滋賀県大津市下阪本
平成17年4月9日
北大津湖岸緑地(坂本城跡)
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「坂本城址」の碑 (滋賀県大津市下阪本3丁目7番) (平成17年4月9日) |
坂本城跡
大津市下阪本
織田信長配下の明智光秀あけち・みつひでは、山門焼き打ち直後の元亀2年(1571)、下阪本の湖岸に大天主と小天主をもつ水城みずじろを築きました。
当時来日していた宣教師ルイス・フロイスはこの坂本城を、のちに築城される天下の名城安土城についで豪壮華麗ごうそうかれいな城と述べています。
坂本城築城の目的には、山門の監視ばかりでなく、近江の反信長勢力、特に浅井あざい・朝倉あさくら軍に対する前戦基地や、彦根の佐和山さわやま城とともに、信長の領国美濃と京都の往還おうかん(ゆきかえり)の確保などがあげられます。
この城は、天正10年(1582)6月の山崎の合戦ののち焼失しますが、丹羽長秀にわ・ながひでによって再建され、同14年頃、城が大津(大津城)に移るまでこの地にありました。
昭和54年(1979)に実施された発掘調査では、焼土中から城の施設の一部とみられる建物の礎石や石組の井戸・池・溝・石垣の基礎石などが検出されています。
大津市教育委員会
昭和59年11月
(説明板より)
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旧大道町 (滋賀県大津市下阪本) (平成17年4月9日) |
天正14、5年(1586、7)ころ、坂本城が廃されて大津へ移転。
その跡地の堀を埋めて北国に通じる大道だいどうをつくったことからきた町名と伝えられます。
なお、町は南北二町から成っており、またこの道は江戸時代、西近江路にしおうみじ(北国海道ほっこくかいどう)として交通の要路でした。
(「旧大道町」道標の説明銘板より)
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坂本城本丸跡 (株)キーエンス研修所の入口に説明碑が建っています。 (平成17年4月9日) |
坂本城本丸跡
坂本城は、元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの後、明智光秀により東南寺川河口に築かれた水城としてよく知られている。
天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査ではじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。
大津市教育委員会
(碑文より)
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明智光秀像 (北大津湖岸緑地=坂本城跡) (平成17年4月9日) |
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