真田幸昌 さなだ・ゆきまさ

慶長6年7月24日(1601年8月22日)(?)〜慶長20年5月8日(1615年6月4日)


真田幸村(信繁)の嫡男。
母は大谷吉継の娘(竹林院)。
幸村が配流された紀伊国九度山で生まれ、祖父の昌幸の名を逆にして幸昌と名付けられた。
大坂夏の陣に父と共に出陣し、敵の武将を討って大功を挙げたが、父・幸村の命により大坂城の落城を見届けるため大坂城に戻り、父親と離れる。
大坂城落城時、極めて若年のため周囲から脱出を勧められたが拒絶。
主君の豊臣秀頼が切腹すると、幸昌は加藤弥平太に介錯を頼み切腹した。
享年13歳、あるいは16歳といわれる。


真田幸昌



真田幸昌(大助)
(長野県上田市・上田城





(平成20年10月29日)




中央:真田安房守昌幸
右:真田左衛門佐幸村(信繁)





(平成20年10月29日)

真田幸昌(大助) (1602〜1615)

真田信繁の長男として生まれる。
父信繁と共に大坂冬の陣から夏の陣へと参戦したが、父より豊臣秀頼を守るよう命じられ大坂城中に入った。
元和元年(1615)5月、大坂落城の際秀頼に殉じ、自害して果てた。

(説明板より)


豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地



豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地
(大阪城・山里丸)





(平成20年6月17日)

碑文

慶長20年(1615)5月8日 大坂城主豊臣秀頼とその母淀殿をはじめとする主従約30名は 落城直後の大坂城内で自刃した
その場所については諸説あるが ここ山里曲輪の一角にあった矢倉の中とする説が有力である。

秀頼・淀殿ら自刃の地

慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓やぐらにひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。

(説明板より)


【自刃】

真田大助幸昌は、慶長19年10月に父の幸村とともに大坂城に入城した。
大助わずか13歳。
大助にとって大坂の陣が初陣であり、生涯唯一の合戦となった。
大助は「大坂冬の陣」から幸村とともに真田丸に立て籠もって徳川軍相手に戦う。
真田丸に押し寄せた松平忠直(家康の二男・結城秀康の子)率いる越前勢を銃撃によって敗退させ、伊木遠雄いきとおかつらとともに城外に打って出て、退却する越前勢を数多く討ち取るという手柄によって初陣を飾った。
「大坂夏の陣」でも、幸村と一緒に茶臼山に陣取る。
大助は、因縁の相手となった松平忠直の軍勢とは、この茶臼山でも戦ったが、幸村の死を賭した徳川本陣攻撃には参加できなかった。
越前勢との激戦のさなかに幸村から命ぜられた、豊臣秀頼公の側に仕えよとの命令に従わなければならなかったのである。
5月6日、幸村は討ち死にし、5月7日に大坂城は落城したが、秀頼も淀殿も生きていた。
家康の助命に懸けていた願いもむなしく、秀頼主従は山里曲輪に追い詰められる。
彼らを守って奮闘した大助も多くの手傷を負っており、中でも太ももの傷は致命的であった。
毛利勝永は、大助に大坂城からの脱出を勧めたが、大助は秀頼を守り通して潔く自刃した。
14歳の若さであった。

(参考:『歴史街道 2011年9月号』 PHP研究所発行)

(平成26年4月19日 追記)


墓碑

墓碑
(長野県長野市松代町・長国寺・松代藩主真田家墓所)

右:真田幸村
  慶長二十年五月七日 大光院殿月山傳心大居士

左:真田大助
  慶長二十年五月八日 頤神院殿直入全孝大居士

(平成20年10月27日) 
真田家墓所



真田家墓所
(長野県長野市松代町・長国寺)





(平成20年10月27日)
真田家墓所



真田家墓所
(長野県長野市松代町・長国寺)





(平成20年10月27日)

史跡
松代藩主真田家墓所
国指定文化財
昭和62年12月25日指定

松代藩主真田家は元和8年(1622)、上田から松代に移封され、菩提寺長国寺も移された。
松代初代藩主信之のぶゆき始め歴代の霊屋たまやが長国寺伽藍がらんの裏(東)に建てられ、その東南の一郭に歴代の墓地が設けられた。
霊屋はもと5棟あったが、現在は信之霊屋(重要文化財)と4代信弘霊屋(県宝)の2棟が残るだけである。
3代幸道霊屋は本堂裏に移建、開山堂(県宝)になっている。
墓地は白土塀に囲まれ、歴代10代の藩主やその子女の墓碑がある。
墓碑は宝篋印塔ほうきょういんとうが21、地蔵型塔2基等で、ほかに12基の献灯がある。
信之の墓にだけ、石の鳥居がある。
ほかに真田家中興の祖で信之の祖父に当たる幸隆、伯父信綱、父昌幸、弟幸村、その子大助らの供養塔や碑がある。
信之の母、妻、歴代藩主婦人などの墓は別の寺にある。
霊屋と墓所が一体として残っていて、江戸時代の大名家墓所を知る上で貴重であるのでこの墓所をはじめとして、境内一帯が国の史跡に指定された。

平成12年3月1日
長野市教育委員会
長国寺

(説明板より)

長国寺



長國寺
(長野県長野市松代町松代1015−1)





(平成20年10月27日)

長國寺は、天文16年(1547)、真田幸隆公(1513〜1574)が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺を建立し、伝為晃運禅師(1573歿)を開山第一世に招請して、真田家の菩提寺となった。
永禄7年(1564)松尾城外に移され、本格的な禅刹として諸施設が整ったが、元和8年(1622)、上田藩主だった真田信之公(1566〜1658)の松代移封によって現在地に移転し、寺号も長國寺と改められた。
現在、曹洞宗の専門道場として認可されている。

(リーフレットより)



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