(「済州4・3平和公園」・歩兵第244連隊駐屯地跡・第120震洋隊基地跡)
平成24年(2012年)5月25日 (2日目) |
今日は済州大学の教授ご夫妻が案内役をしてくださる。
教授は私と同世代の方のようである。
お二人とも日本語が話せるので会話にはそれほど不自由はしない。
最初に向かったのが「済州4・3平和公園」・・・・
戦後、韓国で起こった現地住民虐殺事件の犠牲者を追悼する場所らしい。
済州4・3事件とは (日本語リーフレットより) ※誤字はそのままとする |
済州4・3事件は、米軍政期に発生した大韓民国建国以後に至るまで、7年余りに渡って続けられた韓国現代史の中でも韓国戦争に次ぐ人名被害の深刻な悲劇的な事件である。 1945年解放以後、米軍政当局の政策失敗と社会問題等により民心が不安定な状態の中、1947年3月1日、警察の発砲により住民6名が死ぬ事件が起きた。 済州道の民・官総ストライキに対応した米軍政は、応援警察と西北青年団員を済州道に派遣して、テロと拷問に明け暮れる日々を送った。 結局、1948年4月3日、南労党 共産主義の済州道党の武装隊は警察と西北青年団の弾圧に対して抵抗、單選反対を旗印とした騒擾事態が発生、5.10総選挙(200選挙区)から済州道は2つの選挙区だけが投票数の過半数未達で無効処理とされた。 1948年8月15日、大韓民国樹立後、政府は済州道の事態を鎮圧するために軍兵力を増派して強力な鎮圧作戦を広げた。 11月17日、済州道に戒厳令が宣布され、済州道全域で武装隊に協力したという理由で数多くの住民達が集団で殺された。 1950年、韓国戦争が勃発して、予備検束者と内陸地方の刑務所の服役者等がまた犠牲になった。 結局、1954年9月21日漢拏山禁足地域が全面解放された。 これにより、1947年3・1節発砲事件と1948年4・3武装蜂起により触発された済州4・3事件は武装隊と討伐隊の間での武力衝突と討伐隊の鎮圧過程で2万5,000~3万名の住民達を犠牲にし、7年7ヶ月ぶりに幕を下ろしたのである。 世界的な内戦状況と韓半島分断体制の固着化過程で勃発・展開された済州4・3事件は国家公共力による集団犠牲により帰結し、以後半世紀を越えて真相究明運動により名誉回復を通した和解と相生の解決過程を歩んでいる。 |
終戦後、朝鮮半島はソ連が占領した北朝鮮と米軍が管理した南朝鮮とに分かれる。
南朝鮮(韓国)は米軍の軍政下に置かれていた。
1947年(昭和22年)に南北を統一した自主独立国家樹立を訴えるデモが行なわれたが、この時に警官の発砲により死者が出た。
これが、そもそものこの事件の発端である。
この事件に対してゼネストが全島にわたって行なわれ、これに対して米軍政当局は、警官と右翼青年団を済州島へ送り込み、島民を弾圧する。
いわゆる「白色テロ」である。
1948年(昭和23年)には、北朝鮮を除いて南朝鮮だけの単独選挙を行なうことになったが、これに反対する左翼の島民が武装蜂起した。
この日が4月3日・・・「4.3事件」と名付けられたいわれである。
この武装蜂起は軍、警察、右翼青年団が短期間で鎮圧したが、左翼島民はゲリラ戦に転じる。
8月15日の大韓民国成立後、更に弾圧には拍車がかかり・・・・
「朝鮮労働党」の党員狩りが行なわれるが、勢い余ってか、多くの島民が虐殺された。
完全に鎮圧されたのは1957年(昭和32年)だと言われている。
この間の犠牲者は3万人とも8万人とも言われているようだが、どうも実数はハッキリしないらしい。
今もって“行方不明”のままの人も多いという。
全島の各地で虐殺事件が起こったのだから無理もないか・・・
女性などは輪姦したあげくに殺害したというんだから凄まじい弾圧である。
本来は朝鮮労働党(左翼)の党員狩りだったのだろうが、疑わしい島民(疑わしくなくても?)は片っ端から虐殺していったという。
本土(朝鮮半島)から島へ来た“よそ者”だから出来たのかもしれないが・・・
これは国民性ではなかろうか?
日本人は、こういう虐殺って出来ない国民のような気がする。
日本軍の「南京大虐殺」だって、本当はどうなのかわからない。
血だと思うんだよなぁ~・・・血!
こういう“虐殺”って言うのを聞くと、韓国人や中国人は、日本人と姿かたちは似てるけど、日本人とは異質のもののような気がしてならない。
韓国政府はこの事件への謝罪を長年行なっていなかったが、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の時に初めて正式に謝罪したという。
で・・・この記念館と平和公園が事件の補償の一環として作られたそうである。
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済州4・3記念公園 |
記念館の内部は、日本語の話せる説明員が案内してくれた。
記念館の中には戦時中の資料も若干展示されていたが、日本軍に関しては、1コーナーだけだった。
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展示されている機関銃は明らかに日本軍のものではない。
イメージとして展示されたのだろうが、資料的価値は全くないと言っていいだろう。
パネルの写真は、日本軍の戦車部隊のものであるが・・・
写真はネガの裏と表を逆にして焼いてしまっている。
(左の戦車の側面にある「ふじ」の文字が裏返しとなっている)
あらら・・・何と雑な・・・
説明文は、ハングルと英語であるが、英文によれば、7万名の日本兵がこの済州島に駐屯していたと書かれているだけ。
この写真がどこの部隊のものかは書かれていない。
写真の右手前の戦車は「九七式中戦車」であるが大戦初期に使用された旧型のものである。
砲身が取り外されているので、終戦時の武装解除の時のものかもしれない。
左側の二両目の戦車は、車体は九七式中戦車のもののように見えるのだが、上部の砲塔の形は九七式中戦車のものではない。
こんな戦車、あったっけ?(苦笑)
水陸両用戦車っぽい感じがしますが・・・どうなんだろう?
昭和20年5月に満洲から戦車1個中隊が増派されているが・・・その部隊のものだろうか?
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展示内容:「武装蜂起と分断拒否」 |
展示内容:「武装蜂起と分断拒否」
1948年4月3日、明け方に起きた武装蜂起と5・10單選反対事件を中心に当時の歴史的状況が理解しやすいように演出されている。
作品名:「済州道民の5・10(單選反対山行)」
1948年5月10日、選挙を拒否して山に登る済州民達の姿を描いたパノラマ式大型壁画である。
緊張を背後にひかえた平和の風景である。
(日本語リーフレットより)
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展示内容:「焦土化と虐殺」 |
展示内容:「焦土化と虐殺」
焦土作戦と民間人大量虐殺、その後の韓国戦争の間、刑務所に服役中の者達の虐殺までの内容を扱っている。
作品名:「死の島」
銃殺、絞首、斬首、窒息死、水葬等、4・3当時の虐殺の類型を導入部に設置している。
現在的な意味の発掘された遺体、行方不明者等のイメージは後半に表現した。
(日本語リーフレットより)
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展示内容:「タランシュ特別展示館」
1948年、11名の民間人が討伐隊により窒息死をした洞窟現場を発掘当時の様子そのままで再現した。
緊迫した避難生活と当時の虐殺の状況を感じることのできる場である。
(日本語リーフレットより)
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「4・3平和記念館」の内部 |
館内の見学を終え外に出る。
時間配分をどうするか・・・ガイドさんから相談されたので、折角来たんだから、少しこの公園を散策する時間を作ってくれるよう頼む。
広大な公園なので、ご高齢者は歩くのが大変であるが・・・・
申し訳ないが、私はは一人で飛び回り・・・見学!(笑)
とにかく時間がそれほどないので、急いで回らねば!
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遠くに見えるのが、先ほどいた記念館。 手前の噴水のように見えるのが、「慰霊塔」である |
【慰霊塔】
周囲の背景は済州特有の躍動性と敬虔さを持った済州道の噴火口形態として設定され、その周辺には4方位の守護支柱である現代化された反射塔を設置した。
(日本語リーフレットより)
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遠くに見える半円形の建造物は、「慰霊祭壇」と「位牌奉安所」である。 日本のどこかの新興宗教団体の建物っていう雰囲気がするんだよなぁ~(苦笑) |
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位牌奉安所 |
【位牌奉安所】
ここには4・3当時の犠牲者の神位14,000位余りが奉安されている。
訪問客達が犠牲者の魂を慰労するための敬虔な追悼の場である。
犠牲者達の神位はその当時の地域別、村別に配置されており遺族や訪問者達が探しやすいようになっている。
(日本語リーフレットより)
出発予定時間には待ち合わせ場所の駐車場のところまで戻ってきたが、他の方々はまだ来ない。
ちょうど、済州大学の教授と二人っきりになったので、自己紹介を兼ねておしゃべり・・・
日本語が上手な方だが、私が「戦友会の事務局長」だという話をしたとところ、さすがに「戦友会」の意味が良くわからないようなので、ご説明をする。
また、逆に日本軍の組織等、軍事的な質問をいただいたが、何とか説明できた。
皆さん、三々五々集まり、時刻はちょうど12時・・・お昼である。
今から昼食をとりに・・・出発!
市内に戻り(多分・・・)レストランで昼食・・・
これは何と言う料理なんだろう?
よく知らないけど・・・・
テーブルに小鉢が並ぶが、これで4人前・・・
正直言って・・・足りない・・・(苦笑)
この小鉢を4人で突くんだから、腹一杯食べるというわけにはいかない。(汗)
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昼食 |
味は決して悪くないのだが、馴染めないのが、金属製の箸である。
箸が金属製というのは、どうも抵抗がある。
この箸で食べ物を口に入れても味気ないような気がして、どうも好きになれない。
食事後、次に向かったのは「戦争歴史平和博物館」・・・・
「済州島平和博物館」とも言い、「カマオルム地下要塞」とも言う。
ここは日本軍の第111師団歩兵第244連隊の駐屯地跡である。
歩兵第244連隊は昭和19年8月に高知で編成された部隊である。
ここ釜岳(カマオルム)というところに洞窟陣地を造ったが、まもなく終戦を迎えた。
現在の館長が、このカマオルム一帯を買い取り、この陣地跡を保存、復元し、ここに博物館を建てたのだそうだ。
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戦争歴史平和博物館 (カマオルム地下要塞) |
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館長さんから説明を聞く |
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展示館内を見学・・・・
当初は、太平洋戦争関係のものだけしか展示していなかったそうだが、それでは反日に偏ってしまい、本来の平和の教育としては問題があるだろうということで、最近はそれ以外のものも展示するようにしたという。
あくまでも「戦争」というものを考えてもらいたいということなんだ・・・という。
誠に納得できる話である。
韓国人の中にもこういう人がいるのかと感心した。
日本からは以前から他にも見学者が来ているようで、寄せ書きなどを残している。
我々も寄せ書きを書いてくれるよう頼まれたので、私も書いたが・・・・
これを日本人による“懺悔”や“謝罪”という扱いをされないことを望む。(苦笑)
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砲弾(?)の残骸 |
これは2010年11月に起きた「延坪島(ヨンピョンド)砲撃事件」の時に、北朝鮮から撃ち込まれた砲弾の残骸だという。
形からして・・・・普通の大砲の砲弾ではなく、ロケット弾のような気がするが・・・
こういう最近のものも展示している。
それにしても、よくこういうものを入手できたもんだと、参加者一同が驚嘆していた。
北朝鮮からの砲撃の証拠品だからなぁ~
よく個人でやっている博物館に提供してくれたものである。
いずれにせよ、変に反日感情を煽るような展示館ではないので好感が持てた。
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カマオルム地下要塞の模型 |
カマオルムの地下要塞は、こんな感じです・・・という模型・・・
まるで蟻の巣のようである。
釜岳(カマオルム)は標高141メートル。
3階構造の洞窟式坑道が構築されており、坑道は17ヶ所、総延長は2kmにもなる・・・とも言われているが、実際には、いまだに正確な規模や長さは分からないという。
ここに日本の第111師団・歩兵第244連隊が駐屯していた。
博物館から外に出て・・・山の斜面に作られた地下壕入り口に向かう。
途中、斜面にいくつかの洞窟陣地の出入り口らしい穴が木々の合間に見えたが、こちらは中には入れないようである。
見学できる洞窟陣地は1つのみ・・・・
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地下壕出入り口 |
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見学コース入口 |
地下要塞のうち、一部区間、約340メートルが復元されて一般に開放されている。
とりあえず、見学できる“まともな”地下壕は、ここだけらしい。
他の坑道は、入り口が崩れ落ちたり、天井が崩れて底に土が積もっていたり、水が満ちて進入できない場所が相当数あるらしい。
これは、戦後、村民たちが、家を作ったり他の用途で使ったりするため坑道の天井や側面を支えていた坑木を持ち去ってしまったからだそうである。
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地下坑道はご丁寧に板で屋根と壁が作られていて、雰囲気は・・・イマイチ・・・
板壁のない部分を触ってみると、土は砂礫のようなボロボロした“土”である。
どうも火山灰か火山の溶岩、火山砂礫で出来ている山のようである。
これなら短期間で掘ることは出来るだろうが、強度としては、どうだったのだろう?
ドカン!・・・と砲弾が落ちた途端にバラバラと土が崩れ落ちるのではあるまいか?(汗)
こうなると、実際に本土決戦が行なわれた場合、どこまで持ちこたえられたか疑問である。
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縦横に坑道が走り迷路のようである。
一部の坑道には日本兵の人形を置き、当時の雰囲気を表している部分もある。
細かい点は別として・・・まぁ、なかなかよく工夫をされている。
約10分ほど、地下要塞内を見学し、外に出て、今度は山頂に向かう。
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教授の説明を聞く参加者たち |
頂上で、済州大学の教授から説明を受ける。
が・・・私はみんなから離れて写真撮影!
先生には申し訳ないが、説明は全く聞いていない。
とにかく団体行動は写真が撮りづらい。
誰かしらが必ず写真に写ってしまうのである。(涙)
写真に写らないようにと気を使ってくれる人は、まず皆無と言って良い。
私としては、人間を入れたくないので、みんなが一箇所に集まって説明を聞いているときがチャンス!
この時に撮らねばと周囲を一人で走り回る。(大笑)
頂上から見た景色
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このあたりに高射砲陣地があったという |
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散策路 |
時刻は3時半・・・
ここを約1時間強ほど見学したことになる。
館長さんの見送りを受けて、次の訪問地へ向かう。
次に向かうのは、当初、このツアーの訪問地として予定にはなかった場所である。
急遽、教授が、ここから近いからということで案内してくれるという。
なんとも有難い話である。
今回の旅にも私はドコモのタブレットを持参してきた。
今回も「マップ」は使えるので、現在地はわかるが・・・・
なんと!
地名等の表記は全てハングル文字である!
読めねぇ~!(怒)
なにこれ・・・
他の国の地図は主だった地名にはカタカナが併記されている。
が・・・中国と韓国は、日本語の併記がない。
どういうことよ!
中国は漢字だから何となくわかるが・・・
現在地はマークが点滅するからわかるが、ハングルで表記された地名は完璧に理解不能である。(涙)
ハングル文字を知らないお前が悪い・・・と言うことか?
便利なはずが、不便である!
このタブレット・・・日本で買ったけど・・・韓国製?
さて、教授の案内で向かったのは「高山里水月峰(コサンリ・スウォルボン)」の海岸・・・
ここは日本軍の特攻艇・震洋の基地があった場所だそうである。
配備されていたのは第120震洋隊。
通称は小野部隊、総員191名、震洋5型が26隻配備されていたといわれている。
震洋隊の兵士は、みな海軍飛行予科練習生(予科練)出身の20歳前後の若い青年たちであったという。
水月峰
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「水月峰」を左に見て、海岸線を歩いていく・・・ |
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海岸の崖のところにコンクリート製の施設が・・・
説明板が立てられていたが、ハングルと英語。
なんで日本語表記がないんだろう?
日本人観光客は、ここには案内されないのか?
内容は、ここに特攻艇の基地があったという話だけで、このコンクリート製の設備が何であるかは書かれてはいない。
教授の話によれば、発電設備か何かではなかろうかと言う。
看板に使用されている写真のうち、集合写真は、小野部隊の写真で、宿泊所として使用していた高山里小学校の前で昭和20年5月に撮影されたものとされている。
Japanese Military Tunnel |
Here and there in jeju-do, there are scattered gigantic military facilities the Japanese army built. Suweolbong is a site where the japanese army stored boats for suicide attack and bullets to attack the US warship in the event of their entry into Gosan area. |
説明板(英文部分) |
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この2つの“設備”は、内部で繋がっているようには見えず、それぞれが独立している形となっている。
気になるのが“ハの字”形に空いている四角い穴・・・・
これ・・・なんだろう?
監視哨の窓にしてはおかしな形である。
やはり“発電設備”というのが妥当な線か?
ここを見学して、再び「水月峰」のところまで戻る。
ここの“岬”(?)の側面にいくつもの横穴が掘られている。
これが震洋艇の秘匿壕である。
この坑道は10箇所あったとされている。
その一部をここで見ることが出来る。
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その壕のすぐ近くに説明板が建っている。
こちらはハングルと英語と日本語の三ヶ国語で書かれていた。
なんで、こっちには日本語が併記されているんだろう?
内容は「スウォル峰の火山碎屑岩の堆積構造」についてだった。
天然記念物なのだそうだ。
壕のすぐ目の前にあるので、震洋艇の壕についてかと思ったのだが・・・
しかし、考えてみると、天然記念物の横っ腹に穴を開けちゃったということになるか・・・(大汗)
いやぁ~こりゃ失礼・・・だが・・・
当時としては仕方がなかったか・・・
スウォル峰の火山碎屑岩の堆積構造 天然記念物第513号 |
スウォル峰は済州道の無数のオルムの一つに過ぎないが、海岸 絶壁に沿って形成された火山碎屑岩層は、いろんな火山の堆積 構造を見せてくれて火山学の教科書のようなものだとも言えよう。 スウォル峰の火山碎屑岩層からは、火山灰が幾重に積み重なっ て作られた板状の層理、火山岩の落下時の衝撃で崩れ落ちた層 理(バムサグ)などがよく観察できる。中でも火碎サージ(火碎サー ジ:火山碎屑物が火山ガスや水蒸気と混ざって高速で薙ぎ払うよう に流動する現象)によって作られた斜層理には驚かざるを得ない。 これらはスウォル峰の火山活動だけでなく、世界の凝灰環の噴出 や堆積過程の研究においての重要な資料になっているため、地 質学的な価値は非常に高い。 |
説明板(日本語部分) |
ここで、ちょっとお時間を頂いて、この秘匿壕を見に行く。
他の人はなぜかあまり興味がないようで付いて来ない。(汗)
興味津々、何でも見てやろう・・・という年配者2名と一緒に見に行く。(大笑)
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壕の入り口はかなり埋没していたが、内部を覗いてみたら、かなりシッカリと造ってある。
私としては全部の壕を見たかったが・・・
他の人をあまり待たせるのも申し訳ないので、二人の年配者に声をかけ2箇所だけ覗き込んで戻ることにした。
次は、海軍の飛行場跡へ向かう・・・・
移動するバスの中で、このツアーの引率をしてくださっている写真家の“ヤスジマさん”とおしゃべり。
彼は私より1歳年上。
戦跡の写真をライフワークとして撮っているというので、以前、写真家の“エナリ先生”と一緒にパプアニューギニアへ行った話(旅日記)をしたところ・・・
なんと、最初は“ヤスジマさん”が誘われていたそうなのである!(驚)
彼が断ったので、私が誘われ、一緒に同行したということが、初めてわかった。(大笑)
「え~!僕が断ったら、あなたに話が行ったんですか!」と大笑い。
いやぁ~世の中って狭いねぇ~(大笑)
共通の話題で大いに話が弾む。
写真家の世界の話もいろいろ聞かせていただいた。
もうお一人は、“ヨネヤマさん”・・・・
防衛省の職員で、出張先のソウルから合流された方。
私と同い年である。
彼は防衛研究所に勤めているという。
あらら・・・私は時々、防衛研究所に行きますけど・・・
私は1階に行くが、彼は2階いるという・・・あらら・・・奇遇ですねぇ~(大笑)
これまた、世の中って狭いねぇ~・・・・である。
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