千葉県佐倉市城内町
(平成18年8月30日)
佐倉城址
佐倉城は印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を外堀そとぼりとし、台地上に土塁どるいを加えて築城した平山城ひらやまじょうで、石を用いていない。
戦国時代のなかごろ、千葉氏の一族鹿島幹胤かしまみきたねによって初めて築かれたと伝えられ、別に鹿島山城とも呼ばれた。
千葉邦胤ちばくにたねもここに本城を移そうとしたがなかばにして果たさず、のちに徳川家康がその要害ようがいに着目し、土井利勝どいとしかつに命じ慶長けいちょう16年(1611)正月から7年間をついやし、元和げんな3年(1618)ごろに完成した。
以来、徳川幕府では江戸のまもりとして老中格の譜代の諸侯九氏を封じた。
延享えんきょう3年(1746)山形から堀田氏が再び移封し、六世126年間11万石を領有して明治維新に及んだが、明治6年(1873)第一軍管第二師営の営所が置かれ城の施設はことごとくこわされた。
その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった。
(説明板より)
家康、土井利勝に築城を命ず |
戦国末期に千葉氏は小田原北条に従属した関係にあり、秀吉の小田原攻めと同時に千葉氏の居城本佐倉城も落城、千葉一族は壊滅四散します。
やがて関ヶ原合戦の後家康が江戸に開府し、本佐倉には家康の五男武田・六男松平などが入封、続いて老中土井利勝が入ります。
利勝は家康・秀忠・家光の三代に側近として仕え、徳川幕藩体制の基礎を固めた智略の人として知られます。
利勝は家康の命により、築城半ばで当時廃城となっていた戦国期の鹿島城跡に、慶長16年(1611)近世佐倉城の築城に着手し、6年余でほぼ完成したと伝えられています。
築城に当たり家康は、この城の要害堅固さに、天下の名城たらんと督励した由。
利勝は24年間在位し、その後古河藩に転封して大老の職に上りました。
老中の居城 |
以来佐倉城は、江戸城を囲む関東東域の諸国や海上の動静を窺う拠点城となり、西の小田原や北の川越などと共に江戸城を取り巻く要衝として、徳川譜代の有力大名が次々と封ぜられます。
このなかには幕府の老中職についた重要人物が多く、その数は徳川各藩中最多を数えます。
そのようなことで俗に老中の城などといわれます。
佐倉城の構造 |
佐倉城は、北に広大な印旛沼を控え、鹿島川高崎川を眼下に見下ろす鹿島台地に位置し、周縁には急崖とこれに添った水堀を廻らし、西南域の崖下には深い湿地帯が連なる後堅固の城と言われ、天然の要害を巧みに取り入れ極めて理論的に縄張された近世城郭の一典型で、房総随一の規模を持つ城です。
本丸は城郭西南端部に位置し、三層天守・銅櫓・角櫓・400畳余の本丸御家形おんやかたが一の門・台所門などと共に配置され周囲土塁が瓦塀で廻らされていました。
本丸から東へ二の門・三の門・大手門をほぼ一直線上に、北方へは城米不明門あかずもん・椎木門・田町門(搦手からめて)、佐倉道(江戸海道)口に鹿島橋門など9つの城門を配備し、本丸までは4層5重の深い空堀・土塁、馬出し・枡形等で防御を堅めました。
(冊子『ぶらり総州佐倉城』より)
大手門跡(追手門) (佐倉市立佐倉中学校前) (平成18年8月30日) |
大手門跡(追手門)
大手門は惣曲輪の表門。
この門の西側には広小路、中下町、大下町といった武家屋敷地が整備され、三の丸御殿、会所なども置かれていた。
中央に広小路の通りと重臣屋敷の塀が写されている。
(説明板より)
三の門跡 (佐倉城址公園) (平成18年8月30日) |
(説明板より)
三の門跡
北面、木造、本瓦葺ほんかわらぶき、二階造り、梁間三間はりまさんけん、桁行六間けたゆきろっけん
この門は御作事おさくじの諸道具を入れた倉庫として使われ、門内は三の丸といい、家老屋敷かろうやしきが置かれていた。
(説明板より)
二の門跡 (佐倉城址公園) (平成18年8月30日) |
(説明板より)
二の門跡
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行八間
本丸から大手門にいたる第二の門で「二の御門」と呼ばれていた。
一の門の東方一直線上にあたり、武器庫として使用された。
門内は二の丸といい、藩政を執とる役所が置かれていた。
(説明板より)
一の門跡 (佐倉城址公園) (平成18年8月30日) |
(説明板より)
一の門跡
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間四間、桁行八間
本丸からみてはじめての門で「一の御門」と呼ばれていた。
門内は本丸といい、天守閣、銅櫓どうやぐら、角櫓すみやぐら、御殿ごてんが置かれ、御殿の前庭には金粉をすりこんだ栗石が敷かれていたと伝えられている。
(説明板より)
本丸跡 (佐倉城址公園) (平成18年8月30日) |
夫婦モッコク (佐倉城址公園・本丸跡) (平成18年8月30日) |
千葉県指定天然記念物 佐倉城の夫婦モッコク
昭和27年11月3日指定
モッコクは清澄山より東海道以西、四国、九州の近海地に自生する小喬木きょうぼくである。
本樹は、もともと二株植えられたもののうち、一株が夫婦モッコクとなったものか、三株寄植えしたもののうち二株が癒合ゆごうしてできたものか、明らかでない。
樹高11.6メートル、目通り幹囲2.6メートルで、モッコクとしては巨木である。
佐倉城の築城については、「土井利勝が慶長16年(1611)から元和3年(1617)まで7年をかけて完成し規模こそ小さくとも本丸等に種々の庭樹を植え雄大な風格を示した」との伝えがある。
このモッコクは庭樹の一つであったと考えられている。
佐倉市松林寺境内にも巨木が所在する。
昭和57年2月11日
千葉県教育委員会
佐倉市教育委員会
(説明板より)
銅櫓跡 (佐倉城址公園) (平成18年8月30日) |
(説明板より)
銅櫓跡
木造、銅瓦葺、六間四方、二階造り。
この銅櫓どうやぐらは、土井利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築したものでもとは三層であって、太田道灌が造ったものといわれている。
(説明板より)
太田道灌と銅櫓 |
徳川実記寛永6年6月6日の条に、江戸城山里曲輪の新庭造営を小堀遠州に命じた折、御茶室鎖間近くにあった三層楼を利勝に給わり、利勝はこれを佐倉へ運び補続して天守としたとあります。
また明治初期に書かれた佐倉城旧記には、「此(銅櫓)は江戸城吹上の庭内にありて不用となりしを、利勝に給い移ししものなり」とあり、良材を用いて驚くほど精巧に造られた古建築で、太田道灌が風雅を楽しんだ建物であったと推測し、もとは三層楼で二層に改造したと記されています。
此のようなことから道灌の江戸城静勝軒移設説が生まれたものと考えられます。
なお宝暦3年(1753)以前の作とされる古今佐倉真佐子に、「銅矢倉二重なり、本丸の後西の方にある金蔵也。不残銅かわらなり」とあり、明治初期に解体中の二層銅櫓の写真が現残します。
(冊子『ぶらり総州佐倉城』より)
椎木しいき門跡 (佐倉城址公園) (平成18年8月30日) |
(説明板より)
椎木門跡
北面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行七間。
前面に馬出しが設けられていた。
(説明板より)
馬出し空濠 (佐倉城址公園・国立歴史民俗博物館脇) (平成18年8月30日) |
馬出し空濠
城門前に築いて人馬の出入りを敵に知られぬようにした土手が馬出しであります。
この空濠は、明治初期より連隊造営のため埋めたてられていたもので、昭和46年から2回にわたる発掘調査により、長辺121m・短辺40mのコの字型、深さ5.6mの規模と確認されました。
復元にあたっては長辺、短辺はそのままとし深さを約3mとしてあります。
(説明板より)
姥が池 (佐倉城址公園) (平成18年8月30日) |
姥うばが池
この池は江戸時代、かきつばたの名所でした。
春先には近在のひき蛙がえるが数千匹あつまり、左右にわかれて昼夜7日間、蛙かえる合戦を行なっていたと、「古今佐倉真佐子ここんさくらまさご」(江戸時代中頃の書物)に記されています。
後に(天保年間)この池のまわりで家老の娘をおおもりしていた姥うばがあやまって娘を池に落としてしまい娘はそのまま沈んでしまいました。
姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来「姥が池」といわれるようになりました。
(説明板より)
佐倉城天守閣模型 (佐倉城址公園自由広場・佐倉城址公園センター) (平成18年8月30日) |
『佐倉城天守』について
徳川幕府が江戸開府後、家康はここ鹿島山をめぐる地勢の要害に着目し、小田原城・川越城と共に、江戸の守りとして、時の領主土井利勝に命じて築城させた。
城郭の全容は、慶長16年81611)から元和3年(1617)に至る6年余りをかけて整備されたという。
関東域には石垣を持たない城が多いが、この城も同様で、土塁・空堀を多用しているのが特徴のひとつ。
全体縄張りは近世城郭の典型といえる。
天守は三層四階(初層床下の一部穴倉を含めれば五階)形式は古絵図資料等から無破風の独立式層塔型天守であったことがわかる。
層塔型は各層軒幅の上層への低減率が一定し安定した姿が持ち味。
構造的には破風飾りは本来不要とされているが、権威を誇示するために装飾的に用いられたものが多い。
利勝が自ら創建した天守建築は、佐倉城と古河城(御三階櫓と称した)の二城であるが、外観は共に無破風で質実・簡素である。
しかし規模については他城の三階櫓に比較すればかなり大きく、その棟高を現代のビルに換算すれば、7〜8階建てに匹敵する。
初層床部を半分崖上の土塁に差しかけた珍しい造りである。
破風飾りがないのは、築城の時期からみて、利勝が幕府老中として自ら関与した『一国一城令』(元和元年に発令)の城郭簡略化思想の影響によるとする説がある。
飾り破風のない天守は他にも松前城・水戸城・津城・島原城・日出城ひじじょう・小倉城(慶長期)等があるが、弘前城の本丸側から見た三層天守と松前城の天守が外観的によく似ている。
古今佐倉真砂子に『天守四重なり。一重はお隠しの由。三重に見える』とある。
文化10年(1813)失火により焼失。
以後再建されなかった。
(佐倉城址公園センターのチラシより)
藩主 | 入封年 | 在位 | 石高 | 備考 | 出来事 |
土井利勝 | 慶長15 (1610) |
24 | 142,000 | 老中 小見川より入封 |
1615年:大阪夏の陣 1616年:徳川家康没す 1630年:キリスト教関係本輸入禁止 |
石川忠総 | 寛永10 (1633) |
2 | 70,000 | 豊後日田より入封 近江膳所へ転封 |
1633年:海外渡航禁止 1634年:老中・若年寄の職定まる |
松平家信 (形原) |
寛永12 (1635) |
3 | 40,000 | 摂津高槻より入封 | 1635年:参勤交代制確立 1637年:島原の乱 |
松平康信 | 寛永15 (1638) |
3 | 36,000 | 摂津高槻へ再転封 | 1638年:初めて大老を置く 1639年:鎖国を断行 1641年:江戸大火 |
堀田正盛 | 寛永19 (1642) |
10 | 110,000 | 老中 信濃松本より入封 |
1642年:諸国飢饉 1643年:田畑の永代売買禁止 |
堀田正信 | 慶安 4 (1651) |
9 | 100,000 | 改易 幕法違反 | 1657年:江戸城本丸焼失(明暦の大火) |
松平乗久 (大給) |
寛文 1 (1661) |
18 | 60,000 | 上野館林より入封 肥前唐津へ転封 |
1662年:西日本大地震 1668年:江戸大火・倹約令 1669年:西日本洪水 1670年:東海道・関東洪水 1674年:諸国飢饉 |
大久保忠朝 | 延宝 6 (1678) |
8 | 93,000 | 老中 肥前唐津より入封 相模小田原へ転封 |
1678年:諸国暴風雨 1681年:江戸府内に貧民多し |
戸田忠昌 | 貞享 3 (1686) |
14 | 71,000 | 老中 武蔵岩槻より入封 |
1687年:『生類憐れみの令』発布 1698年:江戸大火 |
戸田忠真 | 元禄12 (1699) |
2 | 67,800 | 越後高田へ転封 | 1700年:新田の開発盛んとなる |
稲葉正通(正往) | 元禄14 (1701) |
2 | 102,000 | 老中 越後高田から入封 |
1702年:赤穂義士が吉良を討つ |
稲葉正知 | 宝永 4 (1707) |
21 | 91,000 | 山城 淀へ転封 | 1707年:諸国大地震・富士山噴火 1711年:江戸大火 1721年:目安箱設置 江戸大火 1722年:上米の制(参勤交代緩む) |
松平乗邑のりさと | 享保 8 (1723) |
23 | 70,000 | 老中 山城 淀より入封 |
1723年:足高の制を定める 出羽幕領一揆 1724年:倹約令 1729年:東国で疫病流行 1732年:大飢饉 1742年:公事方御定書を定める 関東大水害 1743年:甘藷栽培奨励 1744年:倹約令 |
松平乗佑 | 延享 2 (1745) |
1 | 60,000 | 出羽山形へ転封 | |
堀田正亮まさすけ | 延享 3 (1746) |
15 | 110,000 | 老中 出羽山形より入封 |
1756年:米価騰貴により蓄米禁止 1757年:関東洪水・東北飢饉 1758年:宝暦事件 1760年:江戸大火 |
堀田正順まさあり | 宝暦11 (1761) |
45 | 110,000 | 1764年:倹約令停止・財政再建 1765年:関東の農民大一揆(20万人) 1767年:明和事件 1772年:田沼意次老中に就任 1773年:疫病流行 1778年:伊豆大島(三原山)噴火 1779年:大隅桜島噴火 1782年:印旛沼開墾(242万人動員) 1783年:天明の大飢饉 浅間山噴火 1786年:田沼意次罷免 江戸大火・関東大水害 1787年:松平定信老中筆頭に就任 天明の打ちこわし 1789年:棄損令 1800年:伊能忠敬蝦夷地を測量 1804年:出羽大地震 |
|
堀田正時 | 文化 2 (1805) |
6 | 110,000 | 1806年:江戸大火 1808年:江戸湾沿岸に砲台修築起工 間宮林蔵樺太探検 1810年:諸国飢饉 |
|
堀田正愛まさちか | 文化 8 (1811) |
13 | 110,000 | 1822年:西国にコレラ流行 1823年:諸国早害 |
|
堀田正篤(正睦まさよし) | 文政 8 (1825) |
35 | 110,000 | 老中 | 1825年:『異国船打ち払い令』 1829年:江戸大火 1830年:京畿大地震 1834年:水野忠邦老中に就任 1836年:天保の大飢饉 1837年:大塩平八郎の乱 1839年:蛮社の獄 1841年:水野忠邦の政治革新 1843年:水野忠邦失脚 阿部正弘老中首席に就任 1852年:近畿風水害 1853年:ペリー浦賀に来航 関東大地震 1854年:下田地震 1855年:堀田正睦老中に就任 江戸大地震(安政の大地震) 1858年:安政の大獄・コレラ流行 |
堀田正倫まさとも | 安政 6 (1859) |
12 | 110,000 | 1860年:桜田門外の変 1862年:坂下門外の変・生麦事件 1863年:8月18日の政変 1864年:長州征伐 1867年:大政奉還・王政復古の大号令 1868年:明治維新 1871年:廃藩置県 |
(冊子『ぶらり総州佐倉城』を引用・追加調製)
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