平成21年11月8日
明治6年(1873年)3月30日〜昭和46年(1971年)9月14日
岩手県奥州市水沢区吉小路・生誕の地でお会いしました。
斎藤夫妻像 (朝倉文夫作) (岩手県奥州市水沢区・生誕の地) (平成21年11月8日) |
斎藤夫妻像 (朝倉文夫作) (岩手県奥州市水沢区・生誕の地) (平成21年11月8日) |
碑文
子爵至誠重厚ニシテ■毅謹厳自ラ持シ克ク人ヲ知リテ之ヲ用フ
海軍大臣トシテハ大ニ國防ノ経綸ヲ行ヒ朝鮮総督トシテハ徳化ヲ八道ニ敷キ台閣ノ首班トシテハ帝國ヲシテ九鼎大■ヨリ重カラシム
餘力猶公益ノ業ヲ指導スルモノ尠カラス
子爵天■ノ■綽綽トシテ餘裕アルヲ見ルヘシ
夫人名ハ春子海軍中将子爵仁禮景範ノ長女ナリ
温良貞淑ニシテ克ク内ヲ治メ又善ク人ト交リ子爵ノ在ル所形影必ス従フ
夫君ノ兇手ニ襲ハレシ時身ヲ挺シテ之ヲ庇ヒ為ニ三兇弾ヲ受ケタリ
以テ平生其志ノ存スルトコロヲ知ルヘシ
子無キノ故ヲ以テ豊川良平ノ五子齊ヲ養ヒテ嗣トナス
庶幾ハ水澤ノ人子爵及夫人の偉徳ヲ景仰シ観感興起シテ其志ヲ■クアランコトヲ
斎藤實・旧宅 |
旧宅について
この建物は 昭和6年斎藤實が朝鮮総督退任の際 朝鮮の方々のご芳志により 誕生地に建設されたものである
尚 昭和20年 春子夫人 東京より疎開 昭和46年迄(26年間)99才の天寿を全うされるまで ここにお住まいになられた
敷地 1775.4u
旧宅および書庫よりなる
この敷地及び建物等の一切は 昭和45年斎藤家より水沢市に寄贈された。
(説明板より)
図書館と斎藤實
斎藤實が、昭和6年に朝鮮総督を辞任した時、朝鮮の官民から一宮別邸を増築する足しにでもと言って、相当の金額を贈られた。
これを受けた斎藤實は、いろいろ考えた末、一宮の家に手を入れるよりも郷里水沢に文庫でも造った方がよいとして、朝鮮の方々の了解を得た上で、その計画に取りかかった。
先ず吉小路の生家の跡が他人の手に渡っていたのを、町長やその他の斡旋によって買い戻し、その場所に文庫を建てる計画で工事に着手。
翌昭和7年に工事は完了した。(設計は海軍省技師に依頼、工事は大林組が請負)
斎藤實の生家の跡に建築された文庫は、鉄筋コンクリート二階建の書庫と付属の建物とからできており、付属の建物には閲覧室兼用の日本間(南側)と帰省時に寝泊まりする洋間(北側)とを配置した。
現在書庫には3万8千2百冊の本が収められており、その範囲はかなり広く、中でも昭和初期の政治史料や千7百冊にも及ぶ朝鮮関係の図書は、貴重な資料として研究者に利用されている。
なお水沢町では「邸宅を文庫として町民の使用に供するのは忍びない」として、隣接地に斎藤子爵記念事業会の手によって【皋水記念図書館】が、昭和16年に建設された。
これが水沢市立図書館の始まりとなった。
※斎藤實は昭和7年10月に内閣総理大臣として初めて帰省した際に立ち寄った他に数回来ている。
昭和10年8月に20日間ほど滞在したのが最後。
※春子夫人は、斎藤と同伴で水沢に来た時に立ち寄った。
また、昭和20年3月に水沢に疎開して以来白寿(99歳)で亡くなるまで27年間、斎藤實の「愛郷心」を承けて旧宅でお暮しになった。
(説明板より)
斎藤實誕生地 (岩手県奥州市水沢区吉小路・斎藤實記念館敷地) (平成21年11月8日) |
平成21年11月8日
岩手県奥州市水沢区吉小路・斎藤實記念館でお会いしました。
斎藤春子夫人像 (岩手県奥州市水沢区吉小路・斎藤實記念館) 昭和36年10月27日建立 図書館創立20周年記念 水沢市 台座制作 及勝建設 (平成21年11月8日) |
皋水記念図書館(旧水沢市立図書館) (岩手県奥州市水沢区吉小路・斎藤實記念館前) (平成21年11月8日) |
由緒
故斎藤實子爵の国家に対する功績を顕彰しその遺徳を永遠に追慕するため財団法人斎藤子爵記念会(会長児玉秀雄)が設立せられ、その事業の一つとして斎藤邸の隣接地543坪を買収し、建坪79.35坪、総工費38,500円を以って昭和15年着工、同16年5月竣工、図書その他の備品を備付け、皋水記念図書館と命名し同年11月3日落成式を挙行、同日附を以て水沢市に寄贈移管された。
(説明板より)
斎藤實記念館・展示館 (岩手県奥州市水沢区字吉小路24) (平成21年11月8日) |
【斎藤春子】
仁礼景範にれかげのり海軍中将の娘、春子は一人娘だが、4歳年上の長男景一のほか、年下の二男景男、三男景明、四男景雄がいた。
華族の仁礼家は代々「景」という通し字を名前に採っていたことがわかる。
東京で生れた春子は、二男が誕生すると父・景範の妹のもとで育てられた。
赤ん坊の時から虚弱体質で、しかも牛乳が嫌いだったことから水飴で栄養をとる始末だったという。
7才の頃から、盲人で満寿という名の男師匠について琴を習い、日本舞踊の稽古をさせられた。
生け花や茶の湯、習字、絵画などの教えも受けている。
15歳ごろになると、ベルダンというフランス人の斡旋で中古のピアノを購入し、遊び友達とレッスンに励んだ。
学校は、芝にあった南海小学校を振出しに、川村女学校、明倫女学校(ただし、どちらの女学校も家塾のようなものだった)を経て、鳥居坂にあった東洋英和女学校に入学した。
同女学校の校長はミス・カートメルというアメリカ人で、女性蔑視や男尊女卑が色濃く残っている当時にあって、画期的な女子教育を施した。
少女から習い続けていた英語は、同女学校時代にみるみる上達した。
(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)
(平成29年2月4日 追記)
【斎藤實亡き後】
昭和11年(1936年)3月2日、斎藤實の密葬が自邸においてしめやかに営まれ、遺骸は幡ヶ谷火葬場で荼毘に付された。
春子は、2・26事件の襲撃で背中と右肘、左手首に計3発の銃弾を受け、両手を三角布で吊っていた。
昭和16年(1941年)8月、斎藤春子は、高齢にもかかわらず日本赤十字社篤志看護婦婦人会員となり、救急事業に尽くした。
日本の敗戦が色濃くなった昭和20年(1945年)3月、春子は家族と共に夫の生まれ故郷である水沢に移り住むことになり、貨車1台に家財などを詰め込んで運ばせた。
四谷の邸宅は戦災で焼けたが、この時の春子の英断により、斎藤夫妻の遺品が奇跡的に残されることになった。
遺品の数々は、明治、大正、昭和と、それぞれの時代とその変遷を証言する貴重な資料として、斎藤實記念館に展示・保管されている。
昭和46年9月14日、3月から国民健康保険総合水沢病院(現・奥州市総合水沢病院)に入院していた春子は、眠るように逝去した。
享年99(満年齢では98歳)。
眼球は遺志によってアイバンクに捧げられ、一人の青年に角膜が移植されている。
葬儀は市民葬として営まれ、小山崎の斎藤墓地に夫と並んで葬られた。
(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)
(平成29年2月8日 追記)
齋藤實室春子之墓 (岩手県奥州市水沢区真城・小山崎墓地) (平成21年11月8日) |
斎藤家墓所 (岩手県奥州市水沢区真城・小山崎墓地) (平成21年11月8日) |
斎藤實 生誕150年記念事業 最後の留守家臣 齋藤 實 薩摩おごじょと歩んだ激動の時代 |
特別展の開催によせて
齋藤實は、安政5年(1858)、幕末の動乱のなかで、現在の奥州市水沢区吉小路に生まれました。
胆沢県庁の給仕をふりだしに、海軍大臣、朝鮮総督、内閣総理大臣、内大臣を歴任、昭和11年の2・26事件で凶弾に倒れ79歳の人生をとじています。
天賦の才を発揮した後藤新平とは対照的に、齋藤實は温和、誠実、実直を信条とした人物と言えます。
内閣総理大臣時代には、「スローモー」や「べご」と揶揄されましたが、粘り強さを流儀に、混迷する時代に立ち向かいました。
深刻な恐慌状態にある農村救済では、『自力更生』を掲げた精神的運動も展開しています。
また、「故郷忘難」の言葉を残し、こどもたちの教育のために吉小路齋藤邸にレンガ造りの書庫を建設する一方、旧主留守家への爵位授与をはたらきかけるなど、「故郷」に対する強い想いをもっていました。
今回の特別企画展「最後の留守家臣齋藤實/薩摩おごじょと歩んだ激動の時代」は、昨年の「後藤新平展/TOKYOを創った奥州人」に続いて、後藤新平・齋藤實生誕150年記念事業の一環として開催するものです。
激動の時代を生きた齋藤實と春子夫人の歩みにふれながら、改めて、奥州市の郷土づくりに想いを馳せていただければ幸いです。
後藤新平・齋藤實生誕150年記念事業実行委員会
会長 奥州市長 相原 正明
特別展 (岩手県奥州市水沢区・ショッピングシティ「メイプル」特設会場) (平成21年11月7日) |
齋藤實・仁禮春子 ふたりの出会い |
齋藤實は、安政5年10月27日、留守家臣齋藤耕平の長男として、水沢吉小路で誕生した。
齋藤家は留守家譜代の家臣で、第9代の勘左衛門が家老、父は目付、小姓頭を務めた。
この齋藤家の嫡子として、實は厳格に育てられたが、10代初めの多感な少年期に、戊辰戦争や水沢城の明け渡し、家臣の離散を目の当たりにすることとなる。
明治2年、胆沢県地元雇員となった旧留守家臣の吉田種雄や澤邊綾之丞などの推薦で、留守家臣の子弟が県庁諸官の書生となった。
権知事・武田亀五郎についた竹下権三郎、大参事・安場保和についた後藤新平、権少属・祖父江についた餘目新次郎などで、齋藤實は小参事・野田豁道の書生となった。
その翌年、實は胆沢県庁の給仕に採用されたが、明治5年には水沢県の誕生でお役御免となり、嘉悦大参事などに従い上京。
内田春吉、福島常定と東京出張所で暮らした。
東京出張所時代の明治6年、實は陸軍幼年学校の入学試験を受けるが官費生からはずれたため辞退、海軍兵学寮に入学した。
齋藤實が世に出る契機であり、仁禮春子と出会い激動の時代を歩む始まりでもあった。
仁禮春子は、薩摩藩士・仁禮景範の長女として、明治6年3月30日、東京で誕生した。
明倫女学校、カナダの宣教師ミス・カートメルが設立した東洋英和女学校で学んだ才女で、8歳の時、母とともに天皇、皇后の御機嫌伺いに参内、昭憲皇后からカンザシなどを拝領した。
父景範は、慶応3年に藩命によりアメリカに留学した人物で、海軍兵学校校長、中艦隊司令官、海軍軍事参謀本部長などを歴任、海軍中将、第2次伊藤内閣では海軍大臣に就任した。
娘を嫁がせ、齋藤實の後ろ盾となった人物である。
新婚の齋藤實夫妻 (展示写真より) |
朝鮮総督時代の齋藤實夫妻 (展示写真より) |
齋藤實夫妻の生涯 |
齋藤實と春子は、明治25年(1892)2月5日、山本権兵衛の媒酌で挙式をあげ、昭和11年の2・26事件で實が凶弾に倒れるまでの45年をともに歩んだ。
この間、齋藤實は、乗艦勤務から、海軍次官、海軍大臣、朝鮮総督、内閣総理大臣、内大臣を歴任した。
その大半を職業軍人として海軍に身を置き、朝鮮総督時代には、海軍補助艦制限に関するジュネーブ海軍軍縮会議に首席全権委員として参加している。
5・15事件の犬養毅首相暗殺を受けた首班指名で、昭和天皇の希望が侍従長から元老西園寺公望に伝えられた。
「思想や人格が立派なもの」、「現在の政治の弊害を改善し、陸海軍の軍規を振粛するは一に首相の人格如何による」、「国際平和を基礎とし国際関係の円滑に努めること」などで、適任者として、齋藤實が選ばれた。
齋藤實の生涯で夫人の存在は大きく、特に、春子夫人の洋装と東洋英和女学校で学んだ英語力が、「夫人外交」として夫を助けたことが広く知られている。
(参考・引用:展示資料目録)
和暦(西暦) | 年齢 | 事項 |
明治 6(1873) | 1 | 3月30日、旧薩摩藩士仁禮景範、寿賀子の長女として東京で生まれる。 |
明治11(1878) | 6 | 琴や踊りの稽古のほか習字、絵、ピアノなどの勉強を始める。 このころから母とともに皇居に赴き宮様方の遊び相手となる。 |
明治13(1880) | 8 | 明治天皇、皇后御機嫌伺いのため母と参内。 女官税所篤子の案内で皇后拝謁、緋縮緬のしごき、紙入、カンザシを拝領する。 |
明治17(1884) | 12 | 私立明倫女学校中等科6級卒業。 |
明治19(1886) | 14 | アメリカアナポリス海軍兵学校留学中の兄景一、アメリカ派遣中の實の世話になる。 |
明治20(1887) | 15 | 母に伴われて参内したとき、皇后から手作りの品、反物、マフラー、羽織下を賜る。 |
明治21(1888) | 16 | 12月、東洋英和女学校本科2年前期終業。 |
明治22(1889) | 17 | 父・景範が横須賀鎮守府司令官として転勤したため、東洋英和女学校を中退する。 |
明治25(1892) | 20 | 2月5日、山本権兵衛の媒酌で齋藤實と結婚。 式は麻布芝北新門前町の新居(借家)で、内輪で簡素に行われた。 父、仁禮景範、海軍大臣に就任。 |
明治27(1894) | 22 | 母に伴なわれ半年間、広島の日清戦争大本営に、篤志看護婦として勤める。 この年、麻布の龍土町に転居したが、實が侍従武官として広島大本営に赴任 義母菊治は水沢に、春子は実家の仁禮家で暮らした。 |
明治29(1896) | 24 | 5月、義弟齋藤省吾の葬儀で、實とともに水沢に帰る。 |
明治31(1898) | 26 | 實、海軍次官に就任。 春子夫人の洋装と英語が、さまざまな行事に出席する夫を助けた。 |
明治33(1900) | 28 | 11月20日、父・仁禮景範死去。 |
明治39(1906) | 34 | 1月、實が海軍大臣に就任する。 4月、三菱の大番頭豊川良平の五男・斉(9才)を養子に迎える。 高輪に転居する。 |
明治44(1911) | 39 | 10月、四谷仲町の新宅に移る。 |
大正 1(1912) | 40 | 6月、義母・菊治死去。 水沢での葬儀に帰郷。 |
大正 3(1914) | 42 | 4月、實、海軍大臣辞任。 6月、法事のため實と水沢に帰る。 以後、主に一宮の別荘で暮らす。 |
大正 4(1915) | 43 | 11月、大正天皇即位式に参列。 |
大正 5(1916) | 44 | 11月、實と立太子盛典に列席する。 |
大正 7(1918) | 46 | 6月、義母・菊治の7回忌法要で水沢に赴く。 |
大正 8(1919) | 47 | 8月、實、朝鮮総督就任。夫婦で任地に赴く。 9月、京城到着、駅頭で爆弾を投げられる。 |
大正 9(1920) | 48 | 李王世子殿下結婚式に参列。 以後、春子夫人は實に同伴し朝鮮各地を回る。 排日感情の緩和に内助の功を尽くした。 |
大正13(1924) | 52 | 1月、皇太子御成婚に夫婦で参列する。 |
昭和 2(1927) | 55 | 2月、大正天皇御大葬儀に夫婦で参列。 ジュネーブ海軍軍縮会議首席全権の實に同伴し渡欧する。 4月、門司港出港、9月26日神戸帰港。 實は、帰国後、病気のため朝鮮総督を辞任する。 |
昭和 3(1928) | 56 | 4月まで病気療養の夫を自宅で看護する。 11月10日、昭和天皇即位御大礼式典に参列。 |
昭和 4(1929) | 57 | 8月、實は朝鮮総督に再任されるが、休養のためしばしば東京に帰る。 |
昭和 6(1931) | 59 | 夫の病気看護に専念するが、6月、實、朝鮮総督辞任。 7月、夫妻で水沢、花巻温泉で療養生活を送る。 |
昭和 7(1932) | 60 | 吉小路に水沢邸とレンガ造りの文庫ができる。 5月、實、内閣総理大臣に就任。 昭和9年7月の内閣総辞職まで四谷の私邸から総理官邸に通った。 |
昭和10(1935) | 63 | 社会事業活動で全国を巡る夫にたびたび同伴する。 12月、實、内大臣に就任。 |
昭和11(1936) | 64 | 2・26事件、夫をかばい春子夫人も手と背中に銃弾を受ける。 3月2日火葬、3月22日本葬(築地本願寺)、3月26日水沢葬儀 4月7日多磨墓地埋葬。 夫の遺骨は東京と水沢に分骨、朝鮮に遺髪が埋葬された。(入間野武雄日記) |
昭和16(1941) | 69 | 日本赤十字社篤志看護婦人会員となり救急事業などに貢献する。 11月、皐水記念図書館竣工式に出席。 |
昭和20(1945) | 73 | 3月、東京空襲が激しくなり春子夫人ほか家族が水沢に疎開。 このとき貨車1台で運んだ遺品が明治、大正、昭和史の貴重な資料となった。 12月、斉夫妻が東京に戻り、春子夫人がひとり残った。 亡き夫の遺志を守り墓参をしながら暮らした。 |
昭和22(1947) | 75 | 10月、三笠宮殿下、春子夫人を慰問、吉小路齋藤邸に宿泊。 東北巡幸の天皇皇后からおことばを賜る。 皇后からシュールやチョコレートなどが届けられる。 |
昭和27(1952) | 80 | 大畑小路の清明女学校にあった齋藤實胸像を旧宅に移転する。 |
昭和36(1961) | 89 | 春子夫人胸像除幕式。 |
昭和38(1963) | 91 | 6月21日、水沢市名誉市民となる。 10月27日、水沢公園齋藤實像復元除幕式。 吉小路の齋藤邸を水沢市に寄付することを表明。 |
昭和45(1970) | 98 | 10月13日、岩手国体で来県した高松宮妃殿下、春子夫人を訪問。 翌日、天皇、皇后陛下に水沢緯度観測所で拝謁する。 |
昭和46(1971) | 99 | 3月30日、水沢病院に入院。 9月14日逝去。 小山崎の齋藤家墓地に夫と並んで葬られる。 遺言により、眼をアイバンクに提供する。 |
(展示年表より)
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