永禄9年(1566年)〜万治元年10月17日(1658年11月12日)
信濃国松代藩主。
父は真田昌幸。
文禄2年(1593年)豊臣秀吉の命で従五位下伊豆守に叙任。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦では、父と弟の真田幸村は西軍についたが、信之は徳川家康に属した。
戦後旧領と加増を合わせ信濃・上野両国で9万5000石を領し、信濃上田城に住む。
大坂冬の陣でも戦功をあげ、元和8年(1622年)松代城に移り、加増と合わせて13万石を領したが、沼田3万石は長男の信吉に分与した。
真田信之霊屋 (長野県長野市松代町・長国寺) (平成20年10月27日) |
真田信之霊屋 (長野県長野市松代町・長国寺) (平成20年10月27日) |
建造物
真田信之霊屋
国指定・重要文化財
昭和51年5月20日指定
この霊屋たまやは松代真田家初代真田信之の菩提ぼだいのため没後2年目の万治3年(1660)に建立されたもので、宝殿ほうでんと表門おもてもんから成っている。
宝殿は桁行けたゆき3間、梁間はりま4間の入母屋いりもや造りで正面に千鳥破風ちどりはふをつけ軒唐破風のきからはふの一間向拝いっけんごはいを設け、四面に縁をめぐらし高欄こうらんを設けている。
内部は畳敷。
格天井ごうてんじょうを張り中央に格子戸を入れて内・外陣げじゅんに仕切り、内陣奥に禅宗様仏壇をおいて位牌を安置する。
建物外部には、獅子と霊獣、唐草、竜、りす、ぼたん、鶴に松などの彫刻、塗金の透し彫りの唐草、六文銭などが施されている。
内部にも欄間には、鳳凰ほうおうの彫刻を入れ、壁天井には花鳥を描き、柱貫はしらぬき・組物にもすべて極彩色を施した豪華な衣装から成っている。
表門は切り妻造り、こけら葺きの四脚門しきゃくもんで、棟木むなぎは、中央に六文銭を刻んだ板蟇股いたかえるまたを入れている。
この霊屋は、地方藩主のものとしては比較的規模も大きく、且つ豪華で時代も古く、霊廟れいびょう建築の遺構として甚だ価値が高い。
平成15年3月31日
長野市教育委員会
長国寺
(説明板より)
初代 信之公の墓 (長野県長野市松代町・長国寺・真田家墓所) (平成20年10月27日) |
真田家墓所 (長野県長野市松代町・長国寺) (平成20年10月27日) |
真田家墓所 (長野県長野市松代町・長国寺) (平成20年10月27日) |
史跡
松代藩主真田家墓所
国指定文化財
昭和62年12月25日指定
松代藩主真田家は元和8年(1622)、上田から松代に移封され、菩提寺長国寺も移された。
松代初代藩主信之のぶゆき始め歴代の霊屋たまやが長国寺伽藍がらんの裏(東)に建てられ、その東南の一郭に歴代の墓地が設けられた。
霊屋はもと5棟あったが、現在は信之霊屋(重要文化財)と4代信弘霊屋(県宝)の2棟が残るだけである。
3代幸道霊屋は本堂裏に移建、開山堂(県宝)になっている。
墓地は白土塀に囲まれ、歴代10代の藩主やその子女の墓碑がある。
墓碑は宝篋印塔ほうきょういんとうが21、地蔵型塔2基等で、ほかに12基の献灯がある。
信之の墓にだけ、石の鳥居がある。
ほかに真田家中興の祖で信之の祖父に当たる幸隆、伯父信綱、父昌幸、弟幸村、その子大助らの供養塔や碑がある。
信之の母、妻、歴代藩主婦人などの墓は別の寺にある。
霊屋と墓所が一体として残っていて、江戸時代の大名家墓所を知る上で貴重であるのでこの墓所をはじめとして、境内一帯が国の史跡に指定された。
平成12年3月1日
長野市教育委員会
長国寺
(説明板より)
長國寺 (長野県長野市松代町松代1015−1) (平成20年10月27日) |
長國寺は、天文16年(1547)、真田幸隆公(1513〜1574)が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺を建立し、伝為晃運禅師(1573歿)を開山第一世に招請して、真田家の菩提寺となった。
永禄7年(1564)松尾城外に移され、本格的な禅刹として諸施設が整ったが、元和8年(1622)、上田藩主だった真田信之公(1566〜1658)の松代移封によって現在地に移転し、寺号も長國寺と改められた。
現在、曹洞宗の専門道場として認可されている。
(リーフレットより)
真田信之霊屋 (長野県長野市松代町・大鋒寺) (平成20年10月27日) |
真田信之霊屋 (長野県長野市松代町・大鋒寺) (平成20年10月27日) |
建造物
大鋒だいほう寺真田信之霊屋たまや
長野市指定文化財
平成7年1月20日指定
松代初代藩主真田信之の隠居所書院跡に建てられた霊屋。
信之は明暦2年(1656)隠居し、翌3年7月、新造の隠居所に移った。
同4年(万治元年)93歳の天寿を全うして没し、遺命により、隠居所を寺とし、真田林しんでんりん大鋒寺と号した。
大鋒は信之の院号である。
2代信政は父より先に没したので、3代幸道の時、伽藍が建てられた。
霊屋は書院の場所に建てられ、信之の信仰していた阿弥陀三尊を本尊とした。
正面3間、奥行5間、奥行の柱間は狭く、4、5尺である。
宝形造・カヤ葺きである。
外陣の欄間には三十六歌仙画が飾られているが、残っているのは24枚である。
内外陣の柱2本が円柱で、その上に木鼻付の出組があり、ここだけが仏寺用の木組になっている。
内陣奥中央に阿弥陀三尊、向かって左に信之像(厨子入)、右に2代信政の画像を安置してあったが、明治4年、松代花の丸御殿にあった8代幸貫の像を移し、内陣奥に出張りを新造して三尊を安置し、幸貫像を左、信之厨子を中央に、信政画像を右に安置した。
この霊屋は由緒がはっきりしており、近世初期の建築で、文化的価値の高い建築物である。
平成8年3月31日
長野市教育委員会
(説明板より)
真田信之の墓 (長野県長野市松代町・大鋒寺) (平成20年10月27日) |
忠臣 鈴木右近忠重の墓 (真田信之墓所内) (平成20年10月27日) |
真田信之の墓所 (長野県長野市松代町・大鋒寺) (平成20年10月27日) |
史跡
真田信之の墓
長野市指定文化財
昭和42年11月1日指定
墓碑は高さ3.3メートルの宝篋院塔ほうきょういんとうで、塔身の正面に『大鋒寺殿徹厳一当大居士』、その下の基礎石正面に三行書きで、中央に『骨頭片々即法身』、右に『万治元戌年』、左に『十月十七日烏』と陰刻されている。
真田信之は、昌幸の長男として永禄9年(1566)に生まれ、弟に信繁(幸村)がある。
元和8年(1622)10月、小県郡上田城から移って、埴科・更科・水内・高井の4郡10万石を領知し、民政に力を用い名君とうたわれ、松代藩の基礎を固めた藩主である。
松代藩主として35年、明暦2年(1656)10月、子の信政に家督を譲って近臣とともに柴村の館やかた(大鋒寺の地)に隠居し、2年後の万治元年(1658)10月17日、93歳で死去した。
館の地で荼毘だびに付し、その灰塚の地に墓碑が建てられた。
信之の館をそのまま寺としたとも、館の材を用いて改築したものともいわれるが、信之の法号に依り大鋒寺とした。
平成8年3月31日
長野市教育委員会
(説明板より)
大鋒寺 (長野県長野市松代町柴38) (平成20年10月27日) |
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