松の木に隠れて見えなくなるためだともいわれている。
しかし、佐賀城は享保11年(1726)、4代藩主吉茂のとき、本丸・二の丸・三の丸・天守閣が焼失した。
その後復興されたが、天守閣は再建されないまま今にいたる。

佐賀市

(説明板より)

 平成20年11月24日

 (説明板より)

この絵図は「佐嘉小城内絵図」で、慶長19年(1614)ころの作成で、佐嘉城創建当時の様子が描かれている。
絵図は、当時本丸に入る門は描かれているが、鯱の門ではなく、現在の鯱の門は、天保6年(1835)の二の丸の火災後本丸整備の一環として作られた。
絵図の内容は、城内細部を立体的に記したもので、これによって屋敷構え等が手にとるようにわかる。
この絵図の五層の天守閣は享保11年(1726)火災によって焼失したが、本図によって当時を偲ぶことができる。
また、城郭の周囲には堀がめぐらされ、土手には松が植えられていた。

矢印は天守閣
「佐嘉小城内絵図」提供 鍋島報效会

(説明板より)

復元できなかった石垣

南北を石垣ではさまれたこの場所は、現在道幅が6mありますが、左の写真のとおり、実際は石垣間がわずか2mの狭い通路でした。
ここには小さな門があったと伝わっていますが、発掘調査では門の跡は見つかりませんでした。
調査成果のとおりに復元できなかったのは、本丸内部に緊急自動車が入れるようにするためです。
発掘した江戸時代の石垣は、土で埋めて、この道路の下に保存しています。
道路上の線は、この石垣の場所を示しています。

(説明板より)

御玄関と御式台




御玄関と御式台






(平成20年11月24日)
御玄関




御玄関





(平成20年11月24日)

御玄関おげんかん

佐賀城本丸御殿の正門玄関として、佐賀藩の藩主や身分の高い特別な人物が利用しました。
懸魚けぎょなどの多くの彫刻で飾られたこの建物は、板床いたどこ部分が上屋じょうや、土間部分が下屋げやと建物の構造が分かれ、屋根瓦もそれぞれ本瓦ほんがわらと桟瓦さんがわらの違いを見せています。

御式台おんしきだい

佐賀城本丸御殿への来訪者を最初に迎え入れるところです。
南北約36m、東西約10m、高さ約11.5mの建物の規模は外御書院に次ぐ規模を誇ります。
御玄関両脇に設けられた櫛形塀くしがたべいは、櫛目格子くしめこうしの花頭窓かとうまどとなまこ壁で飾り付けられ、簡素な御殿建築の中で御玄関を特徴あるものに際だたせています。

(説明板より)

 説明板より

外御書院



外御書院







(平成20年11月24日)

外御書院そとごしょいん

佐賀城本丸御殿の建物群の中で最も格式があり、お世継ぎのお披露目など、藩の公式行事が行われました。
全国でも最大規模の復元木造建築である佐賀城本丸御殿の中でも最も広い空間を有しており、東西約50m、南北約15m、高さ約13mもあります。
外御書院の北側には、南側の廊下とは格式が異なる幅広の廊下があります。
北側の廊下から見おろされたこの空間には、お客様を迎えるお庭があったと考えられます。

御三家座ごさんけざ

御三家(小城おぎ家・蓮池はすのいけ家・鹿島かしま家)の名代みょうだいとの面談などの場所として用いられました。
1850(嘉永3)年4月、小城10代藩主鍋島直亮なおすけが家督を継いだときには、同年6月7日、父の直堯なおたかの名代が御礼を述べに来ています。

(説明板より)

【外御書院内部
御洋理間と御納戸




御洋理間と御納戸






(平成20年11月24日)
佐賀城跡

平成12年当時の様子

(ほぼ同じ位置から撮影)


城跡の敷地はただの空き地でした。
門の左に見える建物は天守跡に建つ「協和館」



(平成12年5月5日訪問)

御料理間おりょうりのま

家臣や藩外の人々との対面や接待の場として用いられました。
江戸時代の御料理間の建物は1898(明治31)年に解体され、その材料を使って、翌年この本丸敷地内に佐賀県師範学校の校舎・講堂・寄宿舎等の建物が建設されました。
東西約31m、南北約10m、高さ約10.5mの規模があります。

御納戸おなんど

佐賀城本丸御殿の物品を納めておく建物として用いられました。
2階建てになっており、上下とも納戸として用いられました。
西に繋がる御料理間を含めて、東西約50m、南北約10mの大規模な建物であり、2階建ての御納戸の棟高は12mを超える程の高さがあります。

(説明板より)

御座間と堪忍所




御座間と堪忍所






(平成20年11月24日)

御座間ござのま・堪忍所かんにんどころ

本丸御殿が建設された天保年間の建物で、第10代藩主鍋島直正なおまさの居間(御座間)、警護する家臣達が詰める部屋(堪忍所)からなります。
この建物は、最終的に赤松小学校の校舎として使用され、その当時御居間おいのまと呼ばれていました。
1958(昭和33)年、佐賀市南水ヶ江みなみみずがえ地区の大木おおき公園に移築され、公民館(南水なんすい会館)として利用されていました。
今回佐賀城本丸御殿の再建に際し、この建物が全国的にも貴重な建物であることから、再移築復元しました。

(説明板より)

御座間・堪忍所の内部】

御座間・堪忍所(佐賀市重要文化財)

1838(天保9年)に、10代藩主鍋島直正により建設され、藩主の居間として利用された建物です。
1958(昭和33)年に、佐賀市南水ヶ江地区の大木公園に移築され、公民館として利用されていましたが、佐賀城本丸歴史館の建設に際し、再度この場所に移築しました。
今回の再移築にあたっては、建設当初の姿を忠実に復元するために、柱などの部材のうち使用できるものは元の位置に戻しています。
このため、その部材には、公民館として活用するために改装された際の加工穴や傷の跡が見られます。

(説明板より)

記石



記石







(平成20年11月24日)
南西隅櫓台
この石垣の復元はちょっと・・・(汗)
いくらなんでも、この“まだら模様”はいただけません。

南西隅櫓台の修理完成の記録

城の石垣は、年月がたつとふくれたりずれたりして、崩れることがありました。
この南西隅櫓台の石垣も、築かれてのち、何度か修理を重ねています。
右の石は「記石きせき」と呼ばれるもので、表面に『寛保三年癸亥みずのとい三月良辰りょうしん 御築謹制之/竹田八右衛門信眞』と刻まれており、1743(元文3)年に幕府の許可を受け、1740年から3年あまりの工事が行われました。
竹田信真は、その時の工事に関係した人だと思われます。

(説明板より)

水路




水路






(平成20年11月24日)

石垣を潜る水路

本丸の西側を南北に走る土塁石垣の下から、本丸の内部と外部を結ぶ木製と石製せきせいの水路が一つずつ合計2ヶ所見つかりました。
この場所は、石製水路の本丸側開口部で、ここから本丸の内部に向かって赤石あかいしの水路が伸びています。
石製水路と赤石水路は、石材が丁寧に加工されていることや、周囲の汚れた水が混じらないような工夫がされていること、全体が頑丈な造りであることから、本丸内に飲み水等を運ぶ施設であったと思われます。


【佐賀城】

以前、ここには龍造寺氏の村中城と水ヶ江城が営まれていた。
鍋島直茂は龍造寺氏の重臣であったが、勇将の誉れ高い龍造寺隆信が天正12年に島原半島の沖田畷おきたなわてで戦死してから、しだいに主家の実権を握るようになり、村中・水ヶ江両城を合せて、より堅固な城を築こうと、城の大改修にとりかかったのは、天正13年(1585年)の頃である。

直茂が本格的に城普請にとりかかったのは、慶長13年(1608年)のことで、完成は慶長16年である。
天正13年から起算すると、じつに26年もかかっている。
そのわりには縄張は粗末だといわれているが、堀の工事を一任された重臣・成富兵庫茂安なるとみひょうごしげやすの秘計だそうだが、いざ敵が攻め寄せてきた場合、城は天守・本丸の一部を除き、城下町もろとも水底に沈んで、一大湖水を形成する仕掛けになっていたという。

この城はたびたび火災に遭っている。
享保11年(1726年)の火事は、火を発したのは城外だったが、おりからの強風に煽られて火の粉はたちまち城内に飛来し、二の丸から天守まで炎上したという。
ついで幕末の天保6年(1835年)5月、二の丸の長屋から出火した火災も、やはり本丸と二の丸を焼き尽くしてしまった。
「鯱の門」が出来たのは、この天保の大火の後のことで、現在の「鯱の門」は三代目となる。
初代ははっきりしないが、二代目は現在の「鯱の門」が建っている場所から50メートルほど北にあり、その使命も二の丸を守る門だったそうだ。

幕末の名君、鍋島閑叟かんそうは藩政改革に着手し、「倹約令」を発布することになるが、その矢先に起こったのが、天保6年の大火だった。
普通なら、再建など思いもよらないが、幸いなことに、閑叟の御台所みだいどころが将軍家の姫君(盛姫もりひめ)だったので、幕府が火事見舞いとして2万両を融通してくれた。
それが弾みとなって、城の再建着手となり、再建工事が竣工したのは、天保9年6月であった。

明治7年(1874年)2月16日、明治新政府のやり方に不満な連中が江藤新平を大将にいただき新平は、憂国党の首領・島義勇しまよしたけと共に2500の兵を率いて城に攻め寄せた。
この「佐賀の乱」で城はまた炎上した。
幸いに焼け残った建物は、お広敷と呼ばれた大書院、藩公の居館である御居の間と鯱の門で、大書院は佐賀中学校・佐賀師範学校などの教室として利用されたが、大正の初年に龍泰りゅうたい寺の本堂として移築された。
また、御居の間は大木公園(大木喬任屋敷跡)に移築され、公民館として利用された。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月24日 追記)


佐賀八幡宮



佐賀八幡宮(竜造寺八幡宮)
(佐賀県佐賀市白山1−3−2)





(平成20年11月24日)
佐賀八幡宮



佐賀八幡宮(竜造寺八幡宮)
(佐賀県佐賀市白山1−3−2)





(平成20年11月24日)

佐賀八幡宮

御祭神 応神天皇(第15代)

文治3年(1187)竜造寺季家が御神殿を創建し鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を勧請して奉安し、竜造寺八幡宮と称して崇拝したのに始まる。
降って慶長9年(1604)初代藩主鍋島勝茂は佐嘉城築城に際してこれを八幡小路に遷座し、現在の神殿並に拝殿を造営し常夜燈を寄進、藩祖直茂の室、藤の方は肥前鳥居(現佐賀市文化財)を寄進した。
爾後歴代の藩主は佐賀地方の開府の神、佐嘉城の鎮護、武士の守護神として尊崇し、事あるごとに祈願又は報告祭を執行した。
明治維新廃藩置県となるに及んで藩費運営の制度はなくなり氏子(18ヶ町)において一切を奉仕することになった。

(説明板より抜粋)

竜造寺八幡宮略記
(通称 佐賀八幡宮)

由緒沿革
当八幡宮は竜造寺家の始祖 南次郎季家公が建立し竜造寺八幡宮と称した。
季家公は平家追討の功により源頼朝公から佐賀地方の地頭職に任ぜられ、文治3年(1187)居城内に神殿を創建し鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮分霊を勧請して竜造寺家一門、武家の守護神又佐賀の鎮護の神として歴代手厚く祭祀を営んだ。
降って慶長12年(1607)鍋島初代藩主勝茂公は佐嘉城築城に際し之を八幡小路に遷座し宏壮華麗な社殿を造営して寄進した。
慶長9年には藩祖直茂の室藤の方が肥前鳥居を奉納して聖上萬歳、国家安穏、一門の弥栄を祈念している。(現佐賀市重要文化財)
かくて歴代の領主は佐賀の開府の神、佐嘉城の鎮守として尊崇の念深く鍋島家の産土神として事ある毎に報告又は祈願を成し一般の参詣も許した。
猶社殿の営繕は元より、毎年の祭祀料一切は藩費を以って支弁された。
廃藩置県後その制度はなくなり爾来氏子において一切を奉仕することになった。
明治33年市区画整理により社殿を後方に引く。
更に昭和3年境内拡張に伴い現在地に引いた。
境内には楠公父子を祀る我が国最古の楠神社がある。

(説明板より)


與賀神社



與賀神社

(佐賀県佐賀市与賀町2−50)





(平成20年11月24日)

與賀よが神社

御祭神
與止日女よどひめ(豊玉姫命とよたまひめのみこと=神武天皇の御祖母)
豊玉姫は古事記に現れ、海神の娘で竜宮城の乙姫様です。

由緒
西暦564年勅願造立、鎌倉・室町時代は与賀御庄鎮守宮。
小弐・高木・竜造寺・鍋島氏の時代は与賀郷の崇廟として崇敬厚く、特に、鍋島氏は佐賀城の鎮守、産土うぶすな神社として尊信され、数多く寄進されました。
現在の御社殿は江戸中期、鍋島6代藩主の造立です。

(説明板より抜粋)


築地反射炉跡



築地反射炉跡
(佐賀県佐賀市・日新小学校)





(平成20年11月24日)

佐賀市史跡
築地反射炉跡
昭和42年2月11日

佐賀藩は、寛永18年(1641)以来、幕命によって福岡藩と1年交代で長崎警備の任務についていた。
その装備は、諸外国と比べると薄弱であった。
10代藩主鍋島直正は、防衛の任務遂行を懸念し幕府にその旨を献策したが受入れられなかった。
かねてから西洋文化に関心を示していた直正は、嘉永3年(1850)、この地に、藩独自で洋式反射炉を築造し、築地大砲鋳造所を設け、長崎台場の防衛用大砲を製造した。
嘉永6年(1853)、その威力を幕府から認められ、大砲の鋳造依頼があったので、多布施に新たに反射炉を築き、公儀石火矢鋳立所を設置し、幕府向けの大砲を製造した。
嘉永5年から慶応年間までに佐賀藩が製造した大砲は、あわせて271門におよんだ。
現在、反射炉の模型のみが昔の面影を残している。

佐賀市教育委員会

(説明板より)

反射炉



反射炉(模型)
(佐賀県佐賀市・日新小学校)





(平成20年11月24日)

佐賀藩の反射炉
日本で初めて鉄を生んだ溶鉱炉
嘉永3年12月12日火入式

佐賀県機械金属工業会連合会
佐賀県青年工業会連合会

嘉永3年(1850)12月12日、わが国で最初に築造された佐賀藩の反射炉が、日本近代工業のあけぼのをつげた。
幕末、黒船の来航など国内騒然とした中に佐賀藩主鍋島直正は世界の大勢を説き、海防を献策したが、幕府はこれを聞き入れなかった。
そのため佐賀藩は独力で、この地に反射炉の建設にとりかゝり、失敗を重ねたあげくわが国最初の工業用鉄精錬とい鉄製大砲の製造に成功した。
嘉永6年、ペリー来航にあわてた幕府は、佐賀藩に「公儀用大砲200門鋳造」を委嘱。
佐賀藩技術陣は苦難に耐えこの大任を果した。
本碑は日本近代工業の先駆をなした郷土佐賀人の進取性と真摯な営みの歴史を顕彰するものである。

昭和50年12月12日建立

(銘板より)

佐賀藩カノン砲



佐賀藩カノン砲(復元)
(佐賀県佐賀市・日新小学校)





(平成20年11月24日)

佐賀藩鋳造鉄製24ポンド砲
わが国最初の鉄製カノン砲 復元

佐賀藩は、寛永19年(1642)から長崎港の警備にあたってきたが、文化元年(1804)露国使節レサノフの来航、同5年(1808)イギリス軍艦「フェートン号」の長崎港侵入があり、長崎港の警備はそれ以来緊迫した空気につつまれた。
鍋島直正が10代藩主につくと、これに対処するため長崎港台場の増設と洋式大砲の設置を痛感し、嘉永3年(1850)築地(いまの日新小学校)に反射炉を築き日本で最初の鉄製大砲の鋳造に成功した。
嘉永6年(1853)ペリーが来航すると、幕府は江戸湾防備のため品川に台場を新設し大砲を佐賀藩に注文した。
そこで佐賀藩では、多布施に公儀用の反射炉を増築し(佐賀駅北口にその模型がある)安政3年(1856)までに24ポンド砲25門、36ポンド砲25門を納めた。
さらに150ポンド砲3門を幕府に献上した。
又当時、世界で最高の技術を要するアームストロング砲を佐賀藩では元治、慶応年間に3門鋳造することに成功している。
この大砲は、この時品川砲台に備えられたものの一つであって、その頃のわが国科学技術の最高水準をうかがうことができる。

昭和52年12月12日(1977)
佐賀県機械金属工業会連合会

(銘板より)

日新小学校



日新小学校
(佐賀県佐賀市長瀬町9−15)





(平成20年11月24日)

鉄製24ポンドカノン砲



鉄製24ポンドカノン砲(複製)
(佐賀県立博物館)





(平成20年11月24日)

鉄製24ポンドカノン砲(複製)

佐賀藩は江戸時代を通じて長崎港の警備にあたってきたが、文化元年(1804)ロシア使節レザノフの来航、同5年(1808)イギリス軍艦フェートン号の長崎港侵入があり、長崎警備は緊迫した状勢となった。
天保11年(1840)に清国でおこったアヘン戦争の情報がもたらされると、10代藩主鍋島直正は長崎警備増強の必要性を痛感し、台場の増設と洋式鉄製大砲の設置を企図して、嘉永3年(1850)築地(今の日新小学校付近)に反射炉を築き、日本で最初の鉄製大砲の鋳造に成功した。
嘉永6年(1853)ペリーが来航すると、幕府は江戸防備のため品川沖に台場を新設することとし、備砲50門を佐賀藩に注文した。
そこで佐賀藩では多布施に幕府用の反射炉を新たに設けて鋳造にあたり、また安政6年(1859)には鉄製150ポンド砲3門を幕府に献納した。
幕末の佐賀藩が日本で初めて鉄製大砲の鋳造に成功したことはゆるぎない事実であるが、残念ながらその確実な残存例は現在のところ確認されていない。
この大砲は、1820年頃アメリカで製造されて幕末に輸入され、かつて東京都渋谷区の旧鍋島邸に置かれていたもの(現在は戸栗美術館所蔵)を原型とする複製品である。

佐賀県立博物館

(説明板より)


弘道館記念碑



弘道館記念碑
(佐賀県佐賀市・徴古館の脇)





(平成20年11月24日)

藩校 弘道館

佐賀藩の藩校は「弘道館」(学館)といい、8代藩主鍋島治茂が1781(天明元)年に創設したもので、後に水戸・但馬と並んで天下三弘道館の一つと称されました。
松原小路1900坪の敷地に文武稽古場を建て、古賀精里(後の寛政の三博士の一人)を教授に朱子学を中心にした藩士教育を行い、人材の育成に努めました。
9代藩主鍋島斉直の時には、清里の子古賀穀堂が教授になり、「学制管見」を著し、10代藩主になる鍋島直正の侍講も勤めています。
10代鍋島直正は、1839(天保10)年に北堀端の現在地(ここは東端)5400坪に整備拡張し、弘道館・蒙養舎に七局六寮のほか大講堂・武芸場・厨房などを備え、学館予算も大幅に増額し、大規模な学校になりました。
また、藩士の子弟に限らず教育することにし、翌年6月の新築開講にあたり、「文武を励み、国家(藩)の御用に立つ様心掛くべし」と訓示されました。
学課は儒学・和学・漢学・兵学・筆道・習礼・算術・槍術・剣術・柔術・馬術・砲術・水練・蘭学(洋学を含む)、さらに洋式操練も加え、厳しく文武に研鑽を積ませています。
1855(安政2)年に始まる長崎海軍伝習には幕府の人数を上回る最多の48名を参加させ、海外の最新技術を学ばせています。
明治新政府で活躍した副島種臣大木喬任大隈重信佐野常民江藤新平島義勇などは皆弘道館の出身でした。
弘道館を中心とした徹底した教育による優秀な人材の育成が、幕末の佐賀藩が全国に先駆けて近代化を成し遂げる原動力になったと考えられます。
この記念碑は1923(大正12)年3月の建立で、題字は12代侯爵鍋島直映の揮毫、碑文は文学博士久米邦武の撰、中島雅明の書になるものです。

(説明板より)

弘道館跡



弘道館跡

(佐賀県佐賀市松原2−5−22・徴古館)





(平成20年11月24日)

佐賀の歴史的土壌・精神的風土

佐賀における勤王思想は、統一国家日本における勤王思想のメッカとされている水戸藩のそれよりも早く、その質においてもそれに劣るものではなかった。
寛文3年(1663年)に、佐賀藩の重臣深江平兵衛入道信渓が、楠公父子の甲冑木像を現在の佐賀市にある永明寺に安置した。
これは水戸光圀が兵庫の湊川に楠公の碑を建てた29年前のことである。
そして、この楠公像の祀祭は佐賀勤王運動のメッカとして大きく影響するのである。

しかも、世に名高い「葉隠」精神、これはあくまでも鍋島藩絶対主義の経典であったが、これを打ち破って、「一君万民」の旗をかかげて、藩も江戸幕府も超克して尊皇思想を鼓吹したのが深江を中心とする先駆的グループであった。
藩校も水戸と同じく「弘道館」であり、水戸の弘道館と雁行して、あるいはそれよりも一歩先んじて、幕末における勤王思想の原動力ともなっている。

佐賀鍋島藩の対外政策、とくに対露政策の先見性と積極性は、長崎守護職としての任務からきたものである。
幕末における日本外交の窓口である長崎港警備の責任と必要から、対外認識の眼が開かれたのである。
そして、これに触発されて発達した佐賀の軍事思想、軍事技術、造船技術は当代随一のものであった。
当時、幕府の装備していた火砲の大半は鍋島藩において製造されたものである。

ロシアに対する関心と警戒は、藩の重要政策となっていた。
鍋島直正が初代北海道開拓使となっていたことによっても、その一端をうかがうことができる。
当時対露通の第一級とされていた古賀恫庵、そしてその流れをくむ枝吉神陽江藤新平らの対露経略に関する論策は、現在においても高く評価されている。

(参考:田崎末松 著 『評伝 真崎甚三郎』 芙蓉書房 昭和52年12月 第1刷発行)

(平成30年12月27日 追記)




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