平成21年11月8日
安政5年10月27日(1858年12月2日)〜昭和11年(1936年)2月26日
岩手県奥州市水沢区・水沢公園でお会いしました。
明治〜昭和前期の海軍軍人・政治家。
陸奥国胆沢郡生まれ。
明治12年(1879年)海軍兵学校卒。
初代アメリカ公使館付武官や艦隊・海軍参謀部勤務の後、明治31年(1898年)に大佐で海軍次官に抜擢された。
日露戦争終了まで7年間にわたり山本権兵衛海相を補佐する。
明治39年(1906年)山本権兵衛の跡を継ぎ、5代の内閣で海相を歴任。
大正元年(1912年)海軍大将に昇進。
大正3年(1914年)シーメンス事件で海相を辞職。
大正8年(1912年)朝鮮総督に就任。
昭和7年(1932年)5・15事件のあと挙国一致内閣の首相(第30代)となる。
昭和10年(1935年)内大臣に就任したが、翌年の2・26事件で反乱軍に殺害された。
「従一位大勲位子爵 斎藤実」像 (岩手県奥州市水沢区・水沢公園) (平成21年11月8日) |
碑文
子爵至誠一貫終始君國ノ為ニ匪躬ノ節ヲ致セリ
明治十五年海軍少尉ニ任シ累進シテ大将ニ至ル
三十九年海軍大臣ニ拜シ在任九年籌畫スル所多シ
大正八年朝鮮総督ニ任シ昭和二年帝國全権トシテ壽府軍縮會議ニ列ス
同年総督ヲ辞し四年再任シテ六年ニ及フ勵精治ヲ圖リ綏撫カヲ效シ民人恩徳ニ服ス
七年大命ヲ奉シテ内閣ヲ組織シ大政ヲ燮理スルコト二年餘嚮ニ勲功ヲ以テ男爵ヲ授ケラレ子爵ニ陞叙ス
十年内大臣ニ任シ翌年二月二十六日不■ノ變ニ遭ヒ兇手ニ斃ル
皇上チン軫悼シテ従一位大勲位ニ叙シ且誄ヲ賜ヒ聖恩身後ニ及フ
■芳百世遺像永ク其ノ光ヲ揚ケン
昭和十三年十一月
財團法人 斎藤子爵記念會
銅像復元の記
昭和20年春応召した元の銅像その侭のものが 全国多数の同志たちの寄進協力によって新たにかつての台座の上に安置された
敬愛八〇かなかった故人の温容を再び仰ぎ見て われらは感激にたえず 喜びをあらわすすべをわきまえぬ
復元の大事業はたちまちに広く厚い応募をかち得 順調かつ容易に成ったが ひとえに故人の仁徳の広大さを証するに外ならず 又作者の格別な好意も忘れられぬ
永久に祖国の柱石たれと祈念しつゝ■を終る
昭和38年10月27日
齋藤實■子爵銅像復元会
山梨勝之進書
(副碑・碑文より)
「従一位大勲位子爵 斎藤実」像 (岩手県奥州市水沢区・水沢公園) (平成21年11月8日) |
斎藤實銅像(朝倉文夫作)
斎藤實は安政5年(1858年)10月27日吉小路で生れた。
幼少から郷の3秀才(山崎為徳、後藤新平、斎藤實)の1人といわれた。
明治6年海軍兵学寮に入り、海軍の道を進んだ。
明治36年大佐で海軍次官に抜擢、明治39年海軍大臣となり、大正3年まで8年余にわたり5代の内閣に海相をつとめた。
その後朝鮮総督を重任(大正8年、昭和3年)さらに首相内大臣となり国家の柱石として活躍した。
昭和11年2月26日、いわゆる2.26事件の勃発により、79才をもって劇的な生涯を閉じた。
銅像は昭和13年に建設されたが、昭和19年に応召、昭和38年10月、斎藤實子爵銅像復元会が全国募金により復元したものである。
(説明板より)
平成21年11月8日
岩手県奥州市水沢区吉小路・生誕の地でお会いしました。
斎藤夫妻像 (朝倉文夫作) (岩手県奥州市水沢区・生誕の地) (平成21年11月8日) |
碑文
子爵至誠重厚ニシテ■毅謹厳自ラ持シ克ク人ヲ知リテ之ヲ用フ
海軍大臣トシテハ大ニ國防ノ経綸ヲ行ヒ朝鮮総督トシテハ徳化ヲ八道ニ敷キ台閣ノ首班トシテハ帝國ヲシテ九鼎大■ヨリ重カラシム
餘力猶公益ノ業ヲ指導スルモノ尠カラス
子爵天■ノ■綽綽トシテ餘裕アルヲ見ルヘシ
夫人名ハ春子海軍中将子爵仁禮景範ノ長女ナリ
温良貞淑ニシテ克ク内ヲ治メ又善ク人ト交リ子爵ノ在ル所形影必ス従フ
夫君ノ兇手ニ襲ハレシ時身ヲ挺シテ之ヲ庇ヒ為ニ三兇弾ヲ受ケタリ
以テ平生其志ノ存スルトコロヲ知ルヘシ
子無キノ故ヲ以テ豊川良平ノ五子齊ヲ養ヒテ嗣トナス
庶幾ハ水澤ノ人子爵及夫人の偉徳ヲ景仰シ観感興起シテ其志ヲ■クアランコトヲ
斎藤實・旧宅 |
旧宅について
この建物は 昭和6年斎藤實が朝鮮総督退任の際 朝鮮の方々のご芳志により 誕生地に建設されたものである
尚 昭和20年 春子夫人 東京より疎開 昭和46年迄(26年間)99才の天寿を全うされるまで ここにお住まいになられた
敷地 1775.4u
旧宅および書庫よりなる
この敷地及び建物等の一切は 昭和45年斎藤家より水沢市に寄贈された。
(説明板より)
図書館と斎藤實
斎藤實が、昭和6年に朝鮮総督を辞任した時、朝鮮の官民から一宮別邸を増築する足しにでもと言って、相当の金額を贈られた。
これを受けた斎藤實は、いろいろ考えた末、一宮の家に手を入れるよりも郷里水沢に文庫でも造った方がよいとして、朝鮮の方々の了解を得た上で、その計画に取りかかった。
先ず吉小路の生家の跡が他人の手に渡っていたのを、町長やその他の斡旋によって買い戻し、その場所に文庫を建てる計画で工事に着手。
翌昭和7年に工事は完了した。(設計は海軍省技師に依頼、工事は大林組が請負)
斎藤實の生家の跡に建築された文庫は、鉄筋コンクリート二階建の書庫と付属の建物とからできており、付属の建物には閲覧室兼用の日本間(南側)と帰省時に寝泊まりする洋間(北側)とを配置した。
現在書庫には3万8千2百冊の本が収められており、その範囲はかなり広く、中でも昭和初期の政治史料や千7百冊にも及ぶ朝鮮関係の図書は、貴重な資料として研究者に利用されている。
なお水沢町では「邸宅を文庫として町民の使用に供するのは忍びない」として、隣接地に斎藤子爵記念事業会の手によって【皋水記念図書館】が、昭和16年に建設された。
これが水沢市立図書館の始まりとなった。
※斎藤實は昭和7年10月に内閣総理大臣として初めて帰省した際に立ち寄った他に数回来ている。
昭和10年8月に20日間ほど滞在したのが最後。
※春子夫人は、斎藤と同伴で水沢に来た時に立ち寄った。
また、昭和20年3月に水沢に疎開して以来白寿(99歳)で亡くなるまで27年間、斎藤實の「愛郷心」を承けて旧宅でお暮しになった。
(説明板より)
書庫について
斎藤實が「この本を読めば、内のことも外のこともわかるだろう」と言われ、東京にあった自分の自分の蔵書を郷土の子弟に閲覧させる目的で設計されたものである。
昭和7年に鉄筋コンクリート・赤煉瓦併用で洋風に建築され、約38000冊が収められている。
その範囲はかなり広く、中でも昭和初期の政治資料や朝鮮関係の図書は貴重な資料として研究者に利用されている。
単行本 3800点
朝鮮関係 1750点
洋書 750点
写真帳類 1000点
逐次刊行物 29000点
パンフ類 1600点
合計 37900点
この外に約5000冊が国立国会図書館にいっている。
(書庫の説明板より)
書庫
斎藤實は書庫を建設する際し、階段を軍艦の階段に似せて設計させ、勾配を大きく(52度)し、海水の侵入を防ぐための覆蓋(ふくがい=おおいのふた)まで備え付けたものにした。
(書庫の説明板より)
斎藤實誕生地 (岩手県奥州市水沢区吉小路・斎藤實記念館敷地) (平成21年11月8日) |
平成21年11月8日
岩手県奥州市水沢区吉小路・斎藤實記念館でお会いしました。
『子爵 斎藤實閣下』像 (岩手県奥州市水沢区吉小路・斎藤實記念館) 昭和8年8月19日 斎藤實 立體寫眞像 發明者 盛岡勇夫 作 (平成21年11月8日) |
『処世観の一部』の碑 (岩手県奥州市水沢区吉小路・斎藤實記念館前) 寄贈 奥州市水沢区羽田町 株式会社小野忠石材店 代表取締役小野寺忠榮 (平成21年11月8日) |
『斎藤實処世観の一部』の碑 (岩手県奥州市水沢区吉小路・斎藤實記念館前) (平成21年11月8日) |
【斎藤實処世観の一部】
昭和7年5月26日に第30代内閣総理大臣に就任した直後、総理大臣としての心構えを書いたものです。
忍耐は人の宝なり
人に接するには 調和を
旨とし 謙譲なる態度を
忘るべからず
優越観念は 深く自己の
胸底に収め 他に対しては
平凡中庸を以てし
自然に他をして
敬服せしむるを要す
斎藤實生誕百五十年記念
平成20年6月
斎藤實顕彰会
旧水沢市役所管理職職員会臥牛会
(碑文より)
皋水記念図書館(旧水沢市立図書館) (岩手県奥州市水沢区吉小路・斎藤實記念館前) (平成21年11月8日) |
由緒
故斎藤實子爵の国家に対する功績を顕彰しその遺徳を永遠に追慕するため財団法人斎藤子爵記念会(会長児玉秀雄)が設立せられ、その事業の一つとして斎藤邸の隣接地543坪を買収し、建坪79.35坪、総工費38,500円を以って昭和15年着工、同16年5月竣工、図書その他の備品を備付け、皋水記念図書館と命名し同年11月3日落成式を挙行、同日附を以て水沢市に寄贈移管された。
(説明板より)
斎藤實記念館・展示館 (岩手県奥州市水沢区字吉小路24) (平成21年11月8日) |
【駐米時代】
斎藤というと、どうしても晩年の印象が強いせいか、恰幅かっぷくのいい体型を連想してしまう。
だが、目立って太り始めたのは40代になってからで、それまでは中肉中背、20代まではむしろ痩せていた。
ワシントンに滞在中、何とかして太りたいと思った斎藤は、「ビールを飲めば太る」との話を耳にした。
さっそくビール会社に頼み、下宿先まで配達してもらうことにした。
牛乳ならまだしも、ビール会社の馬車がアパートの前に横付けするようになって、さすがに女主人は世間体を気にした。
「ミスター・サイトー、ここは酒場じゃないんですよ!」
そんなふうに小言をいわれ、せっかくの苦肉の策も諦めざるを得なかぅた。
(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)
(平成29年2月6日 追記)
【朝鮮総督】
平民総督
朝鮮総督府官制は明治43年、日韓併合の際に制定されたもので、総督は陸・海軍大将を充てるなど武官統治が敷かれていた。
大正8年(1919)8月12日、斎藤は長谷川好道にかわって第3代(初代は寺内正毅)の朝鮮総督に、水野錬太郎は山県伊三郎(山県有朋の養子)の後任として政務総監に就任した。
9月1日朝、斎藤一行を乗せた新羅丸は釜山港に着いた。
東京日日新聞は2日付で、「平民総督の乗込」の見出しで、次のように報じている。
「斎藤新総督一行の朝鮮入りは、その第一歩において好印象を与えたようである。桟橋に出迎えた数千人の朝鮮人は、制服いかめしい海軍大将の新提督を迎えるものと思っていたが、総督・政務総監ともに瀟洒しょうしゃなフロックコートでニコニコとして出迎えの官民に挨拶、当地の有力朝鮮人らはすこぶる感激した態度で、衷心ちゅうしんより敬意を捧げたようである」
その温厚な顔と謙虚な態度は、いかにも平民的であったらしい。
平民総督という呼称は、新聞社の造語ではあるが、平民宰相と呼ばれた原敬首相を念頭に入れて命名したことはいうまでもない。
暗殺未遂事件
9月2日、午前7時、一行は釜山駅を出発し、京城(日韓併合のとき漢城を改称。ソウルの旧称)をめざした。
午後5時、京城・南大門駅に到着、駅頭には二頭立ての馬車が用意されており、斎藤夫妻はゆっくりと乗り込んだ。
伊藤武彦秘書官がそのあとに続き、向かい合って腰かけた。
車輪が回ったほとんど同時に、群衆の間から黒いものが投げ込まれた。
それは英国式手榴弾だったが、それと気づいたものは少なかった。
手榴弾は夫妻の乗った馬車の下に転がり込んだが、間一髪、馬車が走り出した後だったため、路上で炸裂した。
新総督夫妻をカメラに納めようと馬車の近くにいた記者やカメラマンが弾片を浴びて血に染まり、ほかにも路上で、もがいている者が多数あった。
駅前は騒然となり、群衆はパニック状態になった。
夫妻は何ともなかったが、後ろに続いていた水野夫妻の馬車に被害が出ていた。
御者が負傷し、馬もまた足をやられていた。
この爆弾事件では、馬車に乗った一行に怪我はなく、死者も出なかったが、馬車を取り巻いていた報道陣や出迎えの関係者を中心に20人以上の負傷者を出す惨事となった。
爆弾を投げた犯人は、姜宇奎きょううけいといい、早くから独立思想を抱いていた長老派キリスト教信者で、66歳になる老人だった。
判決文によると、姜宇奎は明治43年の日韓併合に憤慨して朝鮮を去り、中国吉林省および東部シベリアなどを放浪した。
大正6年には吉林省の朝鮮人集落において私立光東学校を設立し、子弟の教育に従事しながら青年らに独立思想をこ鼓吹した。
この年(大正8年)3月、3・1独立運動に呼応して示威行動を起こし、5月末にはウラジオストクにおいて、長谷川好道総督にかわって新総督が来任することを聞きつけた。
暗殺を決意した姜宇奎は、ロシア人から買い入れていた英国式手榴弾を股間に隠し持つと、ウラジオストクから元山に上陸して京城に潜入した。
暗殺が成功したときは、その場において自作の詩を高唱するつもりだったが、失敗に終わったため、そのまま宿舎へ帰った。
その後、転々と宿を変えていたが、9月17日に逮捕され、翌9年2月25日、京城地方法院において公判に付せられた。
4月16日に京城覆審法院において死刑が確定し、11月29日、西大門刑務所において処刑された。
斎藤は在任中、誰にももらさず自分の命を狙った犯人の遺族に金を送り続けた。
そのことがわかるのは斎藤の死後である。
(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)
(平成29年2月6日 追記)
斎藤内閣 |
【昭和7年(1932年)5月26日〜昭和9年(1934年)7月8日】
「挙国一致内閣」「スローモー内閣」
昭和7年6月1日、第62臨時議会の開院式が行われ、3日、新首相に就いた斎藤實は両院で施政方針演説を行った。
斎藤内閣は、政友会・民政党の二大政党をはじめ、貴族院など各界の協力を仰いで組織されたことから「挙国一致内閣」と呼ばれる。
それとはべつに、「スローモー内閣」の異称も与えられている。
温厚な斎藤の姿勢が、ともすれば鈍重なイメージを与えたことからつけられたと思われる。
(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)
(平成29年2月8日 追記)
五相会議
斎藤実内閣は国策決定にあたって、政党を除外した五相会議によって検討を進めて行った。
これは、昭和9年度予算編成にあたって、外交と国防の調整をはかる必要があるとの高橋是清蔵相の意見があり、新たに外相となった広田弘毅が協調外交を唱えたので、新しい国策検討を迫られたのである。
五相会議は昭和8年10月に5回開かれた。
斎藤首相、高橋蔵相、広田外相、荒木貞夫陸相、大角岑生みねお海相がメンバーである。
この五相会議で荒木陸相が陸軍国防計画を、大角海相が海軍拡充計画を持ち出した。
しかし高橋蔵相は財政上から荒木陸相の国防計画を一蹴し、広田外相も協調外交の立場を主張した。
荒木は革新グループから推されていたが、面目を失い、やがて病気を理由に陸相を辞した。
高橋蔵相は陸軍の国防計画を潰したことで陸軍から憎まれ、2・26事件で皇道派将校の襲撃のターゲットにされることになる。
斎藤内閣が政党を除外して五相会議で国策審議をはじめたことは、政党にある種の危機感を抱かせ、昭和8年10月、政友会の鳩山一郎、久原房之介、望月圭介などが民政党の富田幸次郎、俵孫一と政民連携交渉を始めた。
政民連携の目標はファッショ排撃、議会政治擁護、政党信用の回復などであった。
政民連携の具体的な形は示されなかったが、両党はそれぞれ、議会政治擁護、ファッショ排撃の声明を出した。
(参考:渡邊行男 著 『中野正剛 自決の謎』 葦書房 1996年初版)
(平成29年1月31日 追記)
【葬儀】
昭和11年(1936年)3月2日、斎藤實の密葬が自邸においてしめやかに営まれ、遺骸は幡ヶ谷火葬場で荼毘に付された。
3月22日、東京築地本願寺において、斎藤の本葬儀が営まれた。
遺骨は分骨のうえ、多摩墓地と郷里の水沢(当時は水沢町)とに埋められることになった。
3月24日の夜、遺骨を乗せた列車は上野を発ち、水沢へ向かった。
途中、仙台、一関では特別に霊柩車の扉を開いて、大勢の焼香を受けた。
水沢に着いた遺骨は生誕地でもある吉小路の自邸に入り、26日に水沢小学校講堂において葬儀が営まれた。
会葬者はひきもきらず、その長い列は夕刻まで続いた。
当時の水沢の人口は1万人ほどであったが、4万人近くもの人たちが参列したといわれる。
(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)
(平成29年2月8日 追記)
従一位大勲位子爵齋藤實墓 (岩手県奥州市水沢区真城・小山崎墓地) (平成21年11月8日) |
故内大臣海軍大将子爵齋藤實公碑 (岩手県奥州市水沢区真城・小山崎墓地) 齋藤子爵記念會建之 (平成21年11月8日) |
故内大臣海軍大将子爵齋藤實公碑
内府公薨去ノ年有志相謀リ故齋藤子爵記念事業會ヲ組織シ以テ公ヲ不朽ナラシメントス
乃チ銅像ノ鋳造シ傳記ヲ編纂シ更ニ記念碑ヲ建立センコトヲ議決シ碑文ヲ予ニ徴ス
予之ヲ會長ニ承ク不文ヲ以テ■スヘカラス按スルニ公諱ハ實皐水ト■ス
齋藤氏陸中水澤ノ人家世留守氏ニ仕フ
■諱ハ耕平妣阿部氏公ハ其長子ナリ
安政五年十月二十七日ヲ以テ生ル
明治六年海軍兵學寮ニ入リ十五年海軍少尉ニ任セラル
十七年米國公使館附ト為リ十九年欧洲ニ出張ス
二十一年海軍省ニ出仕シ■務ニ参與ス
二十七年侍従武官ニ轉シ尋テ臺湾ニ出征シ功ヲ以テ功四級金鵄勲章ヲ授ケラル
三十一年海軍大佐ヲ以テ海軍次官ニ任セラル
日露役起ルヤ鋭意軍務ニ鞅掌シ功ヲ以テ功二級金鵄勲章及勲一等旭日大綬章ヲ授ケラル
卅十九年海軍大臣ニ任セラレ四十年特ニ華族ニ列シ男爵ヲ授ケラル
大正元年海軍大将ニ任セラレ幾モ無ク病ヲ以て骸ヲ乞ヒシモ允サレス 勅語ヲ賜ヒ匪躬ノ節ヲ效スヘキヲ諭サル
八年朝鮮総督ニ任セラレ赴任ニ當リ二タヒ 勅語ヲ拜ス
十三年旭日桐花大綬章ヲ授ケラレ十四年子爵ヲ陞授セラル
十五年正二位ニ叙セラル
昭和二年瑞西國壽府ニ於ル海軍軍備制限會議全権委員ヲ命セラレ會議ニ■ミ特ニ重ヲ為ス
歸朝スルヤ三タヒ 勅語ヲ賜ヒ其勞ヲ賞セラル
尋テ枢密顧問官ニ任セラレ四年再ヒ朝鮮総督を拜ス
七年内閣総理大臣兼外務大臣ニ任セラレ又文部大臣を兼又十年内大臣ニ任セラル
明年二月二十六日禍不測ニ生シ■焉トシテ長逝ス享年七十九
聖上震悼シ給ヒ特旨ヲ以テ従一位大勲位ニ叙シ菊花大綬章ヲ授ケラル
更に 勅使を其邸ニ遣ハサレ■ヲ賜フ
配仁禮氏子無シ豊川氏ノ子齋ヲ養ヒテ嗣ト為ス
公躯幹豊偉深沈ニシテ大度アリ
荐ニ文武ノ顕要ヲ■身ヲ以テ邦家ノ安危ニ繋ク
其ノ朝鮮統治ニ膺ルモノ前後十二年勵精治ヲ圖リ八道ノ民ヲシテ皆玉花ニ歸セシム
晩年時局ノ多事ナルニ會フヤ尤モカラ■濟二盡シ心ヲ輔弼ニ效ス
而モ一朝難ニ罹ル洵ニ■惜スヘキナリ
■ニ公カ閲歴ノ■慨ヲ叙シ之ヲ貞aニ勒シ以テ永世ニ傳フト云フ
昭和十五年五月
従二位勲一等伯爵児玉秀雄撰
正四位勲三等工藤壮平書
(碑文より)
斎藤家墓所 (岩手県奥州市水沢区真城・小山崎墓地) (平成21年11月8日) |
斎藤實 生誕150年記念事業 最後の留守家臣 齋藤 實 薩摩おごじょと歩んだ激動の時代 |
特別展の開催によせて
齋藤實は、安政5年(1858)、幕末の動乱のなかで、現在の奥州市水沢区吉小路に生まれました。
胆沢県庁の給仕をふりだしに、海軍大臣、朝鮮総督、内閣総理大臣、内大臣を歴任、昭和11年の2・26事件で凶弾に倒れ79歳の人生をとじています。
天賦の才を発揮した後藤新平とは対照的に、齋藤實は温和、誠実、実直を信条とした人物と言えます。
内閣総理大臣時代には、「スローモー」や「べご」と揶揄されましたが、粘り強さを流儀に、混迷する時代に立ち向かいました。
深刻な恐慌状態にある農村救済では、『自力更生』を掲げた精神的運動も展開しています。
また、「故郷忘難」の言葉を残し、こどもたちの教育のために吉小路齋藤邸にレンガ造りの書庫を建設する一方、旧主留守家への爵位授与をはたらきかけるなど、「故郷」に対する強い想いをもっていました。
今回の特別企画展「最後の留守家臣齋藤實/薩摩おごじょと歩んだ激動の時代」は、昨年の「後藤新平展/TOKYOを創った奥州人」に続いて、後藤新平・齋藤實生誕150年記念事業の一環として開催するものです。
激動の時代を生きた齋藤實と春子夫人の歩みにふれながら、改めて、奥州市の郷土づくりに想いを馳せていただければ幸いです。
後藤新平・齋藤實生誕150年記念事業実行委員会
会長 奥州市長 相原 正明
特別展 (岩手県奥州市水沢区・ショッピングシティ「メイプル」特設会場) (平成21年11月7日) |
齋藤實・仁禮春子 ふたりの出会い |
齋藤實は、安政5年10月27日、留守家臣齋藤耕平の長男として、水沢吉小路で誕生した。
齋藤家は留守家譜代の家臣で、第9代の勘左衛門が家老、父は目付、小姓頭を務めた。
この齋藤家の嫡子として、實は厳格に育てられたが、10代初めの多感な少年期に、戊辰戦争や水沢城の明け渡し、家臣の離散を目の当たりにすることとなる。
明治2年、胆沢県地元雇員となった旧留守家臣の吉田種雄や澤邊綾之丞などの推薦で、留守家臣の子弟が県庁諸官の書生となった。
権知事・武田亀五郎についた竹下権三郎、大参事・安場保和についた後藤新平、権少属・祖父江についた餘目新次郎などで、齋藤實は小参事・野田豁道の書生となった。
その翌年、實は胆沢県庁の給仕に採用されたが、明治5年には水沢県の誕生でお役御免となり、嘉悦大参事などに従い上京。
内田春吉、福島常定と東京出張所で暮らした。
東京出張所時代の明治6年、實は陸軍幼年学校の入学試験を受けるが官費生からはずれたため辞退、海軍兵学寮に入学した。
齋藤實が世に出る契機であり、仁禮春子と出会い激動の時代を歩む始まりでもあった。
仁禮春子は、薩摩藩士・仁禮景範の長女として、明治6年3月30日、東京で誕生した。
明倫女学校、カナダの宣教師ミス・カートメルが設立した東洋英和女学校で学んだ才女で、8歳の時、母とともに天皇、皇后の御機嫌伺いに参内、昭憲皇后からカンザシなどを拝領した。
父景範は、慶応3年に藩命によりアメリカに留学した人物で、海軍兵学校校長、中艦隊司令官、海軍軍事参謀本部長などを歴任、海軍中将、第2次伊藤内閣では海軍大臣に就任した。
娘を嫁がせ、齋藤實の後ろ盾となった人物である。
明治5年水沢県東京出張所居住の齋藤實 左から福島常定・齋藤富五郎(實)・内田春吉 (展示写真より) |
新婚の齋藤實夫妻 (展示写真より) |
朝鮮総督時代の齋藤實夫妻 (展示写真より) |
齋藤實夫妻の生涯 |
齋藤實と春子は、明治25年(1892)2月5日、山本権兵衛の媒酌で挙式をあげ、昭和11年の2・26事件で實が凶弾に倒れるまでの45年をともに歩んだ。
この間、齋藤實は、乗艦勤務から、海軍次官、海軍大臣、朝鮮総督、内閣総理大臣、内大臣を歴任した。
その大半を職業軍人として海軍に身を置き、朝鮮総督時代には、海軍補助艦制限に関するジュネーブ海軍軍縮会議に首席全権委員として参加している。
5・15事件の犬養毅首相暗殺を受けた首班指名で、昭和天皇の希望が侍従長から元老西園寺公望に伝えられた。
「思想や人格が立派なもの」、「現在の政治の弊害を改善し、陸海軍の軍規を振粛するは一に首相の人格如何による」、「国際平和を基礎とし国際関係の円滑に努めること」などで、適任者として、齋藤實が選ばれた。
齋藤實の生涯で夫人の存在は大きく、特に、春子夫人の洋装と東洋英和女学校で学んだ英語力が、「夫人外交」として夫を助けたことが広く知られている。
【海軍兵学寮・アメリカ留学・乗艦時代】 明治6年(1873)〜明治26年(1893) 實16〜36歳・春子1〜21歳 |
齋藤實の原点となった海軍兵学寮は、明治2年(1869)築地の旧広島藩邸跡に海軍操練所として誕生、明治3年に海軍兵学寮と改め、明治9年(1876)には海軍兵学校と改称された。
兵学寮の教官はイギリスから派遣され、生徒と生活をともにした。
教科書はもちろん、授業はすべて英語で行われた。
實はここで予科2年、本科3年の5年間、英語、漢学、数学のほか馬術、体術、水泳、航海学、砲術、造船術、蒸気機関学、兵学、医学などの専門教育を受けた。
明治6年(1873)に入学した實は、英語をまったく解さなかったが猛勉強でこれをマスターし、明治12年、総合成績3位で卒業している。
このときの兵学校長が、のちの岳父となる仁禮景範であった。
また、練習艦に同姓同名の水夫がおり、明治8年(1875)、富五郎から實に名前を改めた。
明治17年(1884)4月、4年間の米国派遣を命じられた。
同年9月には米国公使館付武官に任命され、訪米する政官財界要人の案内や通訳・用務援助などにあたった。
海軍大臣西郷従道のヨーロッパ視察では通訳に抜擢され、7ヶ月にわたりイギリスやフランスなどを巡り、国際感覚を磨くこととなった。
海軍兵学校時代の齋藤實(明治11年) (展示写真より) |
アメリカ留学時代の齋藤實(明治17年〜18年) (展示写真より) |
明治19年パリ滞在中の齋藤實(左) 海軍大臣西郷従道ヨーロッパ視察随行時 |
【侍従武官・海軍次官・海軍大臣時代】 明治27年(1894)〜大正3年(1914) 實37〜57歳・春子22〜42歳 |
アメリカ留学から帰国しておよそ3年後の明治25年(1892)、齋藤實(35歳)は海軍の重鎮である仁禮景範の娘、15歳年下の春子と結婚した。
媒酌人は海軍の大御所として名声が高かった山本権兵衛、出席者12人という質素な婚礼であった。
昔堅気で生粋の質実剛健を重んじる薩摩の武家気風による寿賀子夫人の采配によるといわれる。
結婚間もない實は、乗艦勤務が多く、日清戦争では侍従武官として広島大本営に赴任した。
その後も巡洋艦『和泉』の副長、常備艦隊参謀を歴任した。
明治30年(1897)には、イギリスで建造され日露戦争の主力戦艦となる日本初の鋼鉄戦艦『富士』の副長として、横須賀軍港に回航した。
そのよく年には、海軍大臣山本権兵衛のもと、海軍次官に就任する。
少将や中将が就任する慣例のなか、大佐になったばかりの實の異例な抜擢は、山本権兵衛と仁禮景範の實びいきとうわさされたが、その後の活躍が実力を認めさせていく事となる。
山本大臣を補佐する實は、大臣代理として様々な行事に出席することが多く、同伴する春子夫人の洋装と英語が海軍次官の夫を助けた。
日露戦争の折には、諸外国に開戦を知られないよう、御前会議を途中退席し春子夫人同伴で晩餐会に出席したというエピソードも残されている。
明治39年(1906)、實は第1次西園寺内閣で海軍大臣に就任する。
その後、第2次桂内閣、第2次西園寺内閣、第3次桂内閣、第1次山本権兵衛内閣の5代、8年3ヵ月の間、海軍大臣を務めた。
富士艦上の齋藤實(前列右) 明治29年11月、イギリスで製造中の富士回航委員となる (展示写真より) |
明治38年頃の海軍(前列右から二人目が齋藤實) |
【朝鮮総督・ジュネーブ軍縮会議】 大正8年(1919)〜昭和6年(1931) 實62〜74歳・春子47〜59歳 |
朝鮮総督府は、明治43年(1910)日韓併合による朝鮮統治のために設置され、伊藤博文が初代総督(韓国統監)を務めた。
齋藤實は第3代(大正8年〜昭和2年)、第6代(昭和4年〜昭和6年)の2度、総督を務めた。
齋藤實が総督に就任する直前、大正8年(1919)3月1日に朝鮮独立運動(三・一独立運動)が起こり、弾圧と軍政による「武断政治」から融和的な「文化政治」に政策が転換されることとなった。
この重要な時期に、海軍出身者として最初で最後となる穏健派の齋藤實が、首相原敬の要請を受けて総督に就任した。
朝鮮に赴任した齋藤夫妻を出迎えたのは、京城・南大門駅の爆弾事件だった。
朝鮮の独立運動家が新総督を狙ったものだが、齋藤は、キリスト教学校への待遇改善や朝鮮語での教育、京城帝国大学設立、朝鮮日報、東亜日報の創刊など、特に文化、教育に力を入れ「文化政治」を進めた。
春子夫人も、地方の民情を視察する齋藤に同伴することが多かった。
キリスト教宣教師とも積極的な交流を図り、大正11年5月、ローマ法王から『グラン・クロア・サン・シルベストル』勲章が齋藤に贈られた。
朝鮮総督在任中の昭和2年には、首席全権委員としてジュネーブ海軍軍縮会議に参加した。
会議はアメリカとイギリスの対立で決裂したが、調整案を示し調停の立場をとった齋藤に対する評価は高く、「国際人齋藤」を内外に知らしめる場となった。
その陰に、英語に堪能で各国代表や同伴の夫人と交歓する春子夫人の存在があった。
ジュネーブ軍縮会議風景 (正面右/齋藤實) |
ジュネーブ軍縮会議後の帰郷 (昭和2年水沢停車場前) |
【内閣総理大臣】 昭和7年(1932)〜昭和9年(1934)7月 實75〜77歳・春子60〜62歳 |
齋藤實は、昭和7年(1932)5月26日、第30代内閣総理大臣に就任、外務大臣を兼任した。
犬養毅首相が海軍急進派の青年将校たちに暗殺された5・15事件で混迷するなか、齋藤實に後継首相の大命が下された。
世界恐慌の余波を受け株式や生糸、鉄鋼、農産物などの商品市場が暴落し企業倒産や失業者の急増するさなかのことであった。
東北・北海道では、昭和6年から9年の冷害で凶作となり、借金による「女子の身売り」、「欠食児童」が社会問題となった。
昭和6年には関東軍の暴走による満州事変が勃発し、軍事費の増大に伴う膨大な赤字公債発行などの財政問題、国際的な非難と孤立化の外交問題へと発展した。
そのうえ、軍部や右翼が政党内閣打倒、親英米派の元老西園寺公望など天皇側近を排除し軍中心の内閣樹立と政策転換を目指すファシズムが台頭するさなかのことであった。
犬養首相の後継として、元老西園寺公望が白羽の矢を立てたのが75歳の齋藤實であった。
政党内閣の継続に軍部が強く反対するなかで、軍部が正面切って反対できない人物として、海軍の中でも条約派に属する良識人、英語も堪能な国際派、さらに、東北人特有の粘り強さ、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さを備えた齋藤實しかいなかったのである。
このとき、昭和天皇は、侍従長鈴木貫太郎をして元老西園寺に自らの希望を次のように伝えていた。
『首相は人格の立派なるもの。現在の政治の弊を改善し、陸海軍の軍紀を振粛するのは、一に首相の人格如何による。協力内閣、単独内閣等は敢へて問ふところにあらず。ファッショに近きものは絶対に不可なり。憲法は擁護せざるべからず。しかざれば明治天皇に相済まず。外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑に務むること。』などであった。
「挙国一致内閣」を組織した齋藤實は、積極財政による内需拡大と輸出増進を図り、不況で疲弊した農山村の救済を目的に、農業土木事業を主に「時局匡救事業」を推進した。
多額の借金に苦しむ農家に現金収入の道をもたらすとともに、雇用を拡大する日本版「ニューディール」政策であったが、多額の予算を必要とする財政的な問題を抱えた。
このため、自助努力を促す精神運動として「自立更生」を掲げ、内閣誕生直後の7月6日、自らラジオ放送し国民に訴えた。
この農村救済事業は一定の成果をみたが、国内政治の安定を重視し軍部との決定的な対立をさけたため、満州国承認、絹絲株式会社の株売買をめぐる疑惑(帝人事件)で総辞職においこまれるが、後継首相選出にあたって、齋藤實はしたたかな一面をみせている。
戦前の制度では前任者が後継首相を選ぶことは至難のことだったが、齋藤は穏健派の岡田啓介を後継指名する布石を打ち実現させた。
親任式後の齋藤内閣閣僚 (展示写真より) |
昭和9年江刺稲瀬小学校訪問の齋藤實 (高橋政三氏蔵) (展示写真より) |
【大日本少年団連盟総長・内大臣】 昭和10年(1935)〜昭和11年(1936) 實78〜79歳・春子63〜64歳 |
日本にボーイスカウト運動が伝えられたのは明治41年(1909)だった。
その13年後の大正11年(1922)4月13・14日、第1回全国少年団大会が静岡で開かれた。
この大会で、ボーイスカウト、各地の子供会、宗教少年部、日曜学校少年団などを総合した「少年団日本連盟」が、後藤新平を初代総長に発足した。
昭和4年(1929)に後藤新平が亡くなってからは、総長不在となり、昭和7年から前総長の竹馬の友・齋藤が相談役となり、首相就任後も少年団の祝賀会に出席していた(齋藤實日記)。
この年の新嘗祭には北白川宮殿下を迎え連盟旗授与式が行われている。
「大日本少年団連盟」と改称した連盟は、昭和10年6月2日、齋藤實を第2代総長に迎えた。
首相辞任の翌昭和10年(1935)12月26日、齋藤實は内大臣に任命された。
内大臣は、天皇の行為や決定に関する進言(輔弼)、御璽(天皇印)・国璽(国印)の保管、詔書・勅書などの事務を扱った。
国際感覚を持ち良識人である齋藤實は、およそ軍人らしからぬ軍人であったため、その裏返しに、齋藤への評価は天皇側近のグループからはきわめて高かった。
西園寺公望の談話、牧野伸顕の日記では齋藤への高い信頼が語られており、内大臣、宮内大臣、侍従長交替のおりには度々候補にあげられた。
齋藤實の内大臣起用は、宮中にとって大正末以来の既定路線であったといわれる。
ボーイスカウト2代総長齋藤實 (展示写真より) |
大日本少年団水沢団員と齋藤實 (昭和10年9月 吉小路齋藤邸) (展示写真より) |
江刺・千葉家訪問の齋藤實(昭和10年) (展示写真より) |
秋田県増田小学校訪問の齋藤實(昭和10年) (展示写真より) |
昭和10年水沢商業学校訪問の齋藤實 |
【2・26事件】 昭和11年(1936)2月26日 實79歳・春子64歳 |
昭和11年(1936)2月26日、青年将校らが1,483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げてクーデター未遂事件を起こした。
この事件で、内閣総理大臣岡田啓介、大蔵大臣高橋是清、内大臣齋藤實、侍従長鈴木貫太郎、陸軍教育総監渡辺錠太郎、元内大臣牧野伸顕、内務大臣後藤文夫が襲撃され、齋藤實、高橋是清、渡辺錠太郎のほか警備の警察官などが殺害された。
齋藤邸襲撃部隊の坂井直中尉は、高橋太郎少尉、安田優少尉に対し、春子夫人は機関銃の筒先をもち、「齋藤の命は国家に捧げた者です。時期が来ればさしあげます。まだその時ではありません。齋藤を撃つなら私を殺してください。」と叫び続けたという(読売新聞3月23日号外)。
このとき夫をかばった春子夫人も、両手と背中を撃たれた(入間野日記)。
實のなきがらは3月2日荼毘にふされ、3月22日築地本願寺での本葬後、水沢葬儀が3月26日に行われた。
遺骨は、東京の多摩霊園と水沢大林寺墓地に分骨され、朝鮮に遺髪が眠っている。
昭和11年3月22日読売新聞号外 | 昭和11年2月27日東京日日新聞 |
銃弾貫通の鏡(事件後の四谷齋藤邸の寝室) (展示写真より) |
(参考・引用:展示資料目録)
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