真田昌幸 さなだ・まさゆき

天文16年(1547年)〜慶長16年6月4日(1611年7月13日)


父は真田幸隆。
はじめ、武田信玄・武田勝頼に仕えたが、武田氏滅亡後、徳川家康に属する。
天正11年(1583年)信濃国上田城を築いて住んだ。
2年後、家康から上野国沼田城を北条氏直に与えるよう命を受けたが拒否し、以後、豊臣秀吉に属した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では西軍に属し、上田城に籠城して徳川秀忠軍の進軍を大いに苦しめた。
戦後、長男・信之の助命嘆願により紀伊国高野山九度山に蟄居ちっきょした。


真田昌幸



真田安房守昌幸
(長野県上田市・上田城)





(平成20年10月29日)




左:真田幸昌(大助)
右:真田幸村





(平成20年10月29日)

真田昌幸 (1547〜1611)

真田幸隆の三男として生まれる。
青年時代武田信玄に仕え、甲斐の武藤家を継ぐが、兄二人が天正3年(1575)長篠の戦いで戦死したため、真田家を相続する。
天正8年(1580)沼田城を攻略して北上州(群馬県)一帯を勢力下に入れ、さらに天正11年(1583)には上田盆地の中央に上田城を築き、初代上田城主となる。
同13年徳川の大軍に上田城を攻められたが、これをわずかな人数で守りきり、真田の名を天下に響かせた。
また、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いには、西軍に味方して再び上田城で徳川軍と交戦し、これまた撃破した。
しかし、この戦いは西軍が大敗したため、昌幸は二男信繁(幸村)と共に紀伊(和歌山県)高野山麓の九度山に配流され、この地で没した。

(説明板より)


墓碑
墓碑

(長野県長野市松代町・長国寺・松代藩主真田家墓所)

左:真田昌幸
   慶長十六年六月四日
   長國寺殿一翁千雪大居士

中央:真田幸隆
右:真田信綱

(平成20年10月27日)
真田家墓所



真田家墓所
(長野県長野市松代町・長国寺)





(平成20年10月27日)
真田家墓所



真田家墓所
(長野県長野市松代町・長国寺)





(平成20年10月27日)

史跡
松代藩主真田家墓所
国指定文化財
昭和62年12月25日指定

松代藩主真田家は元和8年(1622)、上田から松代に移封され、菩提寺長国寺も移された。
松代初代藩主信之のぶゆき始め歴代の霊屋たまやが長国寺伽藍がらんの裏(東)に建てられ、その東南の一郭に歴代の墓地が設けられた。
霊屋はもと5棟あったが、現在は信之霊屋(重要文化財)と4代信弘霊屋(県宝)の2棟が残るだけである。
3代幸道霊屋は本堂裏に移建、開山堂(県宝)になっている。
墓地は白土塀に囲まれ、歴代10代の藩主やその子女の墓碑がある。
墓碑は宝篋印塔ほうきょういんとうが21、地蔵型塔2基等で、ほかに12基の献灯がある。
信之の墓にだけ、石の鳥居がある。
ほかに真田家中興の祖で信之の祖父に当たる幸隆、伯父信綱、父昌幸、弟幸村、その子大助らの供養塔や碑がある。
信之の母、妻、歴代藩主婦人などの墓は別の寺にある。
霊屋と墓所が一体として残っていて、江戸時代の大名家墓所を知る上で貴重であるのでこの墓所をはじめとして、境内一帯が国の史跡に指定された。

平成12年3月1日
長野市教育委員会
長国寺

(説明板より)

長国寺



長國寺
(長野県長野市松代町松代1015−1)





(平成20年10月27日)

長國寺は、天文16年(1547)、真田幸隆公(1513〜1574)が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺を建立し、伝為晃運禅師(1573歿)を開山第一世に招請して、真田家の菩提寺となった。
永禄7年(1564)松尾城外に移され、本格的な禅刹として諸施設が整ったが、元和8年(1622)、上田藩主だった真田信之公(1566〜1658)の松代移封によって現在地に移転し、寺号も長國寺と改められた。
現在、曹洞宗の専門道場として認可されている。

(リーフレットより)




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